人生を売っても買えないもの【エルフの万能細胞】2
リリの妹が入院する病院には、16時までには到着できた。4月も初めなので日はだいぶ低い。
病院に黒塗り高級車の群れが乗り込むとなれば、たいていの人は有名人や上流階級がやってきたと思うだろう。だが多くの黒服に護衛されるように降り立ったのは、世間からチンピラ扱いされている若手の魔界探索士。
建物の敷地外や駐車場内、そして病院の窓からは多くの人々が様子をうかがっていた。しかし出てきたのがただの若造だと知ると、それらの野次馬は落胆の表情を浮かべながら散っていく。梨丸は何だか申し訳なくなってしまった。
すでに病院側へは連絡が行っている。
少年少女と黒服の集団は迷うことなく目標の
病室の前では主治医と看護師が待っていた。だが病院にふさわしくない風体の集団がぞろぞろやってくるのを見ると、医師は困惑の顔で制止してきた。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。ここをどこだと思ってるんだ。ICUだぞ? こんな大人数で——」
そこに役人のひとりが割って入る。
「
「
驚く医師に紙の書類を提示し、役人は集中治療室のドアを押し開ける。黒服の群れに交じって少年と少女も室内に入った。
リリの妹——謎の奇病に冒された
以前説明があったとおり、全身の細胞が少しずつ変異していっているのだろう。たった2日でずいぶん病状が進行している。
ベッドサイドに置かれた複数の機材から数十本のチューブやコードが伸び、少女に接続されていた。
脳と心臓さえ無事なら無理矢理にでも延命できてしまうのが人間という生き物だ。しかしそれにも限界がある。リアの症状がどの程度進んでいるか梨丸は把握していなかったが、内臓機能も低下しているのだろう。見る限り呼吸は非常に浅い。
「間に合ったか……」
少年はポケットから革袋を取り出した。その中から慎重に慎重に、1枚の薄膜を取り出す。あらゆる怪我や病気を癒やすというエルフの万能細胞だ。
「これが噂の……! 本当に手に入れるとは……」
梨丸の持つ万能細胞を医師が手に取ろうとした瞬間——白衣に包まれた身体が吹き飛んだ。そのスリムな肉体は別のベッドのモニターアームにぶつかり、室内の静寂を破る。
「——何だ?! なにをするんだ! ただ触ろうとしただけじゃないか!」
医師は抗議の言葉を上げた。
だが梨丸はなにもしていない。周囲ではすでに黒服たちがビデオカメラでの撮影を始めているので、証拠は山ほどある。
役人のひとりがカメラから目を離さず指摘してきた。
「巴さんは何もしていませんよ。あなたがその万能細胞に触れようとした瞬間、勝手に吹き飛んだだけです。その際、薄膜が少し光りましたかね?」
梨丸はうなずいた。
「そうですね。これがゴールデンゴルゴーンの言ってた『所有権』ってやつなのかな……?」
この世に奇跡をもたらすマジカルアイテムには、窃盗防止機能でも備わっているのだろうか。それらの解析は研究職に任せるしかないだろう。この際そんなことは些細な問題だ。
最優先はリリの妹を助けることなのだから。
だが医師は、今度は梨丸の腕を掴んできた。
「待ってくれ! うちの院長がこれの現物を見たがってたんだ。まさか本当に確保してくるとは思わなくてね……到着が少し遅れそうなんだよ。もう少し待ってくれないか?」
少年は答えなかった。この場合の決定権を持つのはリリだけだ。いつ手遅れになるかもわからない妹を放っておき、見知らぬ院長とやらが到着するまで待てるのか。いくら無償の愛をもつ少女でも、身内の安全より赤の他人の好奇心を優先するはずがない。
「ダメです!」
集中治療室にリリの鋭い声が轟いた。
「——ワタシの妹は今も苦しんでいるんです! 万能細胞を見たいならあとでごゆっくりどうぞ!」
さすがに厳しい職務規程に殉じているだけあり、医師はそれ以上の追及をせず1歩引いた。
「失礼しました……せめてそれがどのように作用するのか見させてもらいます。それにしても、こんな
「梨丸お願い……!」
少女の要請に
なので、とりあえずリリの妹の額に万能細胞を貼り付けた。
それからどうなるのか——部屋中の人間が無言のまま見守っていた。医療機器の音だけが穏やかなBGMを奏でる。
やがて——花野井リアの全身からおびただしい量の湯気が噴き出してきた。
梨丸は思わずのけぞり、腕で顔面をガードする。
「うおおお! 何だこりゃ!」
運動を終えたばかりのアスリートも湿気と熱気をまとうものだが、目の前の眠れる女児はそれ以上。もはや蒸気機関だ。
シューシューいう蒸気は少女の身体からいくらでも出てくる。さほど広くはない集中治療室内はまたたく間に湿度が急上昇し、
