第5話 哀しみの先にあるもの

「ねえ、卯月くんは?」

「は?」


 学校からの帰り、突然後ろから声を掛けられた。

 俺たちの前に現れたのは同じクラスの女子──三吉百寧みよしもねだった。


 今日の気分は絶不調だ。

 全てはあいつのせい。最初は信頼してくれていたように思っていたのだが、突然俺の事を疑い始めた。

 頼んで了承してくれていたことをやっぱり無理だと言われればそれはむかつくだろう。しかし心ではあいつの言っていることはわかってしまう、だから柄にもなく首藤さんに告白をしてしまった。


「あなたたちと一緒にいたでしょ」


 どうして三吉さんが卯月のことを話しているのかはわからない。

 ただ名前を聞くだけで抑えていた苛立ちが無性に蘇ってくる。


「ああ、卯月なら井上に泣かされてたよ」


 隣にいた中岡が誤解をされるような言い方をする。


「おい!」

「どういうこと」


 汚れや傷など一切知らないような美しい銀髪を携えた女子はきつく目を細めた。


「ちが! あいつが俺のことを悪く言ったのが先で……事実を言っただけだよ」

「事実?」


 そうだ。先に攻撃を仕掛けてきたのは卯月だ。


 首藤さんを前にすると言葉がうまく出てこなかったが何とか告白することはできた。

 しかし、須藤さんはそんなことすら興味がないようで、「彼に変なことをしないで」と言い放ったのだ。

 教室で見る印象が嘘のような冷たさ。

 二人の関係性は幼馴染というだけで何も知らないが、あそこまで嫌悪される謂れがない。確かに首藤さん目当てで卯月に近づいたが、嫌がらせなどした覚えもないしする筈もない。


「あぁ。卯月と首藤さんがいると空気が悪くなるって。だから一緒にいるべきじゃないって言っただけ。気付いてなかったみたいだし、でも急に泣き出して……三吉さんだってそう思うでしょ?」


 首藤さんとの件でどうしようもないほどに卯月への怒りが溜まって、屋上で全てをぶちまけた。

 だってそうだろう。俺のイメージなど卯月にしか知らないのに首藤さんは最初から「井上は酷い人間だ」と印象づけていたのだから。

 正直言い過ぎた節はあるが、現実的に二人の未来が明るくないことは目に見えていた。気付いていなかったのなら尚更悪いことではないだろう。


「いいえ」


 しかし、目の前の人物はあっさり否定した。


「は?」

「思わない。誰と誰が一緒にいようといいでしょ。あなたは他人の関係性にとやかく言える立場なの?」


 彼女が何を言っているのかわからない。誰がどう見ようと二人は浮いている。それを疑問視するのがそれほどおかしいことなのだろうか。

 三吉百寧──入学当初からミステリアスと言われ、首藤さんに負けないほど整った見た目をしている。唯一首藤さんと違うのは基本いつも一人でいるところだった。


「三吉さんも一人でいるから分からないんだよ」


 そう──三吉は一人だからこそ、空気がどうなろうがどうでもいいのだろう。卯月同様、一人でいるから他人との認識がズレすぎておかしなことになる。


「一人で何もできないのは大人になって後悔するわよ」


 彼女の言葉が煮え立つような熱い感情を蘇らせる。

 何が大人になったら、だ。まだお前も高校生だろう。

 三吉百寧の印象は良かった。自分を飾らず、コミュニケーションは必要最低限という感じで、接してきた相手に気遣いも優しさもあり、周りからも評価されているように見えた。

 なのに、話してみればどこに優しさが感じられるというのだろう。

 やはり一人でいるような人間はまともではないのかもしれない。

 ただ利用価値はある。首藤さんほどではないにしても三吉も影では人気者だ。彼女と仲良くすれば首藤さんが俺への認識を改めてくれることにも繋がるのではないだろうか。


 彼女も孤独だからこそ他人との付き合い方がわからないのだろう。卯月のように。

 屋上でのことを思い出し、いよいよ自分の感情が制御できなくなってきた。

 でも、俺は間違ってない。

 こうなってしまったのは全てアイツのせいなのだから。



 ***



「はあっ……はぁ……」


 屋上で諦めると決めた──はずだった。

 いざ林檎と離れるという現実に目を向けた途端、言いようのない不安が全身に回り始めていった。

 それからは闇に呑まれないようにただただ走った。少しでも頭が働けばおかしくなってしまう、そんな気がして何も考えられなくなるくらい身体に負荷を与え続けた。

 そのおかげで、今だけは疲労の息苦しさが僅かに心に余裕を与えてくれている。


 呼吸を整え、辺りを見渡せば帰路の住宅街まで来ていた。

 帰る時間も遅くなっていたので俺以外の学生はあまりいなかったのだが、10mほど先に一つの集団が立ち止まっているのが見える。

 そこにいた一人を見て再び気持ち悪いものが内から込み上げてきた。


(井上……)


