魔界のスタート地点2

 腰が抜けて歩けなくなってしまったリリを、梨丸は背負って戻ることにした。道中も少女の身体は小刻みに震えていた。しゃべる気力もなさそうだ。

 安全な地上の安全な町中の安全なホテルの室内に戻ってきて、少女はようやく口を開いた。


「すいませんでした。ワタシの不注意でした。もっと魔界のこと、教えてください。妹のために命を懸けるなんて言いましたけど、無駄に死にたくはないです」

 リリはベッドに力なく横たわっていた。言葉遣いが元に戻ってしまっているのは精神的動揺の表れか。ヒグマの血が付着した服を着替える余裕もなさそうだ。手はいまだに震えている。


「わかった。あと丁寧語とかは禁止ね」

「あっ……うん」

 梨丸はベッドサイドに椅子を持ってきて座った。それからできるだけ相手を傷つけないような言葉を脳内で組み立てる。


「リリはおれのことを恐竜使いで最強とかいってたけどさ、それは違うんだよ」

「違うの? でもティラノサウルスとか使ってるし……」


「俺以上の猛者もさなんていくらでもいたよ。でもそういう人は無謀な勝負に挑んで、みんな死んでいった。で、慎重に慎重を重ねるような俺が生き残ったから、結果“最強”とか呼ばれてるってワケ」

「無謀な勝負って……でもプロだったら普通は最低限の警戒くらいはするものじゃないの?」

 先ほどの失敗は自分が素人だったから、というニュアンスも含まれていた。少年はそれを突っ込むほど鬼教官ではない。


「うん、ふつうは警戒する。でもここは普通じゃないんだ」

「え?」


「まともに考えりゃリスク計算くらい誰でもする。でもさ、普通に危機感持ってる奴はこんな即死不可避な仕事を選ばないんだよ。いくら稼げても死んだらそれまでなんだから」

「……ああ」


「そういうまともな人はまともな仕事をするよ。魔界に来るようなのは一攫いっかく千金を夢見た奴らだけ。自分の人生をギャンブルのタネせんにして、死んだら死んだでまあいいや……っていう刹那せつな的なタイプだけが魔界探索士になる」

「すごい世界だね……」

 その凄い世界に自分も入り込んでしまったのだと実感したのか、リリの全身はベッドの上で脱力していた。


「だから魔界で取れるモンスターの素材は超高値で売れる。高いものには高いなりの理由がある。まあ、俺みたいに家庭の事情で魔界に潜ってるのは滅多にいないよ」

 リリの妹を治すための【エルフの万能細胞】も、持ち主であるゴールデンゴルゴーンが強すぎるから純粋に高いのだ。しかもどんな病気をも治せるという唯一性は、全世界の人が求める。需要に供給が追いついてない。その結果、小指の爪サイズで5000億円という常識外の高額となった。

 だが、世の中にはそれ以上の値がつけられた魔界素材もあるとリリは思い至ったようだ。

「『ドラゴンの頭蓋骨を1兆円で買います』っていうの、あったよね?」


「そうそう、あの大企業のやつ」

 それは世界を股にかける最先端大企業ビッグテックが大々的に募集をしたものだ。魔界のドラゴンであれば種類は問わない。その頭蓋骨を取ってきたら1兆円で買い取ると。

 その宣言は多くのチャレンジャーを魔界に駆り立てた。

「あれって今まで何個くらい買い取ってもらえたの? 業界全体で」


「ゼロだよ」

「え?」


「だからゼロ。誰もドラゴンなんて倒せてないんだよ。今まで誰も」

 今までドラゴンの頭蓋骨を持ち帰ってきた魔界探索士はいない。1兆円を夢見た若者たちは全て魔界の大地に散っていった。

 あまり射幸心を煽るのはいかがなものかと、そのビッグテックは世間からの批判を浴びた。だがそれによる宣言効果が莫大だったのもまた確かだ。

「え……でもドラゴンって結構たくさんいるんだよね? さっきヒグマを食べちゃったのとか」


「いるよ。でもドラゴンって存在自体が反則なんだよ。普通空を飛ぶ生き物って、飛ぶために徹底的に軽量化してる。そうしないと自力で飛べないからね。だからそれを地上に引きずり下ろしちゃえばなんとかなるんだけど……でもさっきのやつは、たぶんうちのティラノサウルスよりはちょっと小さいくらいかな? つまり飛べるはずがないくらいデカいやつが飛んで襲いかかってくるんだよ」

「……じゃあ、ドラゴンにばったり出会っちゃった場合って、どうするの?」


「逃げるしかないね。今のところは」

 今のところは、というところは力を込めて言った。それは魔界探索士の意地だ。ドラゴンの中でも最強の憤激王を仕留めようという人間が、並のドラゴンにビビっているとは思われたくなかったのだ。

「もしかして、魔界最強種ってさっきのドラゴンより強いの?」


「強いね」

 それは断言できる。何度も魔界に潜っていれば、幻想生物(モンスター)同士の戦いというのを目撃する機会も多いのだ。

「——ゴールデンゴルゴーンとドラゴンが戦ってるのを1回だけ見たことがある。ゴゴちゃんはね、遠目には細身の美人さんにしか見えないけど、パワーはとんでもないよ」


「ゴゴちゃん?」

 リリの顔は疑問形で固まる。普通の感覚の持ち主なら、少なくとも魔界最強の怪物をちゃん付けでは呼ばないだろう。


「ああ……ゴールデンゴルゴーン略してゴゴちゃんね。なんかそういう呼び方が定着してるんだよ。漫画の影響で」

「ごめん……漫画まではカバーしてなかった。調べたのはどっちかっていうと地質的な情報がメインだったっから」


「まあそりゃ仕方ないよ。で、その漫画を描いたのが実際に魔界へ行ってモンスターのスケッチをした人でね。特に魔界最強種のビジュアルはこの人のイラストが大元おおもとになってて、あちこちでパクられてる」

「漫画家ってインドア派のイメージだけど……あんな所に行く人もいるんだ……」


「漫画家もかなりの勝負師だからね。『魔界の漫画を描いた最初の作家になれば、自分が業界のパイオニアになれる』って気合い入れてたんだってさ」

「色んな人がいるんだなあ……」


「そう、世の中には色んな人がいる。魔界に行く事情も人それぞれ。でもこれだけは確実に言える。どんな人間が魔界に行っても、絶対肝に銘じなきゃいけないこと」

 少女を咎めるようで気が引けるが、梨丸は言わなくてはならなかった。先輩風を吹かせたいのではない。純粋に生き残ってほしいからだ。

「——地上なら近代兵器を使える人間が最強だけど、魔界じゃ人間なんて弱小生物でしかない。それは絶対に忘れちゃいけないことだよ」

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