女神は月夜に降臨する

糀野アオ

終わりの始まりの物語

第1話 イザナキとイザナミ

 神代かみよ七代が過ぎた頃、混沌としたこの世は三世界――神々の住む高天原たかまのはら、人の住むなかくに、死者のための黄泉国よみのくに――に、はっきりと分かたれた。




 イザナキ(伊邪那岐)は一人、なかくにを旅していた。


 最初、生まれたばかりの国は、岩肌剥き出しの荒涼とした山々が連なっているだけのものだった。

 やがて、水が沸き、川となり、大河が生まれた。

 川のほとりには草が萌え、大地は草原に覆われ、そして、小さな苗木は大樹となり、森に変わっていった。


 そんな果てしない時の流れの中を、イザナキはさまよい歩いていた。


 自分が生み出した中つ国がそのように美しく育っていく姿を見るのは幸せだった。


 しかし、高天原たかまのはらに生まれ、この中つ国や他の神々を生み続けていた日々に比べれば、かげりを帯びるものでしかない。


 そんな胸のうずきは、この旅の終焉には消える。


 今はただ、この国のどこかにあるはずのものを信じて、黙々と道を歩むだけだ。




 日の届かない深い樹海の中を進んでいくと、かすかにさわさわという川の流れの音が聞こえてきた――と同時に、探していた気配がかすかに感じられた。


 イザナキは目的の場所に近づいていることを確信し、早足になった。


 突如、暗い樹海が終わり、眩しい光が目に差し込んでくる。


 思わず目を細めると、そこには大きな川が広がっていた。

 清らかな水が川底の小石を映し、悠々と流れている。

 対岸は燃えるように朱色あけいろの空気が漂っていた。


 イザナキは迷うことなく川に飛び込み、腰まで浸かる水をかき分けながら渡りきった。


 濡れて重くなったきぬを引きずりながら岸に上がると、そこは光り輝く、名もなき朱色の野花が一面に咲いていた。


 その平原を囲むように、天まで届きそうな崖がそびえ立っている。


 イザナキは花を蹴散らし、愛しい気配に向かってまっすぐに駆け出した。


 首にかけた瑪瑙めのう御頸珠みくびたまが弾け、はかまの裾に結った鈴が激しい金音を奏でる。


 ようやくたどり着いた崖下には、何かを隠すように背丈の倍ほどもある大きな岩が置かれていた。


「ここだ……!」


 イザナキは噴き出す汗を袖で拭い払い、長い間忘れていた笑みが再び甦るのを感じた。


 この大岩さえ退かせば、この世で誰よりも愛しい妻、イザナミ(伊邪那美)に逢うことができる。


 イザナミはイザナキのもともと一つだった魂の片割れ。

 火を司る神、ヒノカグツチ(火之迦具土)の神の誕生と共に引き裂かれた魂が、ここにあるのだ。


 その時のことは、昨日のことのように生々しい記憶としてイザナキを苦しめる。


 目の前でヒノカグツチの炎に焼かれながら、『死にたくない』と叫んでいたイザナミ。

 イザナキは激しい神火かむびになす術もなく、立ち尽くしていた。


 そして、彼女は黄泉よみへと旅立ってしまったのだ。


『イザナキのみこと、どうか助けを……!』


 イザナミの最期の悲痛な言葉は、今でも耳に焼け残っている。


 イザナキは自分の一部を失った痛みに耐えきれず、ずっと泣き暮らしていた。


 そんなある日、イザナキは不意に思い立ったのだ。


 こんなことがあってはならぬ。イザナミを取り戻さねば、と――。


 そうして、黄泉へつながる道を見つける旅が始まったのだ。




 イザナキははやる気を抑えつつ、岩戸いわとに手をかけた。

 向こうに広がるのは未だ見ぬ黄泉国よみのくに――。


 ありったけの力を込めて押すと、黄泉戸よみどは重い音を立てて少しずつ横にずれていった。

 徐々に隙間ができ、その向こうにある洞窟が見えてくる。

 かび臭い湿った空気がそこから流れ出し、このなかくにの甘く清らかな風にまとわりついた。


 人ひとり入り込める隙間ができると、イザナキはその洞窟に身を滑らせた。


 入口からもれ入る光で、かろうじて岩肌が浮び上がるのが見えたが、歩みを進めるほどにその光も届かなくなり、目の前は漆黒の闇に変わっていく。


 イザナキは角髪みづらに挿していた爪櫛つまくしを取ると、その歯を一本折り、その先に火を灯した。


「イザナミのみこと、どこにいる? イザナミの命――」


 イザナキは何度も愛しい彼女の名を呼び、注意深く辺りを見回しながら奥へと進んだ。


 やがて、遠くから小さな光が差し、自分の方に向かってくるのが見えてきた。


「イザナミの命……!?」


 イザナキは爪櫛の歯を放り投げて、その光をめがけて走り出した。


 灯皿あかりざらの光に照らし出された顔は確かにイザナミだった。


 自分とよく似た涼やかな目元と射干玉ぬばたまの瞳、生きていた頃と寸分違わない色白の滑らかな肌――。


「この気配、やはりだったか!」


 イザナミはぽったりとした唇を綻ばせ、鮮やかに笑った。


 イザナミの手から滑り落ちた灯皿が音を立てて割れたと同時に、辺りは闇に還る。


 イザナキは懐に飛び込んできたイザナミをしっかりと抱きとめ、その髪に顔を埋めた。


汝妹なにもみこといましがいない世など考えられぬ。共に帰られよ」


「再び汝と共に生きられる。この日をどんなに待ちわびておったか!」


 イザナミの声は喜びに打ち震えていた。


「さあ、くこのようなところから立ち去ろう」


 イザナキはイザナミの手を取り、中つ国への出口に向かって足早に歩き始めた。

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