メガロドン対ウォーターエレメンタル1

「これ大きすぎない……?」

 リリはメガロドンを見上げながらつぶやいた。美少女の顔は困惑で半笑いのまま固まっている。


 なにしろ、クジラのように巨大なサメが地面の上に浮いているのだから。


 大型バスやコンテナトラックをさらにひとまわり以上大きくしたようなサイズ感のサメ。人間では背伸びしてもその背ビレに手が届かないだろう。人を一撃で叩き潰せそうなほど胸ビレは重厚だ。身体の上半分がグレーで腹部が白と、綺麗に色分けされた流線型のフォルム。つぶらな瞳は何を見ているのかがわからない。凶悪極まりないノコギリ歯は人間の手のひら大。


 人間など丸呑まるのみできるほど大きなサメ——古代海洋生物メガロドン。

 そんな怪物を前にしたら、初見の人間はみな同じような反応になる。


 魔界の生物は不思議と神秘の塊だが、その中でもサメは格別に異様だ。しかし梨丸にとって地上をゆく魚類など日常風景でしかない。リリもすぐに慣れるだろう。


 少年はそんなことを思いながら古代鮫あいぼうの鼻先を撫でた。鼻といっても、それだけで梨丸の身長と同じくらいの高さにあるのだが。

「こいつが俺の相棒のメガロドン。名前はリムネ。性別はメスね」


「……サメって飼えたんだっけ? 水族館でも全然見たことないけど……」

 少女の手は鮫肌に触れるか触れないかという微妙な距離をキープしていた。イルカやアシカなど水族館のアイドルとは違って、サメは凶悪な生き物というイメージがあるのだろう。気軽にタッチできなくても無理はない。


 サメは飼育不可能な生き物である——というのは21世紀初頭までの常識だった。

 だが現在ではキャビア用のチョウザメなどが少数ながら養殖されている。


 しかしそれでもホホジロザメはどうしても飼育ができなかった。設備の整った水族館ですら、数日間しか生存させられないのだ。

 マグロやホホジロザメは泳ぎ続けていないと死んでしまう生き物である。海の弾丸とも称されるその巨体を維持するため、泳ぐことでえらに新鮮な水を通して酸素を確保する必要があった。それがエラ呼吸生物の限界だ。


 なのでサメが地上の厩舎きゅうしゃで飼育されているのを見ると、たいていの人は強烈な違和感を抱くという。それは魔界について勉強しているリリも同じだったようだ。


 だが厩舎の出入り口で長話をしていては迷惑だ。梨丸は荷物満載の荷車を押して歩く。

 メガロドンが音もなく地表数十センチの高さをゆったりと泳ぎ、呆然としていたリリもすぐに付いてきてくれた。


「メガロドンも元々は魔界の湖にいたやつだからね。肺呼吸とエラ呼吸のハイブリッド。その稚魚から遺伝子を抽出ちゅうしゅつして、普通のホホジロザメの遺伝子と掛け合わせて、厩舎の施設で孵化ふかさせたのがこのリムネなんだよ」

「リムネって何か由来があるの?」


「ギリシャ語で【湖】って意味だって父ちゃんが言ってた」

「ああ、魔界の湖で親が捕れたから」


「そうそう。こいつが産まれたときはピヨピヨしてちっちゃかったんだけどねえ……今じゃこんなにデカくなっちまった」

「大きすぎるよね……なんか浮いてるし……」


 目的は朝日の中の散歩や雑談ではなく、魔界探索だ。樹海を切り開いて道路が走っているだけなので、木々に遮られて富士山は見えない。朝も早いので観光客の姿もない。少年少女を見送るのは、ただ青い空と富士山麓さんろくの肌寒い風だけ。


 厩舎から少し歩いた位置には魔界突入坑とつにゅうこうがある。その発電所じみた建物内に入り、携帯端末などの魔界に持ち込めない物品を預け、それから人間とサメは別れて【適応室】に入る。


 この部屋は潜水士が深海に潜るときに入る【与圧室】のような役割があるという。だが適応室で具体的に何をしているのか、適応室をスルーして魔界に下りると何が起こるのかは梨丸も知らない。国家機密なのだ。


