人生を売っても買えないもの【エルフの万能細胞】1

 冥土のみやげも思わせぶりな遺言も無い。負傷した恐竜の戦いは、獲物を見逃して終わりだ。


 ◆ ◆ ◆


 強敵を打ち倒したという興奮はない。前人未到の偉業を成し遂げたのだという達成感もない。ただ偉大なる生物への敬意が胸の中を占めていた。

 梨丸は来た道——本栖湖の北回りルートを戻っていた。あごを砕かれ負傷したティラノサウルスを横に従えて。


 恐竜にも意思があり、感情がある。おそらくは酷く落胆しているのだろう。地球最強の咬合力こうごうりょくで獲物をみ千切ろうとしても敵わなかったという現実に。そして目立った戦利品を得られなかったという空腹感に。


 恐竜にとっての戦利品とは獲物の肉だが、少年はどんなA5等級の肉よりも高価な品物を手に入れた。


 入手したエルフの万能細胞は、親指の先程度の大きさでしかない。二重の革袋に入れて、ポケットに突っ込んである。こんな個人で持ち歩けるようなものが時価1兆円以上だとはあまりにも現実感がないのだ。


 後ろからリリが震える声が聞こえてくる。

「なくさないでね……なくさないでね? 誰かに売ったりしないでね? 病院まで持っていってね?」


「あんな思いをしてやっと手に入れたんだから、なくさないよ。それよりもここでモンスターに襲われるって方が現実的なバッドエンドだね」

 梨丸は冗談を言いながら周囲を警戒する。だが地上には不審な物陰は見られない。飛行系モンスターも飛んでいないようだ。敵性生物といえば、左手に見える本栖湖の水面を今日も元気にサメが泳いでいるだけ。


 顎の骨を負傷しているとはいえ、ティラノサウルスなら尻尾や踏みつけだけで並のモンスターを蹴散らせるだろう。


 だが異様な高額品を持っていては、緊張感がおさまらない。湖を半周して魔界のスタート地点に戻るまでのおよそ1時間半は、戦闘中よりも生きた心地がしなかった。


 やがて本栖湖の北西部まで歩き、トンネルに入り、薄青い魔界の境目を通り抜けたことで、梨丸はやっと気を抜けた。


 ゴツゴツした岩の洞窟ダンジョンを進み、大型リフトに乗り、安全確認をしてから上昇ボタンを押す。ゴゴンという音と揺れが同時に感じられ、リフトが動き出す。

 危険なモンスターの世界から、平和な人間の世界に帰れる——このときの上昇感がどれほどの安心感を少年にもたらしたかは、言語で表現できないほどだ。


 梨丸は全身の力が抜け、大の字に寝転がった。

 リフトの床板が細かく振動している。それが全身に伝わってあまり心地よくはなかったが、少年にはもう立ち上がる気力がなかった。


 ティラノサウルスも背中を丸めて休んでいる。下顎を床板にそっと着けるような姿勢なのは、やはり痛いからなのか。

 リリは梨丸の横に体育座りをしていた。


 魔界最強種は倒せなかったが、それ以外の目標は達成できた。全員生きて帰れたのだからこれ以上無い結末だろう。


「思えばかなり無茶やったなあ……らしくねえ」

 少年は苦笑した。

「——魔界じゃ勇者になろうとしたやつほど早死にする……とか偉そうなコト言ったくせにさ」


「うん……ワタシも驚いたよ。梨丸いきなり大声上げながら走っていっちゃうんだもん」

 そこに皮肉るようなニュアンスはない。脚をきつく抱えて体育座りし、膝の上に顎を載せ、少女はその瞬間を思い出したかのように微笑を浮かべていた。


「ティラノの噛みつきも完璧じゃないからね。たとえば歯の1本でも敵の胸骨きょうこつとか肩甲骨けんこうこつに引っかかっちゃってたら、他の歯もそれ以上敵の体内には食い込んでいかない。顎の骨ってひと塊だからね」

「ああ、そっか。そうだよね」


「だからたぶんあの時点でもゴルゴーンの肺とか心臓は無事だった。内臓の配置が人間と同じなら、だけど。あそこで早いとことどめを刺しとかないと、万能細胞で回復されたら詰みだ! って思ったら自然と体が動いてたんだよ」

