ゴブリンモード——だらしなく、しかし時には欲深く1

 魔界への第一歩は澄んだ青空が迎えてくれた。

 地下10000メートル以上の深さに潜ったそこには空がある。洞窟から続く乾いた山道が、先でゆるくカーブしていた。道の両脇には木々が生い茂っているので先は見えない。


 さわやかな風が吹き、葉や雑草が揺れる。“ダンジョン”という言葉から連想する暗くジメジメした雰囲気とは無縁だ。

 梨丸は左右と空にさっと目を走らせた。今のところ敵対モンスターはいないようだ。


 リリは魔界の青空をぼうっと見上げている。

「すごい……こんな深いところに空があるなんて……どういう仕組みなんだろ」


「詳しい仕組みはわからないけど、何となく推測はできる」

 梨丸は道から小石を拾って振り向いた。

 魔界の入り口である洞窟は、ゆるやかな山の斜面に口を開けている形だ。その上には草が繁茂しているものの、装備なしでも充分登れる角度である。


 少年は洞窟の上に向けて小石を投げた。それは放物線を描いて飛んでいき、洞窟の上にある山の斜面に落ち——ることなく空間にはじき返されて戻ってきた。


「あれ?」

 リリは、道に落ちた小石とその小石が跳ね返された空間の地点へ、交互に視線を向けていた。

「——何でこれ戻ってきたの?」


「これね、今小石が当たった場所ってただの壁みたいなんだよ」

「壁? だって草が生えてて、その向こうには青空も見えるのに……」


「魔界ってさ、無限に広がってるわけじゃなさそうなんだよね。ただのでっかい地下空洞。で、ここがその端っこで、そこに空間の広がりが感じられるように映像が投影されてるんだよ。たぶん」

「映像の投影って……じゃあこの空も全部?」

 リリは上空に広がる青空を見上げた。それはどこまでも続いているような澄んだ空だ。


「たぶんプラネタリウムみたいな仕組みなんじゃないかな。夜になればちゃんと暗くなるよ、ここも」

「……知識としては知ってたけど……実際に見てもまだ信じられない」


「じゃ、そろそろ行こっか」

 安全地帯で未知の空間にひたりたいという気持ちはわかる。しかし今回は偵察に来たのだ。魔界最強種を討伐するための。


「あっ……ちょっと待って」

 リリはそう言うと、先ほど跳ね返されてきた小石を拾ってうっとりと眺める。

「——ああ……これが魔界の石。これ地上にいたんじゃ絶対に手にできないものだよね?」


「うん、だからそれ記念品としては持ち帰れないよ?」

 少女は諦めの悪そうな弱り顔になってしまった。

「じゃあ……これをポケットに入れたまま、魔界の境目を通過しようとしたらどうなるの? ポッケから石を捨てるまで通れないの? でもそれだと服に砂とか泥とかが付いてるときはどうなるの? それを全部綺麗に落とすのなんて無理だし」


「それも不思議なんだけどね……魔界の境目を通り過ぎるときに全部その場に落ちていく」

「落ちる? ポケットの中の物は?」


「それもなぜか布を通り抜けて落ちちゃう。服の表面の砂も泥も全部、トマトソースを布ですみたいに境目を通過できない」

 リリは手にした小石をじっと見つめていた。

「どういう現象なんだろう……それ物理的にあり得るの?」


「……物理的にあり得ないから【魔界】とか呼ばれてるんじゃないのかな。ここ」

「でも念のため持っていこうかな、これ」

 少女は結局、その小石をポケットに入れた。何らかの間違いで魔界の無機物を地上に持ち帰れないかと夢想する人は多い。だがそれが全て無駄に終わることは魔界探索士の常識だ。


 しかし梨丸は余計なことを言わなかった。道中、モチベーションは高い方がいい。

「まあ、小石でも武器にはなるからね」


 カーブした道を少し進めば見晴らしのいい場所に出る。そこは魔界という空間を一望できる最初の絶景ポイントだ。

 そして魔界初心者が最も強い違和感に襲われる場所でもあった。


 リリもそこで足を止めてしまった。モンスターがいたのではない。

「なにこれ……」


 土の山道はそこで終わりだ。そこから先はアスファルトの道路が横切っていた。道路を渡った先にはガードレールもある。道には電柱も電線もあり、道路標識すらある。

 そしてその向こうには広大な湖が広がっていた。遙かな先に見えている山は、日本人なら見間違えようがない魂の故郷——富士山だ。


 梨丸は左右の道路を警戒した。もちろん交通事故の心配ではなく、モンスターの姿を探してのことだ。恐竜が平然と道路を横断したとしても、それを100%盲目するのは危ない。