 準備完了のランプが光り、奥のハッチがゆっくりと開く。そこはすぐに大地の大穴——魔界への垂直下降リフトだ。隣のハッチからはしっかりメガロドンも出てくる。


 巨大な垂直坑はゴツゴツしたむき出しの岩だ。そこへふたをするように、2機のリフトが鎮座していた。その片方へふたりと1匹が乗ったところで梨丸は最終チェックをする。


 手押しのカートの中にはキャンプ用品一式とふたり分のバックパックがっている。魔界には生物素材以外が持ち込めないので、プラスチックも金属も使用していない物だ。カートの車輪こそ天然ゴム製だが、車軸にはベアリングが使えないのであまり滑らかではない。しかし重い荷物を背負って歩くよりはずっとマシだ。


 なにしろ今日は本栖湖もとすこ北西部から河口湖かわぐちこの北岸まで、片道6時間はかかる強行軍なのだから。ただ往復するだけで半日。道中モンスターを要心しながら歩き、目的地では竜宮城の乙姫の調査。とても日帰りではできない仕事だ。


 梨丸は手の平に拳を打ち付けて気合いを入れた。

「手荷物よし、キャンプ道具よし、安全確認よし。それじゃ魔界に出発だ!」

 スイッチを押すと手すりが上がり、ブザーが鳴る。ゴゴンと揺れた後に巨大リフトは地の底へと降下していった。


 ◆ ◆ ◆


 リフトが地底世界に到着するまでは1時間程度だろうか。機械時計を持ち込めないので体内時計に頼るしかない。最下層でリフトの音と振動は止まり、手すりが下りる。そこそこの速度が出るので浮遊感で酔う人も多が、梨丸は適応していた。


 周囲で文明の香りがするものは、昇降機の金属部分と岩壁に転々と並ぶ照明くらいだろうか。それ以外の全ては岩壁むき出しの薄暗い洞窟ダンジョンだ。

 だが通路は巨大建設重機も楽々通れそうなほど広いので圧迫感はない。そこからまっすぐ数百メートル進んだ位置に、魔界のスタート地点が明るく浮かび上がっている。


 洞窟の出口——現世と魔界の境目には半透明の青い薄膜が存在している。これが、金属やガラスなどの非生物素材を拒む障壁だ。どのような理屈でそれが作動しているのかは解明されていない。


 そこを通り抜ければ現実と地続きの不思議な異世界——魔界だ。


 メガロドンがゆらゆらと地面の上を泳ぎ、魔界の境目を通過した。待ち構えているモンスターなどはいなかったようだ。

 そして少年少女は今日も用心深く魔界への第一歩を踏み出した。


 魔界とは、富士山一帯の地下大深度に存在する『もうひとつの富士山周辺地域』だ。地下1万メートル以上を下りたそこに広大な地下空間が広がり、空があり、富士山がそびえ立っている。道路やガードレール、電柱や建物まで——地上と同じものがそっくり地下に再現されているのだ。


 そして、現実には存在しないような幻想生物モンスターが生息している。


 魔界の境目は、富士五湖のひとつ・本栖湖の北西にあるトンネルの出口だ。それは東向きなので朝日を正面から浴びる形になる。

 そこから少し歩けば最初の絶景ポイント、魔界本栖湖のほとりにたどり着く。道路の高さから輝く湖面を見下ろし、彼方かなたには雄大な富士山。


 リリは朝日を片手で遮り、目を細めながら景色を眺めていた。

「んー! 相変わらず魔界も平和だね」


「スタート地点でモンスターが待ち伏せしてなきゃ、しばらくはね」

 富士山北部の鳴沢町なるさわまちから真下に降りて、なぜ富士山北西部の本栖湖に出るのか——地形の謎は判明していない。


 この魔界という空間の『空』は天井や壁に投影された映像だと、調査により判明している。地下なのだから当然だ。なので人工的な空間なのは間違いない。だが誰がどんな目的でこのように広大な地底世界を作ったのかは不明である。

 魔界探索士はただ魔界を探索し、謎を追求し、モンスターを狩り、大金を得るだけだ。


 ◆ ◆ ◆


 そこからはなにごともなく旅は進んだ。

 本栖湖の北西部から出た一行は、南回りルートで湖の対岸まで歩く。そこで魔界最強種ゴールデンゴルゴーンに見つからないよう要心しながら、本栖もとすの市街地を通過した。


 最初のルート選択地点であるそこは、国道139号線が南北に走っている。南に向かえば富士山の西側——富士宮市ふじのみやし方面。北に向かえば目的地である河口湖方面。


 魔界とはいっても、歩くのは荒れていないアスファルトの道路。左右の森からモンスターが飛び出てこないか見張る以外は、地上を行くのと何ら変わりない。

 少年少女と1匹はモンスターとエンカウントすることもなく、やがて富士五湖のひとつ・西湖さいこにたどり着いた。ここの北側道路を東に通り抜ければ、河口湖まではもうすぐだ。


