第2話 メリー・メアーの火冠 2
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少年にリゾートホテルの中を見せてまわった。
ホテルはいつ来ても完全に無人だ。にもかかわらず、ベッドも飲食フロアも、トイレのちり紙まで、すべて完璧に整えられている。もちろん私がやるわけではない。〈ホール〉のすべてがこうなのだ。
民家へ入れば、冷蔵庫に作り置きの煮魚があったりするが、住民が帰ってくることはない。果樹園に行けば見事に管理された果実を手づかみにできるし、コンビニの餡饅はいつだって熱々だ。信号機もきちんと機能していて、青になった横断歩道には音楽がピヨピヨ流れる。だが信号を無視したところで我々を轢き殺すトラックがやって来ることはない。電気も通っているが、無人の発電所が暴走、爆発するようなこともなかった。
〈ホール〉は無人の世界だが、人間世界の機能は完全な状態のまま維持されている。つまり完璧なリゾート地だということだ。誰も私たちを邪魔しないし不自由もさせない。
リゾートホテルの中を案内しながら、私は目にとまった物を勝手にとって使い、少年にも必ず勧めた。
おしぼり。ガウン。果物。すだちタルト。サービスワゴンの飲み物。
「いいんですか?」
もちろん構わない。〈ホール〉ではすべてが野いちごのようなものだ。欲しくなれば摘んでいいし、気に入らなければ踏みつけにして行ってかまわない。
すだちタルトの包みを丁寧に剥き、ゴミをどうしようか迷ってから、それを行儀良く制服のポケットにいれる。
「かんばせさんは、ずっとここに?」
一口食べてそういった直後、少年はタルトを取り落としてしまう。というのも、私が歩きながら服をどんどん脱ぎ捨ててくのに気づいたからだ。
言い訳させてもらうと、これは〈ホール〉とは何かを彼へ教えるにあたって必要な行動なのだ。いや、ほんとに。すがりの鉢植えに下着をひっかけるなどしてから、私は彼をプールへ誘った。もちろん、誤解しようとしまいと彼の自由だ。
だいじょうぶ、温水ですよ。さあプールに浮かんで少年ジャンプでも読みましょう。〈ホール〉にも少年ジャンプはあるのですよ。しかも土曜日発売。
などと誘いかけるのだが、少年は制服姿のままプールサイドでちらちらもじもじを続けている。バカンスにとって邪魔なのは、この羞恥心と常識感覚なのだ。私はそれを教えたかった。
シュウくん、と私はいった。確かそれが彼の名前だったはず、ショウくんだったかもしれない。それともダイくんだったか。ともかく私は彼に自分の目的を語った。彼の少し前の質問に答えたかったのだ。
私は何度もここへ来ています。この無人の世界が私を癒やしてくれるからです。バカンスですよ、ダイくん。
「ショウです」
ショウくんでした。ショウくんは続けて。
「バカンスと服を脱ぐことと何の関係があるんですか? せめて水着とかですね……」
などと不抜けたことをいう。
違うのだ。〈ホール〉を楽しむにはまず常識を捨てなくてはならない。そして、常識を捨てるには、形から入るのが手っ取り早い。具体的には、もう手当たり次第、持っているものを捨ててしまえばいい。
それは、社会のしがらみから自分を開放する儀式でもあるのだ。私は説得を続けた。
卒業証書を焼いた時を思い出して下さい「癒やし」を感じたでしょう。
そういわれると少年はいささか心を動かされたようだった。
とどめに、このまま何の変化もなく家へ戻っても意味はないでしょう、あなたは何も変化せず、日常も変わらない。そういってやると腹をくくったようだった。
彼は持っていた物をぜんぶ、服も、靴下もすだちタルトもすべてプールへ投げこんだ。
