魔界のスタート地点1
魔界探索は一瞬の油断が命取りになる。
梨丸はいつもより気合いが入っていた。魔界探索士は孤独な職業である。リリという後輩ができたのは嬉しいのだ。たとえそれが命を懸けた行軍だとしても。
東京から帰ってきて翌日の昼、さっそく魔界探索の準備に取りかかる。
待ち合わせ場所はリリの滞在するホテル前だ。少女は昨日と同じ服を着ていた。千葉から山梨までその身ひとつで出てきたらしい。
「じゃあリリ、準備を始めよう。あと、これからは全部タメ口ね。同い年なんだし」
「はい……じゃなくて、うん!」
リリは元気だった。
魔界未経験者は、未知の世界への好奇心で誰もが最初は遠足気分だ。しかし一旦その恐ろしさを体験すると、二度と笑顔など出てこなくなる。魔界での出来事がトラウマになり、モンスターが登場するような漫画やゲームに拒絶反応を起こす——という事例も多数報告されているほどだ。
「これは生存確率を上げるためだから。行け! 戻れ! 攻めろ! 逃げろ! 一瞬の判断が生死を分けるってときには、こういう指示語はなるべく短い方がいい」
「わかった」
鳴沢町が魔界の最前線とはいっても山梨側の富士の裾野——少し前まで【村】だった。田舎であることには変わりがない。町としての機能は北側に集中していた。準備は徒歩でも問題ない。
「一応知ってるとは思うけど、おさらいだと思って聞いてほしい」
「そうだね。ワタシも少しは調べてきたけど、専門家の意見は聞いておかなくちゃ」
情報は多角的に仕入れる必要がある。読んで、聞いて、実際に見て、そして経験する。そうやって身体に染みこませることで、初めてそれは生きた知識になるのだ。
「まずは基本から。魔界は生物以外が出入りできない。より正確に言うと『生物素材以外は魔界の
「あ、その辺は大丈夫です。服を買うときに素材を細かく調べてきたので」
「そうなんだ。でも一応専門店で買っておいた方がいいよ? いざ魔界の入り口まで来ておいて入れなかった場合、そのまま引き返すか素っ裸で入るかだから」
「……やっぱり買っておこうかな」
そうなったときの様子を想像してしまったのか、リリは半笑いのまま承諾してくれた。
たとえ服の素材が全て生物由来だったとしても、意外な部分に化学製品が使われているものだ。魔界はそういった細かい非生物部分もまとめて拒絶する謎の空間である。一切のごまかしはきかない。コピー用紙の表面に塗られている【表面サイズ剤】すらはじかれてしまうのだから。
なので自信があったとしても、最初は全て専門店で買い揃えた方がトラブルを防げる。
鳴沢町の商店街は建物がどれも真新しい。民間への魔界探索が許可されてから急速に発展した町だからだ。
服屋・靴屋などの店構えは他の地域と大して変わらない。ボタンやバックルの素材がプラスチックや金属ではなく骨材になっているくらいか。
だが部外者が驚くのはやはり食料品店だろう。
なにしろ携行食品であるにもかかわらず、ビニールやラップが全く使えないのだから。ラベルのカラフルな印刷なども皆無だ。
なのでパッケージは紙、それを紐でくくる。東京で人気のスイーツなどに比べれば、それはあまりにも地味だ。
密封できなければ消費期限も短くなるため、これを買うのは突入当日になる。
リリは店先に並ぶそれらを興味深げに眺めていた。
「なんかこういう紙で包んで紐で縛ったお弁当系のやつ、どっかで見たことがあるような……」
「あれでしょ。昭和の企業戦士たちがおみやげとして持ち帰ってたっていう、テイクアウト食品のパッケージ」
「ああ! それそれ、時代物のドラマでたまに出てくるやつだ! へえー、珍しいなー」
「
当時はポピュラーだったというそのパッケージングも、2040年の現代では魔界用品専門店くらいでしかお目にかかれないだろう。
次は文房具屋に入る。
店内に並ぶ商品は、どれも外部の店では見られないものばかり。物珍しさに目を輝かせているリリに、梨丸は説明する。
「携帯端末もカメラも持ち込めない魔界じゃ、文具が以外と重要でさ。人間の記憶ってのは結構あやふやだからね。だからリアルタイムに情報を書き留める必要があるんだよ」
「梨丸は戦いながらメモってたの?」
「いや、さすがにそれは無理だから、手が空いたときに走り書き程度かな。魔界で生き残るためには情報が命だからメモるのも必至だったよ。でも明日からはそういうのをリリにやってもらえるから助かる」
「なるほど、責任重大だね」
「既存の文具類は全部魔界には持ち込めないと思った方がいい。シャープペンとかボールペンとか」
「でも鉛筆って軸が木じゃなかった?」
「軸は木でも、芯が黒鉛だから」
「あ、そっか」
「だからペンはこういう羽根ペンが主流かな」
梨丸は試し書き用の羽根ペンをリリに渡した。すらりとした指によく似合う。店内には様々なサンプル品がディスプレイしてあった。イカスミが入った革袋と、試し書き用のメモ帳もある。どのように使ったらいいのかはイメージしやすいだろう。
「——持っていける紙は植物100%の手漉きの和紙くらいだから結構高い。イカスミも生ものだからすぐ傷んじゃう。まあ家で冷蔵庫に入れておけばワリと日持ちするけど」
「はあぁ、面白いですね」
その業界ならではの工夫は見る人を感心させるものだ。リリは真剣な表情で羽根ペンを選んでいた。
