魔界のスタート地点3
翌日、梨丸はリリを待っていた。少女が滞在するホテルの駐車場に立ち、端末で業界紙を読みながら。
——リリ、来るかなあ……。
彼女が約束通りこの場に来なくても不思議ではない。昨日あんなことがあったばかりだ。一般的な日本人は野生生物の死に慣れていない。しかも日本最強のヒグマが一撃で
もしかしたらもう荷物をまとめて千葉に帰ってしまったという可能性もある。だが梨丸はそれでもリリを責める気にはなれなかった。
元々彼女は魔界についての素人だ。付いてきても大して役には立たない。精々が荷物持ち程度だろう。だが『妹のために命を懸ける』というリリの心意気に胸を打たれて、同行を許可した。
実際、魔界探索士を馬鹿にする医師に対して
今までひとりでやってきたのだ。
「おはよう、梨丸」
リリがホテルから出てきた。
装備自体は昨日と変わりない。魔界仕様のワンピースと小型のバックパック。だが昨日と違い、少女の表情からは一切の甘えが消えていた。観光気分のお嬢さんではなく、死地に
「おお……見違えたよリリ……」
凜々しい顔つきの美人は独特の迫力がある。梨丸は思わず見入ってしまった。
「ごめんなさい。本当のことをいうと、もう帰ろうかと思ったの」
少女は目を伏せて微笑した。
少年はそんな彼女を尊重して言葉を選ぶ。今日この場に来ただけでもかなりの勇気が必要だったはずだ。
「あんな目に
「ううん。ワタシなんて全然強くないよ」
リリはゆっくりと首を振った。
「——だってワタシが魔界に行ったって、別に絶対死ぬとは限らない。たとえエルフの万能細胞が手に入らなくても、ワタシは普通に生きていける。でも妹は違う。このままじゃ絶対に助からないんだから。いつ死ぬかわからないっていう……その怖さと戦ってる妹の方がワタシよりずっと強いよ」
「……すごいね、昨日とはまるで別人だ」
「そう? そんな浮かれてたかなワタシ」
リリは恥ずかしそうに手で口元を押さえた。その上品な仕草や強い姉妹愛をみても、家庭環境の良さがうかがえる。
梨丸はひとりっ子なのでそれが羨ましかった。何としても万能細胞を手に入れようという、気持ちと気力が湧いてくる。
◆ ◆ ◆
心機一転、昨日と同じように徒歩で魔界のスタート地点へと向かう。
まずは町の南部にある厩舎で相棒のヴェロキラプトル・ハヤテを引き取った。ヴェロキラプトルは中型犬サイズなので、他の大型獣よりは攻撃力が劣る。だが小回りのきく素早さや隠密性は偵察用にうってつけだ。
そして真新しい道路をしばらく歩くと、魔界への入り口が見えてくる。【突入杭】の建物だ。
ビルに換算して10階程度の高さがあり、幅も広い。雰囲気としては発電所や変電所に近いだろうか。富士の裾野にコンクリート建築がいきなり現れるのは、多くの人が違和感を抱くだろう。
ゲートをくぐって中に入り、受付に携帯端末を預ける。建物内は無人に近い。質素な廊下をしばらく歩く。【
そしてふたりと1匹は探索士用の小部屋に入った。
ここは潜水士が深海域に潜るときに入る『与圧室』のようなものだ。魔界へ潜るのにこの準備室がどのような役割を果たしているのか、実際のところ梨丸も知らない。魔界についての施設は多くが国家機密なのだ。
規定の時間をそこで過ごし、部屋の奥にある扉を開ける。
そこは巨大な縦穴——地下大深度まで一直線に降りる巨大リフトだ。体重10トン超のティラノサウルスを余裕で運べるサイズのそれは、空母の設備に近いだろうか。
それに乗ったら、あとはただひたすら潜行するだけだ。魔界探索士はこの暇な時間をどう過ごすのかも考えておく必要がある。なにしろ1時間以上もリフトに乗り続けなければいけないのだから。
ハヤテは梨丸のバックパックに上ってきていた。リフトの振動を嫌う動物も多いのだ。大体の魔界用品はヴェロキラプトルの鋭い爪が通らないほど頑丈な生地でできている。
リリは
少女が首を下ろして訊いてきた。
「そういえば、魔界がどのくらいの深さにあるのかって公表されてないんだよね」
梨丸はうなずく。
「そうなんだよ。まあ貴重な資源の宝庫だから政府が秘密にしたがるのもわかるけど。俺の経験上、だいたい1万メートルくらいなんじゃないかなあ。下手すりゃマリアナ海溝より深いよここ」
「富士山がすっぽり入っちゃう空間だもんねえ」