一寸先は白い闇という異様な状況。リリは手探りで妹の位置を探り当て、その小さな身体を揺すっていた。ベッドがわずかな軋み音を立てている。
「ねえリアちゃん! 平気なの? 熱く……はないけど、ねえ!」
「こりゃすげえ……
梨丸はどうにかしようとするのを諦めた。医療の素人にこれ以上できることはない。病室の窓を勝手に開けるのもマナー違反だろう。換気システムが仕事をしてくれるのを待つだけだ。
この様子を見る限り、エルフの万能細胞は間違いなく仕事をしたのだから。
蒸気の発生がストップしてから1分もしたら、ようやく室内の空気も澄んできた。
「おお、これは!」
最初に歓声を上げたのは医師だった。つい先ほどまでゾウのように肥大化していた病人の右足が、完全に元のサイズまで戻っていたからだ。知的好奇心に突き動かされているのか、水の
ビデオ撮影中の黒服集団からもざわめきが起こる。
だが意外にもリリは取り乱していなかった。ただ妹の様子を確認すると、湿った床に膝をついて大きく息を吐く。
「ああ……間に合ったあ……治ってるよリアちゃん」
外野が病院にあるまじきボリュームで騒いでしまったからか、やがてリリの妹は目を覚ました。周囲をきょろきょろと眺めて現状を把握したのか、彼女は弱り顔になってしまう。
「あれ……ここどこ? アタシ相部屋になっちゃったの?」
完全に
「——やだなあ……どうにかしてよお姉ちゃん。アタシ他人がいると眠れないの知ってるでしょ?」
◆ ◆ ◆
つい先ほどまで意識不明のまま生死の境をさまよっていた花野井リアは、再び以前の通常病室に戻された。もちろん個室だ。
看護師がそんな少女の各種健康チェックをしていた。
「はい花野井さん、あーんして」
「あー」
リリの妹は病院関係者に対しては素直なようだ。ベッドの縁に座ったまま大人しく大口を開けている。
しゃがみ込んだまま
「虫歯まで治ってます……!」
「ふざけるな!」
医師は拳で壁を殴った。医療従事者としてのプライドが著しく傷つけられた気分なのだろうか。
「——医者になるのにどれだけ苦労したと思ってんだ! ろくに遊ばないで勉強勉強!
その様子を見ていたら、何だか梨丸は申し訳なく思えてきた。改めて聞くとエルフの万能細胞の効用は相当な理不尽だ。こんなものが広く普及しては医者も商売あがったりだろう。
「あの……なんかすいません。あとこれ、見たがってたみたいなんで」
少年は万能細胞を差し出した。親指の先ほどあったそれは、少女を治療したあとでもさほど減っていない。
医師は呼吸を整える。すぐに飛びつくほど不用心ではなかったらしい。
「……さっきのように吹っ飛ばされることはないかな?」
「どうなんでしょう……詳しい仕組みとかよくわからないんで」
「むうう……しかしこれを素手で触れる機会はまたとない」
医師は恐る恐ると手を伸ばした。だが今度は謎の衝撃に阻まれることなく、万能細胞を手にできた。梨丸が許可したので『所有権』の規定に引っかからなかったのだろうか。
主治医は目を見開き、
「どこからどう見てもただの薄い皮膚にしか見えない……どんな
「でも小惑星の砂を取ってくるよりは楽でしたよ? あっちは絶対に年単位の時間がかかりますけど、それに比べりゃ魔界は日帰りでいけますんで」
「いや、楽に取れるのなら1000億円単位の値はつかない。圧倒的な実用性があり、それに比してあまりにも入手困難だからこそ政財界をも動かせるんだ。以前は馬鹿にするようなことを言ってすまなかった」
医師は意外にも素直だった。思えば正体不明の奇病などという、危険な患者の治療を受け持っていたのだ。職業倫理が備わっていて当然だろう。
「別に。俺たち魔界探索士がチンピラ同然ってのは本当なんで。モンスターより凶暴なのが人間ですからね。今回も万能細胞をここに持ってくるまで誰かに奪われないか心配で心配で……」
少年は医師としばらく雑談を楽しんだ。勉強とクソ度胸——方向性は違えどお互い努力を重ねてきた者同士、理解し合えないはずがない。
まだしばらく検査入院が必要だと告げられた花野井リアは、退屈そうな視線を少年に注いでいた。自分が主役でないと気が済まない性格なのだろうか。
姉のリリはそんな妹をただにこにこと見つめていた。
——【人生を売っても買えないもの】を使って女の子の人生を買い戻せた……って、なんか妙な話だなあ。禅問答みてえだ。
魔界の謎はほとんど解明されていないが、とにかく自分も姉妹も死の
ただ手にした大金で豪遊するだけでは、このささやかな幸福を味わえなかっただろう。
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