第十一話 青春ボーナス

 ありふれた話ではないが、珍しい話でもない。九年前の四月九日、俺の両親は交通事故で命を落とした。


「その日はちょうど中学の入学式があってな。父さんと母さんが『一緒に学校に行こう』って言うもんだから、俺たちは三人で入学式に行こうとしていたんだ」


 だが、それは叶わなかった。


「詳しく聞かせる話でもないし、結果から言う。玄関から出た瞬間に、軽トラがウチに突っ込んできたんだ。それで父さんと母さんが事故に遭って……幸か不幸か、俺だけは生き残った」


 母さんは俺の身体を突き飛ばし、身を挺して俺を守った。父さんは俺を守った母さんをかばおうとして、事故に巻き込まれた。

 結果、俺だけが助かった。助かってしまった。


「優しい両親だった。だからこそ俺は、理不尽に善人が殺される現実に心底絶望した。何もかもがバカバカしく思えた。世界なんてクソだと思った。まあ、今思えば中坊の幼い考えだったかもしれないんだけどな?」


 事故の原因は居眠り運転だったらしい。だが、重要な問題はそこじゃなかった。理不尽に大切な人を奪われた俺は、この世界の理不尽、あるいは不条理さに、過剰なほどに絶望を覚えるようになったのである。

 平たく言えば、俺はこの世界の『悪い部分』しか目に入らないようになった。


「どう生きたって、希望なんか無いと思った。善人が報われるとは限らないし、ひたむきな努力が実るとも限らない。見逃されている犯罪は山ほどあるし、要領の良い悪人は上手い具合に生きている。そういう理不尽がやけに目に入って、全部嫌になって……俺は、全てから目を背けるようになった。はは、正直言って、死にたい気分だったよ」


 何も見たくなくなって、部屋の電気を消した。真新しい制服は、クローゼットの奥に仕舞い込んだ。部屋の端で縮こまって、丸まって。このまま何も食べずに餓死してしまった方が楽なんじゃないかとさえ思った。

 そうして、俺は目を閉じて。闇の中に引きこもった……つもりだった。


「だが、俺にも多少の良心は残っていたみたいでな。部屋に引きこもって、飲まず食わずで三日くらい過ごして、ああ死にそうだなーって思った時──急に、生きなきゃいけないような気がしてきた」


 救ってもらった命だから。自分だけの命ではないから。二人の分まで、生きなければいけないと思ったから。

 そんなある種、義務的な理由で。俺は生きるという選択肢を選ぶ他なかった。『死にたい』なんて理由で、死ぬことはできなかった。

 選べる答えは一つだけ。選択問題ですらなかった。


「それで、まあ何日か引きこもった後、俺は部屋を出る決心をしたわけだ。生きる希望なんて無かったけど、死ねない理由はあったからな」


 だから、俺は目を開けた。寝ているのか醒めているのか分からない夢うつつな数日間は、こうして、思いの外あっさりと、終わりを告げたのであった。


「父さんと母さんが居なくなってしまった。家には誰も居なくて独りぼっち。そう思って、重い瞼をこじ開けた。だが……はは。これが不思議なことに、やつれた俺の隣には、一人の女の子が座っていたんだよ。そりゃあもう、ビックリ仰天。驚きに驚いたね」


 言うまでもないだろうが、その少女の名は後田楓である。実家の隣の一軒家に住んでいて、金髪ではなく黒髪で。まだペッタンコだった頃の我が幼馴染だ。


「ソイツ──楓は、なぜか俺の制服を握りしめて、隣に座っていた。今考えてみれば、俺が塞ぎ込んでいるのを良いことにコッソリ部屋に入って、俺のクローゼットを物色していたんだろう。はは、やっぱりアイツはロクデナシだな」


 後で聞いた話によると、アイツは二日間ほど何も飲まず食わずで俺の隣に居たらしい。それに気づかなかった俺も自分でどうかと思うが、無言で隣に居続けたアイツもどうかしていると思う。


「勝手に部屋に入ったのを怒る気力なんてなかった。だから俺は、ただ一言尋ねたんだ。『なんでお前が居るんだ』ってな。そしたらアイツ、なんて答えた思う?」


 ああ、あれは今でも。


「優と学校に行くため、って言ったんだよ」


 バカバカしいくらいに単純な回答だったから。腫らした目を擦りながら強引に制服を手渡してきたアイツの顔は、今でもよく覚えている。


「まったく。なんでなんだろうな。アイツの顔見たら、急に涙が出てきてさ。ワケわかんないくらい、涙が込み上げてきてさ」


 ああ、きっと。


「多分その時、初めて俺は悲しくなって、泣くことができたんだと思う」


 いつも一緒に居た楓の顔を見て、ようやく。俺は本当の意味で父さんと母さんを失った事実を受け止めることができたんだろう。


「その後は、母方の婆ちゃんが来て、女手一つで俺をここまで育ててくれた。結局世界がクソだって考えは変わらなかったけど、せめて婆ちゃんのために勉強くらいは頑張ろうと思って、必死こいて勉強した。そしたら婆ちゃんが笑顔で『優作は偉いね』って褒めてくれるもんだから、だんだん勉強が好きになっていった。中坊の俺でも誰かを笑わせることくらいはできるんだなって思って、多少は生きる希望も生まれた」


