羊のダンスホール
羊蔵
メリー・メアーの火冠
第1話 メリー・メアーの火冠 1
かつてある心理学者がこういった。
「夢とは、脳の小部屋で演じられる無意識の舞踏である」と。
対して〈ホール〉は外だ。
我々は悪夢とともに脳髄から出て〈ホール〉で踊るのだ。
1
私が〈ホール〉でバカンスを過ごすようになったきっかけは、ずっと昔のことでもあるし、そもそもさして重要ではない。私にとって意味があるは、この〈ホール〉が、現実に疲れた心を限りなく癒やしてくれる、という事実だけだ。
〈ホール〉を訪れた客人には、広大な自由が与えられるのだ。
例えば今この目の前にある、リゾートホテルへ入っていって、我々は何をしてもいいし、何もしなくてもいい。
私でいえば、ボーリング遊びをして、壁に大穴を開けたこともあるし、全ての水まわりを開け放ち、ひとつのフロアを完全に水没させてしまったこともある。おかげでホテルの廊下を熱帯魚が游いでいくのを、満足いくまで眺めることができた。
これだけのことをしても、文句をいう者は一人もいない。
そもそも誰もいないのだ。この世界を果てから果てまで探したとしても、人間は存在しない。
無人。無辺。それが〈ホール〉だ。
その
無人の一帯があまりに静かで動かないので、黒煙と躍る炎の轟きには、なんだか写真の中の人物が動いてこっちを見たような、一種異様な存在感があった。その存在感に魅せられ、ちょっと指で焔にふれてみようかと手を伸ばしかけたところへ、背後から声がかかった。
「すみません。なにか様子が変じゃないですか? 人がどこにも誰もいないのです……」
声を掛けてきたのは、学生服を着た線の細い少年だった。現在の〈ホール〉において、多分唯一の人間だろう。
卒業式の帰りに〈ホール〉へ迷いこんできたらしい。通学用のかばんを背負い、証書の筒を片手に持っていた。
どうやら〈ホール〉は初めてのようで、たいそう戸惑った様子だ。
「あの、ここは……どこ……というと変なのですが、どうなっているのでしょう。曖昧なことを訊ねて申し訳ないのですが、知っている町なのに、おかしいのです」
そうですか。現実の方でもこの辺に、と私。妙な言い方だったからだろう、少年は細い首をかしげた。
此所はあなたの住んでいた町とは違う場所ですよ。
私はそう教えてあげる。
〈ホール〉の街並み、いや全ては、現実の世界とまったく同じだ。でも違うのだ。例えば神様のつくった映画のセットだと考えてもいい。
現実そっくりで、でも空っぽなのだ。
ともかく〈ホール〉のことは、別の世界だと了解してくれればいいですよ、と私はいった。
「ホール……」
初々しい少年は噛みしめるように繰り返した。
ダンスホールですよ、と私。
ここで人は悪夢と踊るのです。
少年は伏し目になって睫毛を熱風に震わせている。
それから火に手をかざしたり、鼻を擦ったり、何かの破裂する音にびっくりしたりしていたが、やがて「ここは夢の中ということです?」と訊いてきた。
それは正確ではない。むしろ反対だった。
〈ホール〉は夢の中にあるのではない。〈ホール〉の中に夢があるといった方が正しい。
だが、ここで細かいことをいってもきりがない。
夢の中という考えでも差し支えはないし、もし別の考えをするなら、現実の身体から抜け出して、精神だけになって別の世界へ来ていると思えばいいのではないでしょうか、と提案した。
「体、ありますけど」
と少年はいい、それが〈ホール〉の七不思議ですと私は応える。私も〈ホール〉のことを全て知っているわけじゃないのだ。
ともかく〈ホール〉という別の世界がある。その事が重要なのだった。何処にあるのかも、何故あるのかもその事実の前では些細なことだ。
我々は〈ホール〉にいる、それが全てだ。
現実では、少年ははベッドの上に寝ているのかもしれないし、バス停で微睡んでいるのかもしれない。あるいは、太陽を見上げたときの、目眩の一瞬に、ここへやって来ることだってできる。そしてその一瞬の幻のあいだに、数日を過ごすことだって可能なのだ。
〈ホール〉とはそういうものだ、と私はいったが、たぶんピンときていないだろう。
私は少年の証書入れを指さしてこういってみた。
〈ホール〉で何が起ころうと、何をしようと目覚めてしまえばすべて何もなかったことになっていますよ。それは夢と同じことです。例えば、その卒業証書を焼いてしまっても問題はない。
少年は卒業証書の筒を手に取って眺めた。それから「あなたは?」という。これは名前を訊いたのだった。
「あなたはあ、その、どういう方なんです?」
私は名乗った。
〈かんばせ〉とでもお呼び下さい。あなたと同様〈ホール〉へやって来た客人ですよ。
「それ本名ですか?」
まさか。私は〈ホール〉では現実のすべてを忘れることにしている。名前もそうだし、格好も現実とは変えている。
私は立ち上がると、少年についてくるよう誘った。周辺の案内と説明をするつもりだった。そして〈ホール〉と〈悪夢〉の楽しみ方を教えてあげよう。
「悪夢……」
その単語が少年を戸惑わせたらしい。彼はついてくるべきか迷った。
怖いですか、と私。すぐに現実に帰りたいというのでしたら、帰り方を教えてあげますが?
その言葉を聞くと、少年の目がすっと細くなった。
彼は私について歩きだした。彼は卒業証書の筒を炎のなかへ投げこんだ。やけに冷徹な、こんなもの何の価値もなしといった手つきだった。
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