 道路の左は護岸整備された急角度な岸壁。右には木々の間から穏やかな湖が見え隠れする。

 魔界の湖には多数のモンスターが生息しているので危険だ。山からもなにかが転がり落ちてくる可能性がある。


 梨丸は要心しながら、荷車をごろごろと押した。


 太陽の位置を見る限りもう昼だろうか。

 陽光きらめく西湖の向こうには富士山がどっしり構えている。地底世界の偽物とはいえ雄大さは地上の本物と変わりない。地上との違いは、その頂上付近に複数のドラゴンが飛び交っているくらいか。魔界の富士山はドラゴンのねぐらになっているのだ。


 路上をゆったり進んでいたメガロドンが、ふと歩みを止めた。そして右手——湖の方に顔を向ける。

 それを見た瞬間、少年は反射的に体が動いていた。


 サメは人間よりも遙かに鼻がきく。プールに1滴の血液を垂らしただけでも正確に匂いを嗅ぎ分けるほどだ。なのでメガロドンが反応したということは、何らかの異変が起こったとみて間違いない。魔界では人間など弱小生物に過ぎないのだ。自分の勘より古代鮫あいぼうの感覚を信じた方が生存確率も上がる。


 梨丸はリリに抱きついて路上に押し倒した。

「伏せて!」

「きゃ! なに!?」


 少年は少女の苦情を無視して道路に伏せる。

 一瞬遅れて到達したレーザービームがメガロドンの鮫肌さめはだを切り裂いた。


「ぬおお何だこりゃ!」

 梨丸はすぐに状況を確認する。乙女の柔肌を堪能する暇など全くない。湖の方向から何者かが遠距離攻撃をしてきたのだ。それはまるでマグロ包丁のように、リムネの胴体下部を一閃した。傷跡はかなり深そうだ。真っ白い腹部から赤い血液が流れ落ちている。


 巨大鮫の分厚い肉をえぐる切れ味。もし伏せるのが遅れていたら、少年少女は脇腹を切り裂かれて死んでいただろう。たとえ即死はしなくとも、ここは救急医療と無縁な地下世界。重傷を負えば地上には帰り着けない。


AAAAGHアアアアアア!!」

 不意の襲撃に激昂げっこうしたメガロドンは、吠えながら湖に突撃していった。無論、敵を葬るためだ。


 梨丸はリリを抱いたまま荷車の陰に隠れた。一撃分くらいは盾になってくれるだろう。


「ヤベえ! ヤバかった……アレ喰らったら即死だよ」

「今のなに!? 魔界じゃあんな飛び道具なんて……」

 リリはかがみ込んだまま、満載した荷物の陰から頭を出していた。敵の様子をうかがっているのだろう。乱れた髪を直す余裕もない。


 魔界には近代兵器など持ち込めない。それは大前提の常識だ。かといって、この地下世界でゼロから光学兵器を作るのはほぼ不可能。


「あれはウォーターエレメンタルだ! 顔を出したら危ないよ」

精霊エレメンタルって……生き物ですらないの!?」

 少女はすぐに顔を引っ込め、驚愕の声を上げた。


 魔界のモンスターは地上生物とは全く異なる生態系を持つ。当然、攻撃方法も移動方法も常識外だ。少年は冷や汗をぬぐいながら忠告する。

「珍しい生き物だからって、戦闘シーンを見学しようとしたら死ぬよ。モンスターの相手はメガロドンに任せて、ここでじっとしてること」


 そんなことを言いながら、梨丸も湖の状況を確認してしまう。こっそりと荷車の上から顔を出した。おそらく敵はメガロドンに備えているので、人間を砲撃する余裕はないはずだ。


 湖面から数メートルの高さに水色の物体が浮かんでいた。彼我の距離は100メートル程度だろうか。空と湖が保護色になって、その姿も距離感も非常に把握しづらい。


 角張ったガラス材が集まっているような、生物らしからぬ見た目。それが下方に水を噴射して浮遊している。間違いない。少年は思わずつぶやいてしまう。

「クラゲがビーム射ってくるとか反則だよなあ……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る