アガペー——魔界に響く姉妹の愛3
そして少女は今、魔界本栖湖のほとりでモンスターと対峙している。
ただの一般人・リリ
魔界最強種の1体・ゴールデンゴルゴーン。身長およそ160センチ。
両者とも体格はそう変わらない。だがゴルゴーンには長大なヘビの下半身が付いている。その長さは目測でおよそ10メートル。
敵は約20メートルの距離を開けて足を止めている。これならすぐに死が訪れるということもないだろう。
相手の武器が槍や弓矢ならともかく、ヘビの下半身は鞭のように振るうものだ。直進はしない。相手を激怒させてしまっても、最初の一撃は避けられる。もっとも、その後逃げ切れる可能性は絶望的なのだが。
なので梨丸はすぐにでも戦闘に移れるよう、ティラノサウルスを片手で制していた。ネックは頭を下げた待機状態だが、指示を下せばすぐにでも飛びかかれるよう訓練されている。
弧を描いて襲い来る
敵と数十メートルまで接近してしまった段階で、もはや逃げられない。交渉を成立させるか、魔界最強種を倒すか——そのどちらかを達成しなければ死あるのみ。
リリは敵意を示さないように両手を挙げている。ここで梨丸が武器を握ったり、ティラノサウルスが威嚇の声を発してしまうのはマイナス材料だ。少年も武器から手を離し、
ゴールデンゴルゴーンは非常に美しい顔立ちだが、表情が無い。なにを考えているかも読めない。しかし足を止めたことから、少なくともこちらと対話をする意思があるということだ。腕もだらりと下げていて攻撃の意思は見られない。
深呼吸をすると、わずかに震える声でリリは話し始めた。
「おはようございます。ワタシはリリ花野井といいます。本日はあなたにお願いがあって来ました」
『あらあらお嬢ちゃん、大した覚悟だこと』
ゴルゴーンは口を開けた。あまり感情の感じられない、冷たい、しかし透き通るような声だった。
『——恐竜を従えているのに、あなたは欲深い人間ではないようね?』
リリの顔に驚きと喜びが同時に浮かんだ。しかしここで気安い口をきくほど
「はい、ワタシはお金が欲しいのではありません——あっ、お金というのは……」
『知っているわよ? 人間にとって最上の価値を持つ物体、もしくは数字』
少女としては魔界のモンスターが金銭の概念を理解しているのかわからず配慮したのだろう。
だがゴルゴーンは思った以上に人類社会を学習していた。梨丸もこれには驚いた。
リリはしばらく困ったような仕草をしていたが、すぐに調子を取り戻す。
「それで、ええと……あなたのことはなんとお呼びすればいいでしょうか。ワタシたち人間はあなたのことを通称でしか知りません」
『私に個体名はありません。好きに呼びなさい。それと手を上げる必要はない。我らは人間を怖れたりはしません』
少女は息を飲むと、指示に従い手を下ろした。
「はい……それではお願いを申し上げます。ワタシの妹が謎の病(やまい)に冒されて、いつまで生きられるかわからない状態なのです。その病気を治すため、あなたが持っているという【エルフの万能細胞】を譲ってほしいと思い、ここまで参りました」
『……』
ゴルゴーンは黙ってしまった。だが気分を害したという様子ではない。
「地上世界にもエルフの万能細胞はいくつかあるのですが、それは非常に希少価値があり、高価なのです。ワタシがいくらお願いしても譲ってはもらえませんでした」
そのときの悔しさを思い出したのか、リリは歯を食いしばった。
「——ワタシは妹のためなら自分の人生を
『なるほど……それでそちらの古代生物なら私を倒せる思ったのかしら?』
相手の声色には余裕がある。ドラゴンすら退ける怪物なのだ。空を飛べないティラノサウルスなど敵ではないと思っているのだろう。
梨丸にとっては意外な展開だった。モンスターがここまで人間の話を聞いてくれるなど。ひと言ふた言を交わしただけで、すぐ戦闘開始になると思っていたのだが。
つまり相手を見て判断しているのだ。目の前の人間が欲望に駆り立てられた魔界探索士なのか。それとも献身的な精神を持つ無欲な一般人なのか。
邪心を持たなければ会話が続くというのは貴重な発見だ。専門家では決してたどり着けない答えだろう。今までは金銭目当てではない学者系の人物すら犠牲になってきた。おそらく【欲望】そのものがいけないのだろうか。金銭欲も知識欲も、全て等しく薄汚い欲望という考え。
魔界という空間を支配している最強種にとって、人間など邪魔者でしかないのだろう。
リリはティラノサウルスにちらりと視線をよこしてから、すぐ相手の目を見る。
「彼から話を聞いた限りでは、あなたを倒すのは無理だと思います」
ここで無駄に相手を刺激しても得るものはない。少女は賢明に会話を運んでいた。
『正しい判断だわ。その大きなトカゲが襲いかかってきていたら、あなたたちはすでに死んでいたでしょうね』
怪物の声に自慢するような調子はない。ただ事実を述べているだけなのだ。
リリは頭を下げた。
「どうかお願いします! エルフの万能細胞を譲ってください! ほんの少しだけでいいんです! 私はそれを誰かに売ったりはしません!」
しかしその表情には、モンスター相手に頭を下げるという行為が通用するのかという困惑が浮かんでもいる。
ゴールデンゴルゴーンはここで初めて感情の変化を見せた。肩掛け鞄のサコッシュを手で押さえながら、軽くため息をついたのだ。
『困ったわね……この万能細胞は大事な預かりもの。姉の許可なく譲っていい物ではないの』
これは初めて聞く情報だ。梨丸は握る拳に力がこもった。この末っ子個体が欠けた耳をそのままにしているのは、それが理由だったのだ。それほどの貴重品。
少女は頭を上げた。落胆を隠してはいなかった。そして若干の恨みを込めて相手を見る。その視線の先はおそらくサコッシュだ。蛇女の仕草から、そこに万能細胞が入っていると踏んだのだろう。
「ワタシは妹のため、命を懸けてここまで来ました。どうしても引くわけにはいかないのです」
『あなたに
「下っ端……魔界最強種と呼ばれるあなたが……?」
リリは驚いていた。
しかし一般人であるリリ以上に、梨丸は驚愕した。ゴルゴーンがユニコーンやドラゴンを一蹴するところは実際に見たのだ。どう考えても、魔界というモンスターはびこる危険地帯での頂点・最強種。それがただの下っ端など信じられるわけがない。
『だから、あなたたち人間が法に従うように——私も魔界の
「そんな……」
リリは両手を強く握っていた。交渉が決裂したらあとは戦うしかない——というのは当初の想定通りだ。彼女は命を落とすなど承知の上でここまできた。
相手の初撃がリリに降りそそげば、ティラノサウルスが突進する時間を稼げると。
だがゴールデンゴルゴーンは少女を殺しにこなかった。ただその美しい顔に悲しげな微笑を浮かべていた。
『あなたは無償の愛によってここまで来ました。その勇気に敬意を表して見逃しましょう。姉たちが戻ってこないうちに、早く立ち去るといいわ』
「ワタシは妹のため、逃げるわけにはいかない。意思の疎通ができる相手とは戦いたくないのですが……」
『ならばあなたは下がりなさい。戦いは後ろの恐竜の役目でしょう?』
怪物の視線はティラノサウルスに注がれる。
助走無しでドラゴンを殴り飛ばす、頑強なゴルゴーンの尻尾。その10メートルにもおよぶ長い凶器が、砂地の上で不気味に波打ちはじめた。
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