第2話 永遠の別れ
――イザナキの
突如、イザナキの脳裏に突き刺すように聞こえたのは、
イザナキは口を固く閉じ、敢えて答えようとはしなかった。
一度黄泉に行った者を連れ戻すことが、禁忌だということは、最初から知っている。
たとえそれが許されないことだとしても、イザナミはイザナキにとって何よりも必要な存在だった。
――
火神を生むことは、すでに定められていたことであり、またそれによってイザナミが黄泉に行くことも決まっていた。
タカミムスヒはそう言っているのだ。
たった一人の子のために、なぜ妻を失わねばならぬ!?
イザナキは無言のままイザナミの手を引いて歩き続けた。
――わからぬか!? 全てが終わった今、二人の
その言葉にイザナキの足は止まった。
タカミムスヒの言わんとしていることが、わかってしまった。
それでも、イザナキは迷っていた。
このまま進むべきか、妻を置いていくべきか。
すでに中つ国への出口から差す光が見え始めている。
「イザナキの
イザナキはイザナミを振り返り、その不安げな瞳をしばし見つめた。
心は決まっていた――。
イザナキは震える足で一歩後ずさり、ぎゅっと目をつぶると、彼女を置いて一気に駆け出した。
「
イザナミが後ろから追ってくるのがわかる。
それでも、イザナキは振り返ることなく出口を抜け、重い岩戸を閉めた。
「吾を選んではくれぬのか!? イザナキの
イザナミの悲しい叫びが、岩戸を通して聞こえてくる。
岩を叩く音が響く中、イザナキは戸に寄りかかり、息を整えながら遥か遠くを見つめた。
あふれんばかりの緑に光輝く美しい大地、清く甘い水の流れる川、木々の生い茂る姿のよい山々――。
これらは全てイザナミと愛し合ったという確かな証拠。
あまりに美しすぎるそれらを前に、イザナキは拳を握り締めて、歯を食いしばった。
「
戸を叩く音が不意に止んだ。
沈黙が続いたが、イザナミが去った気配はなかった。
しばらくして乾いた笑い声が聞こえ、それはやがて高らかなものに変わっていった。
「吾が黄泉を治める神に? 吾の
「イザナミの命、永遠の別れぞ。しかし、汝のことを決して忘れはしまい。汝も――」
「別れ……?」
イザナミの笑い声が不意に止まった。
イザナキは不吉な影が胸によぎるのを感じ、顔が強張った。
「よかろう。吾は今後ヨモツ(黄泉津)
その言葉を最後に、イザナミの気配は遠ざかっていった。
イザナキはふらりと黄泉戸を離れ、川のせせらぎの聞こえる方へ足を引きずるようにして歩いていった。
黄泉はそれほどまでに汚かった。
身体中にこびり付いた穢れを早く落とさなければならない。
そうでなければ、すぐにでも黄泉に引きずり込まれるだろう。
イザナキは川に入り、冷たい清流にその身を沈めた。
両手で水をすくって顔に浴びせかけると、冷たい水と混じって、温かいものが頬を伝って流れ落ちていく。
あのような別れ方をするくらいなら、迎えになど行くべきではなかった。
記憶の中に残る幸せな日々を胸に抱いて、生きていくべきだった。
後悔の念ばかりが頭の中を占め、イザナキはただ涙を落とし続けた。
ふと人の気配に顔を上げると、真白い
二人の放つ清浄な霊力は、つい今まで暗く汚い黄泉にいたイザナキにとって、眩しいものだった。
「父上」
青年は目を細めて労わるようにイザナキの肩にやさしく手を置く。
おかげでイザナキは、ようやく笑みを浮かべることができた。
「どうやら、吾は最後に尊い神をもうけたようだ……」
イザナキはゆっくりと立ち上がり、自分の涙とイザナミの
そして、首から下げていた
「
アマテラスは返事と共に、その
それから、イザナキは青年に向き直った。
「汝はツクヨミ(月読)。同じく高天原に行き、夜の世界を治めよ」
ツクヨミは頷いたが、すぐに立ち去ろうとはしなかった。
「それらはもともと
イザナキは視線をそらし、再び黄泉戸の方を振り返った。
「いや、吾はここに残る。ここにいれば、いつでも
イザナキはゆったりと目を細め、静かな笑みをたたえた。
「それに、吾はいつまで生きられるのかわからぬ。だから、
背後からツクヨミの気配が消えると、イザナキは川から上がり、岸辺の草むらに腰を下ろした。
そして、未来に思いをはせ、目を閉じた。
いつか、自分は一番愛しい人に殺されるだろう、と――。
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