竜宮城に棲まう者2

 唐突に登場した魔界最強種の関係者を見て、梨丸はつい薄笑いを浮かべてしまった。

「うわあ……マジで居たんだ竜宮城のイロコちゃん。全然モンスターに見えねえなあ、あの子」


「ねえ梨丸……おいでませとか言われても付いていったらダメだからね?」

 少年の肩に手を置きながら、リリはそんなことを言う。


「いやいや、俺は慎重さが売りだから。そんな即死ルートには進まないよ」

 背中の半ばほどまで届いている長い黒髪と、対称的に驚くほど白い肌の少女。不健康そうでさち薄そうで、なによりイロコには敵意というものが全く感じられなかった。


 メガロドンも相手を全く敵だと認識していないらしく、砂地の上で大人しく『待て』をしたままだ。


 やがて小さな少女が小さく腕を振りながら、よく通る声を発する。浴衣の表面が光を乱反射して綺麗だった。

「竜宮城においでませ。そちらに亀を寄越よこします」


 そして探索者ヒロの手紙にあったとおり、大きな亀が泳いでくる。大人のひとりやふたりなら甲羅に座れそうなほどのサイズだ。

 梨丸もリリも、思わず後ずさってしまった。


 だが竜宮城からの亀は何の敵対行動もとらないまま砂地に上がり、のそのそと方向転換をしてこちらに尻尾を向けた。その仕草は『乗れ』と言っているかのようだった。

 こちらもやはり、メガロドンのリムネは敵扱いしなかった。


 もしここで亀に乗って竜宮城に行ってしまったら、もはや生きて帰れる望みはない。どんなに無謀な探索士でも、冒険と自殺の区別は付いている。


 島までは目測で200メートル前後。表情すら判然としない遠距離の相手に、梨丸は対話を試みた。手を拡声器メガホンの形にして声を張る。一応、足下の亀が豹変して襲いかかってくるかもしれない——と警戒しつつ。


「俺は魔界探索士の巴梨丸って言うんだけど、ちょっとお話ししてもらえないかな?」

 初手で相手の名前を出すのは何となくまずそうに思えた。


 イロコは振っていた手を下ろすと、今度は少年と同じように手をメガホンにして語りかけてきた。

「お話をするときはおもてなしをしなさいと、母から言われておりますので」


 ——母?

 梨丸はリリと顔を合わせた。当初は『竜宮城の乙姫』と黙されていた少女が母と呼ぶのなら、それは本物の乙姫ではないか。少年はすぐ目を凝らす。どんな表情の変化も見逃すまいと。だがはっきりと視認できるのは相手の身振り手振りと、あとは不規則に輝く浴衣の表面だけだ。


「俺はこのあと用事があって地上に帰らないといけないんだ。それで聞きたいんだけど、君は人間なのかな?」

「私は人間です」

 イロコは即答した。


 梨丸は『動物に育てられた人間』の話を聞いたことがある。幼少期から動物の群れで育てられた人間は、もはや自分のことを『ヒト』ではなくその動物だと思うようになると。

 だが竜宮城にまう少女は、自己をしっかりと認識していたのだ。


「そうなんだ。実は地上では、魔界に行ったまま帰ってこない人を探してるんだよ。『未帰還者』っていうんだけど。親も君のことを探してるんじゃないのかな? 君はなんて名前なの?」


「私の名前は……」

 イロコはなにかを探すように、上半身を左右にひねる。それはまるで、小さな子がなにを答えるにしても親の顔色をうかがうような仕草に思えた。浴衣の表面が光を派手に反射する。


 だが湖に水棲モンスターの気配はなく、ただ静かにいでいた。


 彼女は竜宮城の乙姫に支配されているという可能性もある。一見いつでも島から逃げられるように見えても、精神的に抑圧されて身動きがとれない——というのは、児童虐待や拉致らち監禁かんきんのニュースで見たことがあった。それと同じように、イロコという少女も可哀想な境遇にあるのではないか。


 少年の胸中に憐憫れんびんじょうが芽生える。

 モンスターから人間が生まれるわけはない。ならばイロコは何らかの理由で竜宮城の乙姫に捕まっているのだ。親が魔界で死んでしまったので帰る場所がないのかもしれない。


「俺と一緒に地上に帰ろう! きっと親御さんも心配してるよ!」

「お外は怖い人が多いからダメだって、母に言われています」


「俺は怖くないよ。こっちに綺麗で優しいお姉さんもいるし」

「でもイロコは……」

 幼げな少女は両手で頬を包み込み、黙ってしまった。『どうしよう』とでもつぶやいているような雰囲気だったが、もちろん小声など届かぬ距離だ。心の動きを表すかのように、浴衣のそで部分がキラキラと乱反射していた。


