オーバーレイテッド——用心深さにも限度がある2

 リリはうつむいたまま、梨丸の手首を強く握ってきた。

「ねえ……ワタシになにかを要求して? 命がけの仕事なのに、あなたはワタシに対価を要求してこない。それが不安なの」


「魔界管理局に契約書の写しは置いてきた。それじゃダメ?」

 梨丸はつい訊いてしまったが、リリの気持ちもわからないではない。

「エルフの万能細胞を取ってこられても……もしあなたが他の誰かにそれを売っちゃったら? 売った相手がそれを使っちゃったら? 契約違反だって裁判しても、使っちゃった物は取り戻せないでしょ? ワタシは賠償金が欲しいんじゃなくて、妹を助けるための万能細胞が欲しいの。契約書なんて紙切れでしかない」


「だから要求……か」

「あなたはゴールデンゴルゴーンなんて通過点だって言ってたけど……普通に考えれば万能細胞を手に入れたらそのまま売ればいいだけ。ワタシに渡す理由がない。時価5000億円なんて、その1%も払えない。この契約は対等じゃない」


「俺が魔界に潜るのは父ちゃんの遺品を見つけたいから。魔界の神秘を解明したいから。別にカネが欲しいんじゃない。エルフの万能細胞も他の魔界の秘宝も、魔界探索の手助けになればいいって思ってるだけ」

「それじゃワタシの気が済まない。だからもっとワタシに執着して。男子が女子に何をしたがってるかなんて、中学高校でいっぱい見てきた。あなたがワタシに何をしても絶対にイヤって言わない。その結果何が起こっても、責任を取れなんて言わない。だからどんなことがあってもワタシを見捨てないって安心させて」


「正直俺も、こんな美人さんとお近づきになれて嬉しいって思うよ」

 梨丸がそう言うと、リリは久しぶりに顔を上げた。それは喜んでいるようでもあり、勇気を振り絞っているようにも見えた。

「えへへ……そう? 嬉しいな。じゃあワタシにしてほしいこと何でも言って? どんなことでもいいよ? たとえそれが世間からは許されない行為だとしても、ワタシは絶対内緒にするから」


 相手の男に困難な目的を達成してもらうため、美しい少女が己の身体を差し出すというのは物語の古典的展開だ。己の身を犠牲にしても妹を救いたい——その献身デヴォーションという概念は彼女が受けてきた宗教的教育の賜物たまものなのだろう。


 リリは梨丸に対して『何でも言うことを聞く』『何でもする』と言ってきた。妹の命がかかっている以上、少女に拒否するという選択肢はない。少年はどんな非合法な欲望も実現できる。


 それをすることで、少年少女は共犯者になる。

 ただ書面にサインしただけとは重みが違う。本当の意味での『血盟けつめい関係』になるのだ。


 一般的な日本人女子とは違う宗教的厳格さによって育てられた、純真可憐な日系フランス人美少女。普通なら梨丸程度ではお近づきにもなれない存在だろう。

 だが、それだけでは命を投げ出す理由には足りない。


 家族や親友、幼なじみのような強い絆で結ばれていなければ、人間はたやすく裏切る。リリはそれが不安なのだろう。


 なので赤の他人であるリリとしては、人として許されないほどアンモラルな欲望をぶつけてほしい。一般人としてまで一緒に沈み込んでほしい。そうやって裏切るに裏切れない状況になってほしい——少女はそう言っているのだ。


 そこまでやっても裏切る人間は裏切るだろうが、それはリリが言っていたとおり『安心』したいのだろう。ここまでやったのだから裏切られるわけがない、という安心が欲しいのだろう。


「でもさ、、親には相談したの?」

「してない……でも家族を助けるためなら、たぶん許してくれるはず」


「何でもいいって……具体的に何を想定してるの?」

「それは……」


 リリは目を伏せてしまったが、意を決したように再び見上げてきた。しかしそのライトグリーンの瞳は自信がなさげだ。頬を赤らめた上目遣いは反則的に可愛らしい。慎重派の探索士として自制心には自信のある梨丸でも、それにはさすがに神経がうずいた。


