ゴブリンモード——だらしなく、しかし時には欲深く2

「じゃあそろそろ出発しようか」

 その声に反応してヴェロキラプトルのハヤテが顔を上げてきた。

『もう出発してもいいのか?』と訊いてきているような顔だ。だが少年がポケットから畳んだ地図を取り出したら、己の出番はまだだと察したのか、ハヤテは尻尾を丸めて座り込んでしまった。


 梨丸は改めて周囲を見回してから紙の地図を広げた。テーブルなどないので立ったままだ。この広大なる未知の地下空間——魔界富士の地図を。

 それは一般的な富士山の周辺地図と大して変わらない。違うのは、観光名所についてが何も描かれていないところか。


 リリが地図をのぞき込んできた。そして自分が持っている真っ白な地図と見比べている。

「これ、全部梨丸が書き込んだの?」


「そう。白地図にそれぞれの魔界探索士が経験を書き込んでいくのが基本だからね。商売道具で企業秘密だよ。ライバルにはそう易々と見せられない」

「え……これ内緒なの? もっと仲間内で情報共有とかしないの? ただでさえ危険な場所なのに……ゲームでよくある冒険者ギルド的な組織ってないの?」

 これは業界外の人間がよく口にする疑問だ。


「魔界探索士って別に組織集団ってわけじゃないんだよね。個々人が自分のために命をける冒険者で、個人事業主。名前を書くだけで国家試験に合格できる——つまり日本で一番簡単になれる、日本で一番死亡率の高い士業しぎょうだって世間からよく馬鹿にされてる」

「それ本当だったんだ……稼ぎがいいから妬まれてるんだと思ってた……」


「たしかに稼ぎもデカいけど、昨日のヒグマについても7ケタの保証を払ったし。ティラノだって体重10トンあれば食費もすごいし。稼いだ額の10%は厩舎きゅうしゃの取り分だし普通に税金も払うし。出ていく額もデカいんだよ」


 雑談は終わりだ。梨丸は地図を畳んで重要な部分だけを示す。本栖湖周辺部だけを。現在地から徒歩1時間圏内の、魔界の入り口付近とも言われる場所だ。湖の東岸——地上では市街地になっている場所に【ゴールデンゴルゴーンの縄張り】と書き込んである。


「——標的のゴゴちゃんはこの市街地跡から湖の北側——つまり今いる【本栖みち】のあたりまでを縄張りにしてる。だから通るのは湖の南側のルートね」

「え? 偵察なら直接北側ルートで見に行った方がいいんじゃないの?」


「それだとちょっとヤバいんだよ。まず道路上でばったり出会っちゃったら走っては逃げ切れない。あいつ足が速いからね。で、ゴゴちゃんは森の中が嫌いなんで逃げるなら山の方。間違っても湖方面に逃げたらダメ。俺たちが魔界の本栖湖に入っちゃった時点で人生終わりだと思った方がいい。ここサメがいるからね」

 リリはぽかんと口を開けてしまった。

「サメ……本当にいるの? 湖って淡水でしょ?」


「魔界は常識が通用しないからねえ……それで北側ルートは山に逃げようにも角度が急なんだよ。咄嗟とっさには登り切れない。だから角度がなだらかですぐ森に逃げ込める南側ルートの方がいい。最初っから山の中を進むのも危険だから、普通に道路上を歩く。で、モンスターに狙われそうだったらすぐ道路を引き返すか森に逃げ込むかを判断、と。魔界本栖湖周辺ならこれが一番生存確率が高い」

「全部経験なんだ……」


 少女は感心したようにうなずいていた。敵地へ潜入する前にまず逃走ルートを確保する——そんな臆病さを褒められているようで、梨丸は複雑な気持ちだったが。


「これくらい用心深くないと魔界では生き残れない。だからリリも勇者になろうとしちゃダメだよ? 魔界にいる間はずっとゴブリンモードじゃないと」

「ゴブリン?」


 リリは疑問形のまま固まってしまった。ゴブリンについては知っているのだろうが、そのモードとは何なのかが意味不明なのだろう。梨丸も最初にこの言葉を知ったときは同じような反応になったのを思い出し、少し笑ってしまった。


「ゴブリンモードって、自堕落に、だらしなく、欲深く……っていう意味の、昔流行った言葉なんだって」

「なんだろう……全然ありがたい言葉には聞こえない」


「うん、俺も知り合いに聞いたときはそんな感じだった。でも魔界じゃ勇者になろうとしたやつほど早死にする。リリがさっき言ったみたいに、魔界の素材で武器を作ってモンスターをやっつけてやろうとか」

「……ダメなの?」

 アイデアを否定されて、リリは少しむくれてしまった。しかしこれだけはどうしても伝えなければならない。生き残るためには。


「これは何度でもいうけど、魔界じゃ人間なんて弱小生物だよ。一般的な日本人は刀を持っててもイノシシにすら勝てない。でも魔界のモンスターはイノシシなんて目じゃないくらい強い。ヒエラルキーでいえば最下層に近いのが人間」

「うん……まあ」

 リリはうつむいてしまった。ヒグマが一撃でしかばねと化した場面を思い出したのだろう。


「魔界には救急車も来ない。戦って怪我をして、自力で帰れなくなったらそれで終わり。だから魔界探索士は猛獣を連れてくるんだよ。自分の代わりに戦ってもらって——死んでもらうために」

 これを言うのは心苦しかったが、梨丸は言い切った。この『動物を犠牲にする』要素は、魔界探索士が世間から叩かれている要因のひとつだ。

「…………」


 リリは反論してこなかった。実際に魔界の入り口で死ぬ寸前の経験をしたばかりなのだ。ヒグマを一撃で殺せるモンスター相手に、自分の力だけでは勝ち目がないというのは実感しているだろう。


 だが世間はそうではない。地上で安全に暮らしている人間ほど、魔界探索士に綺麗事のや机上の空論を振りかざす。猛獣を使わなくても、もっと良い手段があるんじゃないかと。


 そのような【ぼくのかんがえたさいこうのまかいこうりゃくほう】はネット上にあふれかえっている。


 しかし、素人が考えそうなことは、プロがすでに試している。試行錯誤の結果、もうそれしかないから、しかたなく猛獣には盾になってもらっているのだ。

 魔界探索士たちや厩舎の関係者は、犠牲になった猛獣たちの供養を欠かさない。鳴沢町にはそのための神社も新しく建立されたほどだ。


 なによりも人間が生き延びるため、未知なる魔界を探究するため。そのエゴの犠牲になった動物たちに感謝を込めて、少年は祈るように両手を合わせて地図を畳んだ。


「じゃあこっから先はゴブリンモードでいくよ。格好つけなくていい、見栄を張らなくていい。臆病でいい、生き延びることに欲深くていい。自分は魔界のモンスター相手に無双する主人公じゃなくて、ただのやられ役だってことを自覚しながらね」


 その声に反応して起き上がったヴェロキラプトルが、アスファルトの上をリズミカルに歩いていく。

 魔界のモンスターと互角にやり合えるのは、地球最強生物である恐竜をおいて他にないのだ。

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