 集団は井上、そして取り巻きの二人のものだった。

 この場所は細い道で一方通行なので回り道はできない。幸い後ろを見ていないようで気づかれる気配はなさそうだ。俺は一歩一歩音を立てずに近付いていく。


「強がらなくていいからさ」

「強がってなんかない」

「三吉さんも友達作った方がいいよ。一人だと苦労すること多いだろうし。それに一人でいると周りに気遣われたりするのも面倒だろ? 俺なら話聞いてあげられるし、普通に友達としても仲良くできると思う」


(……は?)


 聞こえてきた井上の言葉に血の気が引く。

 一人でいる俺を利用して恋を成就させられずに関係をぶち壊したようなやつが、一人きりでいる人間の心の救いになれるなんてよく言えたものだ。

 あまりの清々しさに、今まで井上に怯えていた自分のことに呆れそうになる。


 そのまま足音も気配も隠さずに近付いていく。

 すると、言い寄られていた人の顔が覗き見えた。


 三吉さん。同じクラスで、俺と同じくあまりクラスメイトと話している印象のない女子。しかし見た目は林檎に引けを取らないほどに整っていて、男子がこそこそ彼女のことをよく話題にしていた。所謂高嶺の花というやつだ。

 スペックは全く違うけれど、一人でいる所や、どことなく知り合いに似ているせいか、俺は密かに彼女のことを見ていた。


(どうして三吉さんに……?)


 おそらくナンパというやつだろうか。学生が学生にそう言うかはわからないけれどその類にしか見えない。


 というか林檎への気持ちはその程度だったのかよ。


 呆れを通り超してもはや理解が追いつかない。

 もしかしたら悪い奴ではないんじゃないか、林檎が好きで周りが見えなくなっているだけなのではないか、などと思ったりもしていたけどこれはもう違う。


 井上という男は何なのだろう?

 三吉さんの困惑した顔を見ていると、冷め切っていた体温がふつふつと上昇していく。

 どうしてこんなやつに三吉さんの、林檎の、そして俺の時間が、人生が奪われないといけないのか。


 ──どうして否定されなくちゃならない? 理不尽だろ。


 疑念が確信に変わる瞬間、頭の中の揺らぎが無くなった。


「無言ってことはいいってことだよね? じゃあとりあえず今からどっか行くか!」

「おーいいね」

「どこにも行かない」


 一歩、また一歩距離を詰める。

 鼓動が耳にまで届く。先ほど感じていた心の悲鳴と同様激しく身体が反応するが、本能はこれに委ねるべきだと訴えかけている気がした。


 どうしてこいつに俺は苦しんでいたんだろう。

 どうして俺は、今まで弱者の皮を被っていたんだろう。


「なんでそんな冷たいの? これから最低一年は同じクラスメイトなんだからもっと仲良くしないとでしょ。ほら行こ」

「ちょっと! 触らないで」

「だってここにいると迷惑じゃん、ほら後ろから人が──」


 痛い目を見るのが弱者ならば、お前の方が相応しい。


 俺は何の躊躇もなく、ナンパしている糞野郎に身体から当たりに行く。

 井上は倒れはしなかったものの横の石垣に身体をぶつけた。


「いっつ……てめ、どこ見て歩いてんだッ!!」

「悪い。誰もいないと思って、気づかなかった」


 恐怖感も何も感じない。異様なほど頭が冴え渡っている。


「ッ! 卯月ッ!!」


 すぐに俺は三吉さんの手を取った。


「え」


 後ろの男に構うことなく走り出そうとする。

 だが何かが足に引っ掛かりそのまま前から倒れる形になった。

 幸い手で受身を取ることに成功したが、アスファルトにぶつけた手のひらと足がジンジンと痛む。


「大丈夫!?」

「馬鹿が。そんなすぐ逃がすかよ」


 やはり引っ掛けられたようだ。

 井上の取り巻きたちはその場を汚い笑い声で埋め尽くす。


「正当防衛だからな。お前からやってきたんだし」


 こうなることは何となくわかっていた。


「……そう……なら」


 これで心置き無く牙を向ける。


「これも正当防衛だよな」


 後ろを向いて立ち上がり、そのまま大きく身体を回転させ、右手の拳で井上の顔をぶん殴った。

 大した威力はないような感触だったが、相手は予想外過ぎたのか殴り飛ばされるように倒れた。


「……なんだ。この程度か」


 騒々しい声も環境音も嘘のように消え失せた。

 空気が止まった場所で、右手から滴り落ちる血だけが、唯一、時を刻んでいた。

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