「よし、ちょっと待っててね! 俺が君のお母さんを説得してあげるよ!」

 魔界では日本の法律が適用されないとはいっても、親に挨拶も無しに未成年を連れ出すのはさすがにマナー違反だろう。


 梨丸は亀の背中にまたがった。の島の形と同じように、この甲羅もこんもりと盛り上がっていて座りやすい。足はさすがに濡れてしまうだろうが、それは必要経費だろう。


「え!? ちょっと待って梨丸!」

 リリが肩をつかんでくる。だが少年としては少女がなぜそんなことをするのかが理解できなかった。美しい顔を見上げながら梨丸は答える。


「え? ちょっとあの子と話をしにいくんだけど」

「ダメだよ! 忘れたの!? 前の人もそうやって行っちゃって、帰ってこなかったでしょ!」


「いやいや、ヒロさんの場合は恐竜を連れていかなかったからでしょ。今の俺にはメガロドンがついてる。強さはさっき見たでしょ? どんなモンスターが出てきても噛み砕いて終わりだよ」

「竜宮城の乙姫は魔界最強種の中でも全くの正体不明でしょう? メガロドンだと相性が悪いかもしれない。いつもの慎重なあなたはどこへいったの?」


「俺はいつだって考えに考えて行動してるよ。海の王者がいれば水棲モンスターなんて敵じゃ——」

 リリが急に抱きついてきた。少女の柔らかな腕が、胸が、少年の頭部をホールドする。


 梨丸の顔面全体がリリの柔らかな胸に圧迫されてしまい、呼吸ができない。首をがっちりと固められているので逃げ場はなかった。

「しっかりして! 何でこんな無謀なことをするの! あなたはひとつの戦いに1箇月かげつも前準備をするような人でしょう!?」


「……!?」

「このまま竜宮城に行ったら死んじゃうよ!」

 魔界仕様のワンピースは生地がゴワゴワしているが、その向こう側は至上の柔らかさだった。温かく、いい匂いがして、心臓の鼓動を感じる。


 少女の抱擁ほうようで、少年は正気に戻った。


 亀の甲羅から立ち上がったが、リリの胸元に包まれているため中腰になってしまう。なんとか鼻と口の呼吸経路だけは確保した形だ。少女は腕の力を弱めてくれない。それほど心配しているのだろうか。


「あれ……? もしかして今俺って鵜の島に渡ろうとしてた?」

「そうです! どうしたの? さっき『即死ルートには進まない』とか言ったばっかりだったのに……」


「ヤバいなこりゃ……」

「そうだよ。ヤバかったんだよ。あのまま向こうに行っちゃったら未帰還者の仲間入りだよ」


「ああうん……助かった。もう大丈夫。ありがと」

「本当に平気? お水飲む?」

 ようやくリリは梨丸を解放してくれた。


 ——胸が柔らかくていい匂いがしてヤバかった……ってのは言わない方がいいかな……。

 そんなことを思いながら、少年は頬を叩いて気合いを入れ直す。


 イロコの方をちらりと見てみたら、彼女は相変わらず船着き場にぽつんと立ったままだ。こちらのハプニングに関しては我関せずといった雰囲気がうかがえる。ただラメ素材の浴衣と水面のきらめきが合わさって、複雑な輝きを放っていた。


 梨丸はできるだけ声を抑えてリリに語りかける。もしかしたらイロコは恐ろしいほど耳がいいという可能性もあるからだ。

「たぶん、あの浴衣の光の反射とかが催眠術みたいな効果なんじゃないかな」

「光の催眠……そんなことってできるの?」


「わからない。でも魔界のモンスターなら何でもアリだと思った方がいい」

「でもあの子、自分のことを人間だって言ってなかった?」


「本当に人間なのか、そう言うように命令されてるのか……情報が無さすぎる。とりあえず今日は帰ろう。急げば夜になる前には魔界を出られるはずだよ」

 リリは小さくふぅと息を吐く。

「うん。もう……本当にびっくりしたよ。いつもはうるさいくらいに慎重な梨丸がいきなり……」


 おそらく今までの探索士たちも、竜宮城に関してここまでの情報なら入手できたのだろう。ただそのあと生きて帰れなかっただけで。


 梨丸はメガロドンの鮫肌をポンポンと叩く。今まで退屈そうにしていたリムネは、列車の車体のような巨軀きょくひるがえした。


「おかしいと思ってたんだよなあ……いい年した男が小中学生の女の子にホイホイついて行っちまうなんて。相手が催眠術を使うんなら納得だよ」

 若干の言い訳成分を込めて少年は独りごちた。


 金髪少女は荷車の荷物を整理しながら、にんまりとした笑みを向けてくる。

「それにしても……綺麗で優しいお姉さん? あなたにとってワタシはそういう風に見えてるんだ」


「え? なにそれ。俺そんなこと言ってたの?」

「さあ?」

 ライトグリーンの目が蠱惑こわく的な光を発する。リリはそのまま荷車を押して行ってしまった。


 梨丸は最後に鵜の島の方を振り返ってみた。相手が魔界生物だとはいえ、話を途中で切り上げたのは失礼だったかと思いながら。

 竜宮城のイロコは、島の船着き場に行儀よくたたずんでいた。距離があるのでその表情はうかがえないが、何となく寂しそうではあった。

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