解決編


 その追いかけっこは数週間続いたが、一度として奴を振り切れたことはなかった。

 当時の京浜東北線のドアはラッシュ時、結構何度も開け閉めされる時も多く、その隙にとばかりに乗り込まれることもあったように思う。

 ダッシュで車両を移動している間、奴がどんな顔してどれほどのスピードで追いかけてきたのかは分からない。恐ろしくて振り返ることができなかったから。

 私の足や反射速度が遅すぎたというのもあるかもしれないが、それでも……

 こっちがぜぇぜぇ言いながら恐る恐る後ろを確認すると、息切れもせず当然の如くそこにぴったり居座られているのは本当に意味が分からなかった。

 とにかく、私の理解の範疇を超えていた。

 こいつをとっつかまえて家まで連行して小一時間正座させ、行為の意味を問いただしてやろうかと一瞬思ったくらいである(たとえ一瞬でもこんな考えがよぎったということは、私の頭も相当おかしくなっていたのだろう)



 そんな風に痴漢及びストーカー行為に悩まされ続けた、ある休日。

 たまたま実家で親戚の集まりがあった。

 ちょうどいとこたちも来ており、結構な人数に。そして盛り上がってきて、やがて最近の仕事はどうだという流れになった。

 話し込んでいくうちに、次第に通勤の話になっていく。当然話題は電車、そして京浜東北線や埼京線の大混雑や痴漢の件になっていった。

 いとこは私よりちょっと年下の女子だったが、やはり電車内での痴漢に悩まされることも多いらしい。そして、痴漢をつかまえた経験もあったようだ。

 やっぱり、よくある話なんだなぁ。そう思った私も何気なく、自分が現在進行形で受けている痴漢の話を始めたのだが――



「……というわけでこんな風にさぁ、毎日毎日追われてて鬱陶しくてー」

「「「えっ???」」」



 とりあえず概要を話した時点で、その場にいたほぼ全員の顔色が、変わっていた。

 それからはもう


「いや、捕まえなよそれ! ヤバイよ!!」

「ちゃんと声あげなさい! それ以上エスカレートしたら、何されるか分からないよ!?」

「地味だから狙われないと思った? 何言ってんの、地味でおとなしそうな女性って逆に狙われやすいんだよ!?」

「俺がついてってやろうか? かわりに捕まえてやるよ」

「あの駅で駄目なら、隣の駅まで車で……いや、駅変えても路線同じだったら意味ないかぁ!?」


 などなど、嵐の如く。

 家族や親戚から口々に言われ、その場で対策まで真剣に親身に考えてもらい、初めて私は非常事態を認識したと言える。

 痴漢やストーカーに対する自分の認識がいかに甘く、危険だったか。周りに言われまくったことで初めて分かった。

 この時何も話していなかったらと思うと、正直今でも震えがくる。



 こうなったらもう、やるしかない。

 何せ、逃げても追ってくるのだ。相手は普通の人間じゃない。

 そんな現実をようやく認識した私だったが――



 いとこがやったように、鉄道警察に突き出す――それしかないのか。

 そんな真似が自分にできるのか。人見知りな上、他人と口論はネット上でさえ大の苦手。他人を怒鳴りつけることすらろくに出来ない自分が。

 家族は「一人が無理ならついていくよ!」と言ってくれたものの。

 既に社会人なのにさすがにそこまで甘えられない。もし助けを借りるなら、本当に対処不能と感じた時にしよう――

 私はそう考えた。

 この状況で誰かの助けを借りられるなら、社会人だろうと学生だろうと借りるべきだと今は思うけども、変なところで意地を張ってしまったのだろう。



 そして――次の朝。

 『奴』はやっぱり、私の後ろにやってきた。

 当然いつも通り、触ってくる。当たり前のように。

 ――だがもう、そんな行為を「当たり前」にはさせない。させてたまるか。



 私は奴の手首を思い切り掴んだ。

 指輪がどうなんて最早関係ない。今まで貴様が私に向けてきた悪意を、そのまま返してやるとばかりに、精一杯爪を突き立てる。そして。



「……やめてください」



 今日こそはっきり言おうと思っていた、この一言。

 しかしやはり恐怖の方がまさっていたのか、どうしても震え声になる。

 相手の反応は分からなかった。やっぱり奴はうつむいたまま、私と目を合わせようとしない。

 だが、もう許さない。聞こえないならもう一度言うまで。



「や・め・て・ください」



 何度も何度も、しつこいです。こちらは分かっているんです、とっくに。

 警察を呼びますよ。

 ――そこまで言ってやろうと思ったが、恐怖心にねじふせられてどうしてもそれ以上が出てこなかった。



 すると相手は、無言で私の手を振りほどき。

 そそくさと、人ごみの中を逃げるように、私から離れ。