「どう考えても自然の地形じゃないのに、誰が作ったのか全くの謎なんだよなあ。こんな田舎を地下にコピーするくらいなら、東京の都心でもコピペすりゃいいのに」
「富士山の周りが
リリが挑発的な笑みを浮かべる。
「——いい? 本当の田舎っていうのは、ワタシの家がある
「でも千葉なんて、アクアライン通れば一直線ですぐ東京じゃない?」
「違いまーす。アクアラインの出口は川崎だからギリギリ東京じゃないんです」
少女は勝ち誇ったように白い歯を見せる。なにか妙に楽しそうだ。
「ええ……でも川崎なんてほとんど東京でしょ。千葉の方が恵まれてるよ。見晴らしのいい海を通ったらすぐ東京なんて。山梨なんて山ばっかだし」
「この辺は電車1本ですぐ東京まで行けちゃうじゃない。でもウチはね……ローカル鉄道しか通ってないんだから」
リリは指を1本立てた。
なぜこんなところで田舎自慢が始まるのか。梨丸は思わず笑ってしまった。
「——わかる? 電車じゃないの。今時珍しいディーゼルエンジンの列車なの。有名どころなんてチバニアンくらいしかないし」
「チバニアンってなに?」
少年が何気なく聴いてみたら、リリは愕然とした表情を浮かべてしまった。それが全国区な名所だと思っていたのだろうか。
「……たぶん教科書にも載ってると思うんだけど……まあ確かにあんまり人は来ないけど……」
そのような雑談で時間を潰していたら、やがてシャフトは最深部に到達した。
ガラガラと音を立てて手すりの片側が完全に下がる。その先は一直線に洞窟が伸びていて、魔界に通じている。
さすがにここまで来たらリリも気楽なおしゃべりをする気にはならなかったようだ。さすがに雑談だけで緊張を取り去るのは無理だろう。
梨丸はそれを察して黙々と進んだ。少年少女の足跡と、ヴェロキラプトルの軽快な足音が岩肌に反響する。
洞窟の出口数メートル手前の地点で梨丸は足を止めた。
この洞窟の出口——人の世と魔界を隔てているのは、半透明の青い薄膜だ。生物や生体素材以外を決して通さない魔界の
ヒグマが撒き散らした先日の血だまりは、
赤黒く変色したそれに目を落としてから、梨丸は振り返ってリリを見た。
「さて、本当に行く? 君がここで引き返しても俺は文句を言わない。エルフの万能細胞を持って帰れたらちゃんと渡すよ。まあ手に入る保証なんてどこにもないけど」
リリはバックパックから1本の枝を取り出した。道中で拾ってきたものだ。それを手に少女は力強く宣言する。
「行く。連れてって。ここで行かなかったらたぶんワタシは一生後悔する。もし梨丸が万能細胞を取ってこられなかったら……ワタシが手伝ってれば妹が助かったんじゃないかって、たぶんずっと後悔する」
そういって少女は枝を放り投げた。それは半透明な魔界の境目を通過し、魔界の山道にカランと落ちた。向こう側には何の変化もみられない。反応して襲いかかってくるモンスターもいなさそうだ。
梨丸は感心した。なのでその行為が何の意味もないことは言わないでおいた。魔界のモンスターは枝の落ちた音になど警戒しない。結局のところ、命を懸けて身を乗り出してみるしかないのだ。なので絶対に人間より先に猛獣を行かせなければならない。
そんな
少年はホッと息をついた。
「大丈夫そうだね」
少女はうなずき返してきた。もはやその顔には弱気も油断もみられない。
「いざっていうときは、ワタシを囮として使い捨ててもいいから」
「俺は女子を囮にしようとは思わないよ」
「ダメ。ワタシだけが生き残っても意味ない。でもあなたが生き残れば妹の生存確率が上がる。ワタシが死んじゃってもちゃんと妹を助けてね?」
「約束は守る。そういう依頼を受けたって魔界管理局に登録してきたからね。約束破ったら俺がヤバい」
リリにここまでの根性があるとは思わなかった。獲物は魔界最強種。命の保証はどこにもない。予想するまでもなく困難な道のりだ。しかしそれはきっと充実した冒険になるのだろう。梨丸はほほえんだ。
「——まあでも俺は慎重派だから今まで生き残ってきた。たとえゴールデンゴルゴーンを倒せなくても、エルフの万能細胞をほんの少しでも奪えればそれで
梨丸はリリの手を引いて魔界の境目を通過する。少女の手はわずかに震えていたが、力強い意思によって握り返された。
こうして、妹思いな姉は魔界のスタート地点からの第一歩を刻んだ。
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