浮世の義理から身が軽くなっていくのを彼自身感じたはずだ。下着類やサイフ、携帯端末を投げる時はさすがに躊躇ったが、やり終えたあとは晴れ晴れとした顔になって、かれはブルンと震えた。
それから私たちは、ホテル内から欲しい物、必要な物をプールへ持ちこんだ。手に取りやすいようぜんぶ水の中へ沈めてしまう。
少年ジャンプ。浮き輪。ビーチボール。スナック菓子。ラムネ瓶。生きた烏賊。椅子。冷蔵庫。テーブル。楽器。
裸で游ぐことはすばらしい。水の中で私達は解放された。
「これが夢の世界なんですね。かんばせさんは夢ですか? 僕の夢じゃないですよね?」
楽しみだすと、少年はすべてがただの夢に過ぎないのではないかと恐れだした。
〈ホール〉は夢ではありません。
私は少年の手を取って血の暖かさを確認させた。それで完全ではなかったろうが、少年は安堵したようだ。こちらも人間の温もりを感じながら、そろそろ悪夢について説明すべきだと感じはじめていた。まだ彼に教えていないことがいくつもある。
手をつないだまま、我々は踊った。彼もおずおず合わせてきた。
プールに沈めた椅子や冷蔵庫といったものたちを足場にして、あめんぼのように水面でステップを踏む。我々は裸で、笑っていた。
かつて心理学者の誰かがこういった。「夢とは脳の小部屋で演じられる、無意識の舞踏である」と。
対して〈ホール〉は外なのだ。それが
ドレスを着てダンスホールへ行くみたいに、私たちは脳髄を出て〈ホール〉へやって来る。ドレスの代わりに悪夢を纏って。
〈ホール〉へ来られるのは、なぜか悪夢を視る者だけに限られる。私もそうだし少年もそうだ。
今のところ、悪夢は姿を見せていないが必ず彼とともにいる。
客人は、その夜、脳髄の中で視るはずだった悪夢を連れて〈ホール〉へやって来るのだ。
ここは人と悪夢のための舞台。
故に此所を〈ホール〉と呼ぶことにした。
夢の中でだけで会える人。町。そういう噂を聞いたことは?
踊りながら、私は少年へ尋ねる。つまり〈ホール〉はそういったものなのだ。
「つまり、あなたは現実の世界のどこかで生きているということですよね? 僕と一緒で。また、ここへ来れば会えるんだ」
彼はそう受け取った。
悪夢がともにいることを忘れてはいけない、と私は説明を繰り返した。
「悪夢」と少年。「なぜ悪夢なのでしょう」
そう。それは謎だ。また、悪夢を視る者が必ず〈ホール〉へ来るというわけでもない。
悪夢は〈ホール〉への抽選券のようなものなのかもしれない。しかし同時に〈ホール〉が人を選んでいるように感じられることも、これまでの経験によると、多々あるのだった。
要するに〈ホール〉のルールは謎が多い。また、私にはどうでもいい。
「僕の悪夢はどこに? どこかに隠れているってことでしょうか?」
背中を確認しようとして、彼は足を滑らせ水へ落ちてしまう。
まだ大丈夫ですよ。
私はまだ水面にいて、彼を跨ぎながらそう請け負った。悪夢は最初のうちは姿を現さない。客人の心身へ、多少の影響は与えるが、まだまだ無害なものである。だからこのようにバカンスを楽しめる。
私はそのまま水面を歩いてプールから出た。そうして彼を呼んだ。そろそろ次へ進みましょう。〈ホール〉とはいえ時間は流れているのだから。
水から上がる前に、彼はもう一度確認した。
「あなたは僕の夢ではない? 本当に? ここは現実とは違うところ?」
あなたが今願っているとおりの場所で私ですよ。そう伝えてやると、彼は安心することに決めたらしく、私の手を取り直した。
野いちごを取ったのだ。
「ここがそういう場所なら、ずっといたいな」
卒業式帰りの少年はそう呟いて、涙を一つこぼした。
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