 現代社会は不平等だ。理不尽に溢れている。その考えは、今でも変わらない。

 だが、そんな世界の中にも、俺を見つけてくれる人が居た。黙って傍に居てくれる友人が居た。老体に鞭打って、俺を育ててくれる家族が居た。

 だったら、彼女たちに恩返しするために、自分の人生を使えばいいんじゃないかと思った。

 ──そして願わくば、俺も彼女たちのように。塞ぎ込んでいる誰かを照らせる光になりたいと思った。


「あとは、まあ簡単な話だよ。楓から『優は人に教えるの上手なんだし塾講師でもやればいいんじゃないの?』って言われたから、バイトで塾講師を始めた。高時給だし週五で働けば自分の生活費くらいは賄えるから、婆ちゃんの負担を減らすことができるし、それも好都合だったからな。そして、なにより……悩める生徒の力になれるのが、純粋に嬉しかった。俺自身、他人から救われて今がある身だからな。自分がそうされたように、俺も誰かを助けたいって気持ちはあるんだよ」


 だから、俺は自分の仕事には一切手を抜かない。現実的に、論理的に考えて、生徒を合格に導くことを心がけている。俺にできることなら、なんだってやる。たとえ生徒から『うっとおしい』と嫌われたって構わない。

 誰かのために生きる。いつの日からか俺の心には、そんな意志が根差してしまったのだから。


「何気ない行為に救われた少年が歳を取って、次第に誰かを救いたいと思うようになった。それなりに頭の出来は良かったものだから、勉学の指導という形でなら誰かの力になれると思った。長々と話したが結局、俺が塾講師になった理由はそんなもんだ。何か疑問質問等あれば、受けつけよう」


 少し喋り過ぎたのではないか。高校生に聞かせるには話が重すぎたのではないか。

 そんな一抹の不安を覚えつつ、視線を海から教え子の横顔に移す。


「……ふふ。なんか、先生がどうしてセンセーなのか分かった気がする」


 しかし俺の思案をよそに、彼女は笑っていた。沈みゆく陽の光を瞳に映しながら、作り笑いではない笑みを、浮かべていた。


「なんかさ。アタシ、ずっと不思議に思ってたの。センセーは厳しい言動が多いのに、どうしてアタシはセンセーのことを嫌いにならないんだろうなぁ、って。アタシ、頑張るのってそんなに好きじゃないからさ? 色々言って頑張らせようとしてくる大人って、正直嫌いだったの。でも……センセーのことは、なんだか嫌いになれなくて。ずっとなんでだろうなーって思ってた」

「そ、そうだったのか」 


 お互いズブ濡れになった『あの日』以降は、素直に授業を聞いてくれていたかのように思えた神楽坂。しかし話を聞く限りでは、少なからず俺への疑念も持ち続けていたらしい。

 正直、そんな気配なんて微塵も感じていなかった。やはり俺は、女心に疎いということだろうか。


「でもね、アタシやっと分かったの。センセーはアタシに頑張らせようとするんじゃなくて、アタシと一緒に頑張ろうとしてくれるから、厳しくされるのもイヤじゃないのかもな、って」

「……詳しく聞いてもいいか」

「えっとね? そりゃあ確かにセンセーは頭硬いし、リアリスト過ぎてどうかと思う時もあるし、女心全然分かってない時もあるんだけどね?」

「おい。誰もディスってほしいなんて言ってないぞ」

「ま、まあ最後まで聞いてって! アタシが言いたいのは、そ、その……センセーは厳しい部分もあるんだけど、それは優しさの裏返しなんだろうなってこと!」


 言って一瞬、頬をプクリと膨らませて。しかし、すぐに冷静さを取り戻して、彼女は朗々と語り始めた。


「あんな話聞かされたら、そりゃ色々思うことはあるよ? 悲しくなって、微笑ましくなって、少しだけ悔しくなったりした。でもね? 一番に思ったのは……センセーは、櫻田優作は。とっても優しいんじゃないかってこと」

「? あんだけ世界はクソクソ言ってたのにか?」

「だからこそだよ。理不尽を経験して、どうしようもないこともあるって分かった上で、誰かのために生きようとするセンセーは、優しいよ。だから……きっと、厳しいのも現実主義なところも、全部優しさの裏返しで。アタシの機嫌とか気にせずに、アタシの合格を最優先に考えてくれてる証拠なんじゃないかなって思ったの。違うかな?」