「そういえば相手は結局最後まで自分を回復しなかったよね……なんでだろ」


「『姉から預かった貴重品』ってのが本当なんじゃないかな。ずいぶん年長個体を怖がってたみたいだし……リリも妹さんとガチ喧嘩けんかしたりして怖がられたことあるの?」


「えっ!? いやワタシたちは……結構仲いいよ?」

 あはは、と少女は一瞬だけ誤魔化ごまかすような笑みを浮かべると、すぐ真顔に戻る。あまり追及されたくない話題なのだろう。

「——でもゴルゴーンの言ってた『所有権』って何なんだろうね?」


「どうなんだろ……指紋とか静脈じょうみゃく認証しないとコレが機能しないのかな?」

 梨丸は万能細胞を収めたポケットを、作業着の上からポンポンと叩いた。


 そのように雑談をし、時には疲労感にまどろみ、リフトが地上に到着するまでの約1時間は案外短く感じられた。


 ◆ ◆ ◆


 リフトが地上の魔界突入杭にまで到着すると、入ってきたときの『り専用』通路には戻れない。別ルートの『出る専用』にしか進めない。これは魔界探索士同士の“衝突”を防ぐためだ。もちろん通路で物理的に衝突するのではなく、獲ってきた獲物を奪い取ろうという無法を防ぐためでもある。


 そこから梨丸とリリはティラノサウルスと別れ、人間用の『適応室』に入る。ここで過ごす間に新しい服に着替えてから消毒するのが義務だ。モンスターの返り血からウイルスなどが蔓延しないための措置である。


 脱いだ服は密閉容器に入れ——もちろん万能細胞はしっかり新しい服のポケットに移してから、適応室を出る。


 適応のための待機時間は全員同じだ。リリとティラノサウルスとも合流した梨丸は、出口用ハッチの前に立つ。すると自動でハッチが上に開いていった。突入杭の建物内では他の職員とも滅多に顔を合わせないで済む。これは機密保持のためとも言われている。


 梨丸はようやく、草木香る富士の裾野すその——山梨県鳴沢町なるさわまちに帰還した。


 だが建物を出た少年を待っていたのは、無人でだだっ広い駐車場ではなかった。

 黒塗りの高級車に、黒服の男女たち。ハッチの向こうにはそれらがずらりと並んでいたのだ。全員サングラスをしていて顔の判別はつかない。


 そのうちのひとりの男が少年の前に進み出てきた。

「巴さん、首尾は?」


「ここに」

 返答も短く、少年はポケットを叩く。

「まさか本当に……!」

 男は抑えた様子で驚くと、仲間たちの元へ戻り何やら相談を始めた。


 威圧的な黒服の群れを見て、リリは梨丸の後ろに隠れてしまう。

「ねえ梨丸……この人たちは……?」


「ああ……別に心配ないよ」

 少年は振り返ってほほえんだ。

「——ほら、魔界探索局のお役人だよ。今日ゴールデンゴルゴーンをやりにいくって連絡してたから、迎えに来てくれた。万能細胞は超高額品だからね。一般人がポケットに入れて持ち歩くにはあまりにも危険すぎるって」


「そういえばそんな話もしたっけ……忘れてた」

 少女は少年の陰から出てくると、黒服に向けて会釈をする。


 ティラノサウルスは役人たちに任せ、梨丸はこのあとすぐ黒塗りの車に乗って東京まで行かねばならない。リリの妹の病気を治すため。役人たちはその一部始終を記録する役目もあるのだ。


 少年が役人とやりとりをしていると、その場にそぐわない子供が車の陰から姿を現した。その子は大人たちの足下をうろちょろと走り抜け、梨丸の前まで来ると見上げてきた。


 近所に住む幼稚園児の男の子だ。児童はなぜか両手を挙げて喜んでいた。

「ねえナッシー、またモンスターたおしてきたの?」


「え……何でこんなとこ居んの?」

 少年は意外な珍客を前に呆然としてしまった。まだ時間は昼過ぎ。そもそも町の北部の市街地はともかく、南部の魔界関連施設で子供の姿を見るのはまれだ。

「何かスゴそうな車がいっぱい走っていったから、ついてきたの」


「そうなんだ。元気だね」

 梨丸は幼児のバイタリティに感心した。車を走って追いかけようなどという無茶ができるのは、せいぜい小学生までだろう。

「ねえねえ。ティラノサウルス怪我しちゃってるけど、モンスターと恐竜、どっちが強い? みんなはドラゴンの方が強そうっていうんだけど、恐竜も大きいし強いよね?」


 不意な質問に、梨丸は思案した。子供の夢を壊すのは抵抗がある。だが過剰な夢を見させては、子供を将来危険地帯に送り込むことになる。


「どっちもスゴい強いよ」

 今回の戦いで、少年はそれを嫌というほど思い知った。地上の王者ティラノサウルスがあんな細い美女相手にパワー負けするなど、実際目にしなければ絶対に信じられなかっただろう。


 現代に蘇った恐竜という、科学の神秘。

 魔界に生息するモンスターという、生命の神秘。

 そのどちらも、ちっぽけな人間からしてみれば何と強大で魅力的なことか。

「——ホント、人間じゃ絶対勝てないくらいどっちも強いし、カッコいいよ」

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