必要物資を買い揃えたら、次は厩舎まで足を伸ばす。
魔界探索の
梨丸は室内のカウンターで馴染みの係員と挨拶を交わした。そして端末を操作しながらリリに画面を見せる。そこには出動可能な各種猛獣がリストアップされていた。
「明日はこのヒグマをレンタルして行こうと思う」
「あれ? 昨日のティラノサウルスは?」
不思議そうに小首をかしげるリリ。その疑問はもっともだ。たしかにヒグマは日本最強の猛獣ともいえるが、大型恐竜には遠く及ばない。
「ネックは昨日出たばっかだからしばらく休みかな。リリって競馬は知ってる?」
「まあ、少しなら」
「競走馬もさ、1回レースに出したら1ヶ月くらい休ませるんだって。うちのネックは魔界で走り回るし怪我もするから、馬と同じくらいは休ませてやりたい。あ、ネックってのはうちのティラノの名前ね」
「……でも、あの強そうなティラノサウルスが怪我なんてするの?」
その巨体を目の当たりにしたからこそ、リリも信じられないのだろう。
「まあ、ティラノサウルスは間違いなく地上の帝王だからね。アフリカゾウもホッキョクグマも敵じゃない。でも昨日はワイバーンから脳天に不意打ち食らってダウンしたよ。10トンもあるうち子が」
「10トン……」
地上最強生物すらダウンを奪われる危険地帯。ではそんなところに人間が乗り込んだらどうなるのか、想像してしまったのだろう。リリの顔に不安が宿る。
「でも、体がデカいってことはそれだけ敵に見つかりやすいってこと。明日は偵察だから、ヒグマと俺たちだけなら森に隠れて進める。大型恐竜に比べりゃヒグマはちっちゃいからね」
「……ヒグマって小さかったんだ……」
リリの脳内では『猛獣』という存在についての常識の大転換(パラダイムシフト)が起こっているのだろう。呆然と立ち尽くす少女を横目に、梨丸はレンタルヒグマの料金を支払った。
魔界探索の準備は整った。あとはゆっくりと身体を休め、明日を待つばかりだ。
◆ ◆ ◆
超長距離のエレベーターを降りたら、そこからは横穴が一直線に続いている。整備されたトンネルではなく岩石むき出しの洞窟だ。ただ明かりは点々と奥まで灯っている。
ティラノサウルスでも楽々通れる広さのそこを、少年少女が歩く。梨丸は実用性重視の頑丈な作業着。リリは足音を押さえるためのワンピース型。偵察なので馬車はなし、荷物は個人で背負える最小限。レンタルしたヒグマはその後ろを付いてきていた。
「まだここまではテレビカメラも入れる。ゴツゴツして洞窟っぽいから、ここだけを見て魔界は世間から『ダンジョン』って呼ばれることも多くてね」
「はい……」
リリはうつむきながら浮かない返事をする。
少女として本能的に身の危険を感じるのは仕方がない。なにしろ出会ったばかりの男とひと気のない洞窟を歩いているのだから。しかもこの先は法律が適用されない無法空間だ。
しかし、終点が見えてきたらリリの気持ちも上向いてきたようだ。
洞窟の終わりから先は、湿り気の多い山道が広がっていた。ここは富士山の地下大深度にもかかわらず、遠くにはしっかり青空も見える。
人類の常識が通用しない未知なる地下空間。モンスターの
「ここが魔界……」
リリはやや興奮した面持ちでふらふらと洞窟を出ようと——魔界に入ろうとしていた。
そんな少女の手を、梨丸は強く引いた。
「待った!」
「ひゃい!?」
リリはびくりと縮こまってしまった。その顔は、最悪の事態を想定したのか恐怖にゆがんでいる。
「——あの、えと、何でしょうか……?」
「いや、別に変な意味じゃない。ただ純粋に危ないから」
他意はないと知って、リリも安心してくれたようだが。
「危ない? だってここ魔界のスタート地点ですよね?」
「うん、たしかにここはスタート地点だけどさ」
梨丸はヒグマに指示をした。厩舎で調教を受けている猛獣は、人間のいうことを比較的よく聞いてくれる。
体重数百キロを誇るヒグマが、4本足でのしのしと進んでいく。日本では敵無しの強者だけあり、余裕の風格だ。
だが。
魔界の入り口をくぐった瞬間、ヒグマの上半身が消し飛んだ。倒れた下半身も、すぐ何者かによって持ち去られてしまった。ヒグマの半身を瞬時にかっさらうのはとんでもないパワーが要る。それが何者かはすぐに判明した。
ドラゴンだ。
獲物を
「え? あれ? なに? ヒグマは?」
一瞬の出来事で、リリは現実を認識できていないようだ。だが実際、日本最強の猛獣は一撃で殺された。目の前の血だまりがその証拠だ。
もし最初に洞窟を出ていたら、被害に遭っていたのは自分だったかもしれない——という現状を把握したのか、リリの足は震えだし、そのまま尻をつき、座り込んでしまった。
少女の顎は震えていて歯が鳴っている。もはやまともに受け答えはできないだろう。
梨丸はリリの正面に体育座りをして言い聞かせる。
「これが魔界だよ。どこにどんなモンスターが潜んでるかは、行ってみないとわからない」
モンスターからすれば、この魔界唯一の入り口は『宿敵である人間が定期的に出てくる場所』でしかない。獲物を狩ろうと思ったらそこで待ち構えるのは自然だ。
「——入り口の近くだから安全に違いない……って無意識の思い込みに
モンスターの君臨する魔界に、安全地帯など存在しないのだ。
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