三日目 橋本さやか②
どこまで話は広まったのか。
少なくとも、昼休みに教室にいた人間は知っている。
そして体育館にいた面々も、バレー組のみならず、バスケ組も、見学組も、全員ではないにしろなんとなく耳に入っただろう。
だから廊下の向こうから歩いてくる女子生徒こそが
六時間目のあと、理科室から教室へと戻るときのことだった。
向こう側から、体操着入れを抱えた橋本さんがちょうど歩いてきたのだ。
クラスメイトと語らいながら。にこやかに。
その姿は、見るからに体育会系の私たちとは異なって、ほんわかとやわらかな空気をまとっていた。これは男どもが群がるのもわかるなと思った。
見つめすぎてはいけないと思い、周囲に視線を移すフリをしてその途中でちらりと盗み見る。
さりげなくしたつもりだった。
しかし、ばちりと視線がぶつかった。
一瞬のことだったから私の勘違いかもしれない。そう思ってもう一度視線を通過させる。
彼女はしっかりとこちらを見ていた。
私から視線をはずさずに、友人たちと話しながら着実に距離を縮めてくる。
一歩。一歩。
女子生徒たちのはしゃぐ声が近づいくる。
いつもなら楽しそうだなと思うくらいなのに、今はしっかりとその気配を感じ話の内容に耳をそばだててしまう。
十メートル。五メートルとそばに来て、そこで突然橋本さやかは立ち止まった。あまりに突然のことで、彼女と一緒に歩いていた友人らは二、三歩先に進んだところでようやく止まった。振り返りどうしたのと声をかける。
その姿を横目に、私たちはその場を通り過ぎようとしていた。
二メートル。一メートル。
あくまでも、たまたま通りかかった無関係な人間を装った。
しかし、もう手が届くというところで、ついそちらに目を向けてしまう。
橋本さんが私を見つめている。
その手が私の制服の袖を掴んだ。
誰かが声を発したわけではない。だけどその場がざわっと騒がしくなったように感じた。
「
彼女が言った。見た目の印象を裏切らない、可愛らしい声色だった。それに比べて私の声はなんて太い音色を響かせるのだろう。
「そうですけど、なにか?」
そう言ってから私は自分の髪の毛をクシャクシャっとかき混ぜた。
「いや、きっと、
彼女がこのタイミングで私に声をかけるなどそれしかない。知らぬフリはやめて、まっすぐに問いかけた。
すると彼女は、少しだけまわりの視線を気にしながら、私との距離をまた一歩詰めた。内緒話をする距離だ。
それでも足りぬと手招きして私の頭を引き寄せた。
「話があるの。帰りにちょっとだけ、いい?」
指先までしなやかな手のひらを口もとにそえ、私の耳元でささやく。身長差を補うためにほんのちょっと背伸びした姿がまた男心をくすぐるのだろう。
しかしそんなことに感心している場合ではない。
「私に、話?」
緩士じゃなくて、と言葉にする前に彼女ははっきりと頷いた。
「植月さんに、話」
困ったように笑う表情からは、彼女が私にしようとしている話の内容までは推察できなかった。だけど私には心当たりがなくはない。
その通りだとしたら、私に断る権利はないだろう。
「いいよ。二人だけの方がいいよね」
「できれば」
また眉を八の字にして笑う。
「わかった。それじゃあ、あとで……迎えにいかない方がいいね。どこかで待ち合わせる?」
「じゃあ――」
橋本さんは制服の胸ポケットからゲルインクのボールペンを取り出した。私が選ばなさそうなパステルカラーのペン。そのペンで私手のひらにさらさらっと文字を書く。
書き終えると文字をしまうように私の手を握らせた。
「他の人に聞こえると
しっと人差し指を口もとに当て、今度は照れくさそうに笑う橋本さん。やっぱりこの子はカワイイなと思いながらも、その言葉の意味を噛みしめると胸が痛んだ。
それじゃあ、あとで。と橋本さんが手を振る。
それに応えようとして右手を構えたところで、私は開きかけた手のひらを慌てて握った。
あとで。
私は言葉だけを返し、立ち去る彼女を見送った。
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