仏界入り易し、魔界入り難し2

 魔界探索士として同性の先輩は少ないので、少女は貪欲に知識を吸収した。デスク脇のモンスター剥製から睨まれているようでもあり、あまり話に集中できなかったが。もしかしれあれは長話防止の実用品なのだろうか——といぶかるも口にせず。


 今までは魔界の地質や地理を中心に勉強してきたリリにとって、魔界関連業界の話は興味深かった。


 だが相手も社長だけあり、暇ではないらしい。ボディガードのひとりが微動だにしないまま「そろそろお時間です」と告げてきた。


 女社長は壁の時計をチラリと見る。探索士時代からのくせで、腕時計などの機械製品を身につける習慣がないらしい。生物と生物素材以外が出入りできない魔界生活の弊害だ。

「おっと、もうそんな時間か。ごめんねお嬢さん」


「あ、いえ、こちらこそ。長々とありがとうございました」

 リリは立ち上がってお辞儀をした。


 社長も席を立つと、少女の頭から足先までにさっと視線を這わせる。それが魔界仕様のワンピースだということも、業界人ならひと目でわかるのだろう。使える素材や染料に制限があるため、他の服よりどことなく地味なのだ。

「ふうん……それをまだ着てるってことは、これからも探索士を続けるってこと?」


「はい。ワタシは『人生を売っても買えないもの』を梨丸に譲ってもらいました。その恩は生涯かけて返すつもりです」

「この平和な日本で、そんな契約無効だろうに……」


「契約ではなく、心の問題です。ワタシは両親から契約についての大切さを教わってきました。途方もない価値の万能細胞を譲ってもらったのに、それを無かったことにしてしまったら……ワタシはこの先ずっと心の中にモヤモヤを抱えて生きていくことになるでしょう。それはイヤなんです」

「アンタくらいの美形なら他にもっと華やかな仕事を選べるのにねえ……そもそもこの4月から大学じゃなかったの?」


「無期限の休学にしました。親からも許可をもらっています」

「学者先生だねえ、親に似てアンタも頑固そうだ」


 女社長は苦笑した。それは数少ない同性の後輩に対するせめてもの老婆心ろうばしんなのだろうか。

「——それじゃお姉さんからの忠告をひとつ……いいかい? 魔界じゃ決して欲望に囚われちゃいけないよ? カネは働けば手に入るけど、死んだら人生そこまでだからね」


「心に銘じておきます」

「あとこれは内緒にしといてほしいんだけど……魔界ってのは国中のならず者たちをまとめて葬り去る社会装置だよ」


「え?」

 あまりに意外な言葉を聞いて、リリは固まってしまった。それは世間でささやかれる陰謀論のひとつである。魔界があまりにも不自然な空間なので、誰かが人為的に作ったに違いない、と。


 だが実際足を踏み入れたリリならそれが間違いだとわかる。富士山を丸ごと収めてしまうような超広大な地下空間を構築するなど、人類の科学力では不可能だ。


 しかし目の前の社長が冗談を言っているようには見えない。その顔は至って真剣で、そして後輩女子を案じているように思えた。

「ひと昔前なら暴力団とか反社はんしゃの構成員になってたような奴らを、合法的に始末できるこの世の地獄。それがあの魔界富士。だから絶対に深入りしちゃダメ」


「それって……やっぱ魔界って人間が作ったんですか? 誰が魔界を作ったか知ってるってことですか?」

「上が怖いからこれ以上は言えない。商売できなくなっちまうからね」


「はあ……はい。そうですね」

 大企業の社長ともなれば、政府の人間ともそれなりに付き合いがあるのだろう。そして知りすぎた人間がある日突然不審死を遂げる——というのは日本の歴史上定期的にニュース番組を賑わせていた。

 リリとしても話を深掘りしてこれ以上相手を困らせるつもりなどない。


仏界ぶっかいやすし、魔界まかいがたし……これ偉いお坊さんの言葉らしいけど、本当にその通りだよ。よっぽど神経図太くなきゃ魔界なんかに入ろうとは思わない。どんなにでっかい欲望があっても、死んだらそれまで……今のアンタならわかるでしょ?」


「それはそうですが……でも」

「少なくとも、アンタみたいな良いとこのお嬢さんが行くところじゃないよ。先輩として言えるのはこれくらい」


「それでも……」

 それでもリリは魔界への関心を消せなかった。梨丸への恩義だけではない。個人的に、魔界という謎空間にとても興味があるのだ。


 本来なら大学でも、近年新設された魔界学を専攻するはずだった。だが平和な地上で座学をするより、現地に行った方が何倍も勉強になるのは確かだ。限られた資料を基に議論や分析をするよりも、実際に足を踏み入れなければ得られないものの方が遙かに多い。


 梨丸がリリからの依頼を契機として魔界最強種への挑戦を始めたように、

 リリも梨丸と恐竜の戦いぶりを見せられて、魔界フィールドワークの道を歩もうと決意したのだ。


「——それでもワタシは魔界に潜ってみたい。前人未踏の地を冒険してみたい。臆病で慎重で……でも勇気ある彼についていけば……きっと魔界の秘密も解明できるんじゃないかと思うんです」


 魔界エクストリーム社長は大きく息を吐いた。まるで、年下女子が地獄への道を進んでいってしまうのを止められなくて残念がっているように。

「そうかい、それじゃお父さんによろしく。死ぬんじゃないよ」

 先輩探索士はそう言うと爽やかな笑顔になり、後輩女子を丁重に送り出してくれた。

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