 安全を確認してから梨丸はにやりと笑う。

「まあ驚くよね。生物以外が入れない魔界なのに、きっちり道路整備されてるなんて。絶対フェイク情報だと思うよ誰でも」


 リリはしゃがんで道路に手を這わせた。アスファルトの弾力を確かめているのだろう。やがて少女は立ち上がり、信じられないという顔を向けてくる。

「……これって、政府が整備したわけじゃないよね?」


「まあ無理だね。そもそもアスファルトもガードレールも電柱も、全部地上からは持ち込めないんだし」

「じゃあ魔界の素材を魔界で加工してこういうの作ったんじゃないの?」


 リリはやや早口で常識的なことを言った。それは魔界について誰もが思うことだ。金属の武器を持ち込めないのなら、魔界で取れた素材を魔界で近代兵器に加工してしまえばいい。そうすればモンスターなど恐るるに足らず……と。


「それができるんなら真っ先にあの魔界のスタート地点をガチガチに固めるよ。そこを拠点にして素材加工場なんかを作って、装備をどんどん充実させていく。最終的に戦車とか現地生産できりゃ、魔界のドラゴンだって普通に倒せるようになるよ」

「……それは誰もやらなかったの?」


「やらないんじゃなくて、できないんだよ。昨日も説明したとおり、魔界のスタート地点はモンスターに一番狙われやすい。そんなところに建物があったら真っ先にぶっ壊される。実際そういうことが何度かあって、もうみんな諦めた」

「ダメだったの?」


「ダメだったね。だからスタート地点からしばらくはアスファルトがなかったでしょ? あれってそういう戦いの結果だから。うちのティラノだって頭突きでトラックぐらいなら転がせる。魔界のモンスターにはそれ以上にヤバいのがいるんだから、ちょっとした小屋なんてすぐバラバラだよ」

「じゃあこの道路とかは何なの? これ絶対誰かが作ったやつでしょ?」


 リリは見るからに興奮していた。人間は常識が通用しない場面に遭遇すると、その理不尽さに立ち向かうため攻撃的になるものだ。

 梨丸はもう一度周囲を警戒してから説明する。


「魔界っていうのは、地上の富士山周りの地形をそのまま地下大深度に再現したみたいな空間なんだよ。建物を含めて地形そのものをコピペしたみたいに。だから道路とか電線とか山小屋なんかも本物そっくり」

「信じられない……神さまが作ったとでもいうの……?」


 事前にそのような情報を頭に入れてきていても、いざ魔界に降り立ったら、人間はその非現実性を絶対に受け入れられない。

 少年は少女を落ち着かせるため、おどけた感じでにやけ面を作った。


「まあ神さまとか魔王とかが居るんならロマンがあるんだけどね。でも今までにモンスターが魔法っぽい技を使ったこととかないし」

「でもエルフの万能細胞とか、魔界の秘宝って魔法っぽくない?」


「魔法っぽいけど、でもあれも『怪我とか病気を治す』って点ではあくまで現実の範囲内だよ。ワープとかタイムリープとかできるのがあるんなら話は別だけど」

「すごいなあ……どうやってこんな空間が出来上がっていったのか、全然予想できない」


「そうなんだよね、ホント謎空間なんだよ魔界って。実際どれくらい広いのかもまだ調査し切れてないし。少なくとも富士五湖はある。でも富士山の南側はまだ丸々未調査区域」

「で、この湖が本栖湖もとすこ……目にした今でも信じられないなあ……でも富士山見えてるしなあ」

 リリはまだ困惑していた。


 出会ってしまった現実があまりにも嘘くさい場合、とにかく頭の中にり込むしかない。『これは現実だ』と。そのため何度も見て、何度も耳で聞くことが重要だ。


 梨丸は言い聞かせるようにゆっくりとしゃべる。

「ここは地上でいう国道300号線——通称本栖もとすみち。西の身延町みのぶちょうから山ん中を通ってきて、トンネルくぐって本栖湖の北側を通る道。俺たちがさっき出てきた洞窟は、地上ではそのトンネルにあたる場所だよ」

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