 数秒もしないうちに、完全に視界から消えてしまった。



 ――嘘だろ。

 一瞬、そう言いかけてしまった。

 映画やドラマだったらありえない。こんなオチだったらぶっ叩かれる。

 ものすごく拍子抜けするほど、意外な反応だったといえる。

 暴れられたり怒鳴られたりしたらその時こそ警察を呼ぼうと、覚悟していたのに。

 あれだけしつこく追ってきていたのに、手を掴んで抵抗するだけでここまで違うのかと。



 やっぱり、鉄道警察に突き出すことは出来なかった。出来なかったが――

 それでもどうにか、痴漢及びストーカーからは逃れられたらしい。

 声をあげて、抵抗する。これだけでも相手にとってはかなりのダメージだったのだろうか。



 それ以来、奴の顔も姿も全く見ることはなくなった。

 逃げてばかりの時は、あれだけの大混雑の中を執拗に追ってきた癖に、一度だけ声をあげたらそれっきり。

 この心理、未だに理解不能である。



 ちなみにその時、周囲の乗客は――

 全くの無反応でした。

 あまり大騒ぎになるのも嫌だったので逆に良かったのかも知れないけども。



 ******


 痴漢は1回2回程度なら、ほんの気の迷いと思って放置してしまう人も多いだろう。

 しかし毎日のようにやらかし、さらにはターゲットを絞り、相手が逃げても執拗に追いかける。捕まれば一生を棒に振ることぐらい分かっているだろうに、身体に触り欲望を満たすためだけに、赤の他人を毎日毎日追い続ける――

 まさかそんな人間が存在し、自分を狙うとは。

 フィクションではなく、現実で。


 未だにあの痴漢の心理は理解できていない。

 こっちが車両を変えるなどして逃げた時点で、明確に警戒されている(=警察に突き出される可能性がある)と分かっているだろうに、何故毎日執拗に追いかけてきたのか。

 そして何故、一度だけ手を掴んで抵抗の意思を示したら、それだけで消え失せたのか。

 あの時あれ以上のことがあったらと思うとぞっとする。逆ギレされたら、恨まれてさらにストーカーされたら、自宅まで追いかけられたら……

 様々な危険は考えられたが、幸運なことに、十年以上が経過した今に至るまで何も起こってはいない。



 あの時警察に突き出していれば良かったのかと、未だに思う。

 奴は当然ターゲットを変え、別の獲物を狙うだろう。そうなれば私以外にも被害者が出ることになるが――

 でも、あの時点であれ以上、私にできることはなかった。逃げていく奴を追いかけるだけの勇気はなかった。それまで度重なり恐怖を与えられ続けてきた相手を、わざわざ追いかけてつかまえる勇気は。

 現実でざまぁは非常に難しいのです……

 多分、私のような認識甘々な人間はそうそう多くないだろうし、奴が他の誰かをターゲットにしたとしてもきっと、すぐにとっつかまえられて警察に突き出されるだろう。そう願いたい。



 ことが済んで大分経過してからも、私はしばしばこの事件を思い返しては悩んだ。

 引っ込み思案で主張できない自分の性質が、痴漢をストーカーに変えてしまったのだろうか。抵抗の意思を見せずに逃げてばかりだったせいで、痴漢を調子に乗らせてしまったのだろうかと。

 しかし今ならこう思える――

 それでも、あそこまでしつこく追いかけてくるのはありえないだろう!!

 痴漢もストーカーも、やらかす奴が全面的に悪い!!! あの時の私は何も悪くない、ふざけるんじゃねぇぞ!!!――と。



 間違いなく、奴は常識外の異常者だった。

 「普通の」「常識」が通用しない人間が、自分の周囲にも当たり前のように出現するのだという事実は、否応なく認識させられた。

 あと、異性に対する目も悪い意味で変わったと思う。

 片思いの人にこっぴどい振られ方したのもその頃だったような( ノД`)



 そして最後に。

 痴漢は犯罪です。一人で対処出来ないと思ったら出来るだけ早く、周囲のかたに相談するか助けを求めましょう。

 また、あの時声を上げて抵抗しただけで相手が逃げていったのは、本当に幸運だっただけだと私は考えています。同じようなケースで同じような対処をしても逆に悪化する危険も勿論ありますので、可能であれば信頼できる人を味方につけた上で対処したほうが良いです!

 女性専用車両が導入されてだいぶ経過した今は、こういうトラブルも減少したはず……と思いたいけれども。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

痴漢を無視し続けるとどうなるのか?~満員電車で何故か痴漢がストーカーに変貌し追い回されまくった思い出~ kayako @kayako001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