「——ワタシだってクラスの男子たちを見てきました。男子が何を望んでて、どんなことをしてあげるとやる気になるのか……そんなことくらい知ってます。彼氏持ちのクラスメートからも色々聞いたし……」


 梨丸としても、リリにここまでされては欲望に抗う自信がない。今時珍しい、貞操観念を備えたお嬢さん。東京でも見られないほど際立ったルックス。間違いなく彼女は同年代のトップクラスだ。


 そんな少女と深い仲になった方が、いざというときも力が湧いてくるだろう。

 しかしそれを『はいそうですか』と受け取るには男のプライドが邪魔をする。恐竜を率いてモンスターを倒す魔界探索士が、少女ひとりに屈服するなど。


「わかった。リリの人生俺がもらう。相方の妹さんを助けるためなら、ただの契約書面よりはやる気にブーストかかるかな」

 少女は一瞬肩を震わせたあと、少年に回した腕の力が緩んだ。安心できたのだろうか。胸から腹部、そして笑顔に至るまで女子は実に柔らかかった。

「はい……お願いします」


「でも勘違いしてもらっちゃ困る。俺は現代の冒険者だからね」

 梨丸は気合いを入れた。少女の魅力に負けないよう、歯を食いしばる。

「——未知の空間を探索するってのは新発見の連続で、女子と遊びにいくよりもずっと楽しい。命がけの勝負をくぐり抜けて戦利品おたからを手に入れたときの快感なんて、他じゃ味わえないよ」


 その性分のおかげで今まで女っ気のない生活を送ってきたのだが、そんな事情はリリも調べようがないだろう。


 何を言っているの? と少女の顔は疑問に固まる。

「つまり?」


「俺らにとって魔界探索こそが人生最大の楽しみ。札束ビンタもハニートラップも通用しない。女子につられてホイホイ危険地帯に踏み込むような奴は生き残れないからね」

「えーと?」


「だから、まあ……」

 これを直接言うのは妙に気恥ずかしい。男の世界とは暗黙あんもくの了解で成り立っているのだ。しかし通じない以上口にするしかない。梨丸はつぐんだ口を気合いでこじ開けた。


「——世の中にはさ、女遊びよりも楽しいことがいっぱいあるんだよ。俺は女の尻を追いかけてるような奴らとは違うから。だからその辺勘違いしないでほしい。有利な立場を利用して君をどうこうしたいってワケじゃない。妹さんを助けてあげようと思うのは、純然たる人道的じんどうてき見地けんちからだよ」


 しばらく真顔で梨丸のことを見ていたリリは、やがてクスクスと笑い出す。

「信じられない……クラスの男子たちなんて下品な話ばっかりしてたし、すぐ女子のスカートの中をのぞこうとしてたのに」


「……まあ、その気持ちはわかる」

 ワンピースからすらりと伸びるリリの脚。決して極度なミニスカートではないが、白く優美な脚線美に、男子の視線は否応いやおうなく吸い寄せられてしまうだろう。


 リリほど容姿が整っていれば、男からのそのような視線など見飽きているのだろう。相手がどのような欲求を抱いているのか容易に察せるほどに。


 少女はスカートをつまみ、少しだけ裾を上げた。

「……見たいの?」


「いや。うん、でも……ここはまずい」

 梨丸としては格好いいことを言った手前、それを認めるわけにはいかない。しかし視線を制御するのは困難だ。感情の流れを止める手段はない。


 少年の醜態しゅうたいを見て、少女はため息をついてしまった。そしてリリは苦笑しながら絡めていた腕を放し、少しだけ落ち葉の上を歩いてから振り返る。

「あーあ、もうしょうがないなあ……いいよ、約束したし。でも部屋に戻ってからね?」


 初春の森に降りそそぐ木漏れ日の中で、リリの笑顔は一段と輝いていた。

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