「……さあ、どうだろうな。想像に任せる」

「えへへ。じゃあ、全部合ってるって想像するね?」

「ハッ、勝手にしろ」


 合格が最優先。故に、時には厳しくする。そこに関しては、まあ大体合っている。

 だが、その行為が俺の優しさに裏打ちされたものなのか、なんてことを俺に聞かれたところで、答えられるはずもなかった。

 自分で自分のことを優しいと言える人間なんて、居るわけがないのだ。もしそんな自己評価を下せるヤツが居るとしたら……それは、傲慢な嘘だ。ソイツは優しい人間なんかじゃない。


「あーあ! センセーのこと知れて良かったけど、なーんか劣等感!!」


 真っ白な両腕を天に突き上げて。海に向かって唐突に、彼女が叫んだ。


「急にどうしたんだよ。別に、お前と俺の間に優劣なんて無いだろ」

「まあ、そうだね。だからコレは、アタシが勝手に負けた感覚になってるだけ」

「勝負した覚えは無いんだがな……」


 まあ、一度ジャンケンで勝負をしたと言えなくもないが、あの時は俺が完敗だった。彼女が抱く劣等感に、それは関係ないだろう。

 おそらく、もっと根本的な、精神面で彼女は劣等感を抱いている。

 そして、俺は。


「さあ、そろそろお前の悩みについて話してもらおうじゃないか」


 その劣等感の原因に、心当たりが無いわけでもなかった。


「あー、そういえば『センセーが全部話してくれたら、アタシも隠してることを話す』って条件だったね。でも、大した悩みじゃなかよ? ほんとに聞きたい?」

「いいから黙って話せ。教え子の悩みに大きいも小さいもない」

「ふーん、そっか。じゃあ、話してあげるね」

「だから。なんで相談する側が上から目線なんだよ」


 背丈は俺より頭一つ分低い癖に、やたらと態度は上からであった。しかし深刻な面持ちではない分、ある意味で安心感を覚える。本人の言う通り、さほど重大な悩みでもないのだろうか。

 彼女はコホンと一つ咳払いをすると、気怠げに口を開いた。 


「アタシ、さ。特に夢があるわけでもないんだよね。何かやりたいことがあって西九に行きたいわけでもないの。良い大学に行ったほうが良さそうだから、なんとなく西九を志望してるだけ。だからアタシと違って、立派な理由を持って生きてるセンセーが少しだけ羨ましくなっちゃった」

「……なるほど。そういうことか」


 そういえば、神楽坂からハッキリと志望動機を聞いたことはなかった。別に聞き忘れていたというわけではないのだが、指導の過程で無理に聞く必要も無かったのだ。

 しかし、まさかそれが悩みのタネになっているとは。こんなことなら、早いうちに志望動機についても話しておくべきだったな。


「つまりお前は、特にやりたいこともなく大学に行こうとしている現状に悩んでいるってことでいいんだな?」

「まあ、うん。そんな感じ」


 なるほど。まさに受験生にありがちな悩み、といったところか。


「クラスの子たちはね? みんな、やりたいこととか、夢があるって言うの。そういう話を聞いていると、なんだか皆がキラキラ輝いてるように見えて、眩しくて。何もないアタシは、その光から伸びてる影の中にスッポリ入ってるような気分になっちゃうの」

「……何が『大した悩みじゃない』だよ。めちゃくちゃ大したことあるじゃねぇか」

「いいや、多分大したことは無いんだよ。やりたいことが無くたって勉強はできるし、センセーについていけば合格できそうな気もするし。アタシに夢が無くたって……世界は、何事もないように回っていくし」

「それは、まあそうだろうな」

「ふふ、やっぱセンセーって優しいけど辛辣ぅ」

「いや、どっちだよ」


 しかし、どうしたものか。と、腕組みをして夜空を見上げる。気づけば太陽は地平線の彼方へと消え、頭上には一番星が光っていた。

 確かに神楽坂が言っていることに、おおよそ間違いは無い。夢が無いとか、大学でやりたいことが無いだとか。そんなのはちっぽけな悩みに過ぎないし、俺たちがどれだけウンウンと唸ろうとも、当たり前のように地球は回り続けていく。

 だが、一つだけ。彼女の言葉には間違いがある。家庭教師として、それは訂正しておくべきだろう。


「あのな? 神楽坂。お前、『立派な理由を持ってセンセーは生きてる』って言ってたけど、それは違うぞ?」


 俺の生き方を尊敬するなんぞ大間違いも甚だしい、と。


「え? だってセンセーはお婆さんと楓さんに感謝して、他人のために生きようとしてて……」

「だーかーら。そもそもそれが立派じゃないんだよ。俺は、自分が生きる理由を他人に求めているだけだ。夢も希望も無いから、自分のために生きられないだけだ。はは、そのくせ、コミュニケーションは下手で、ロクに友達すら作れやしないんだけどな。ちぐはぐもいいところだ。とても褒められたような人間じゃない」


 だから、まあ、その点で言えば。


「俺も空っぽなんだよ。特にやりたいこともなく、なんとなく生きているだけだ」


 ──きっと俺と彼女は、似ている。


「不思議なもんで、人は自分の悪いところにはちゃんと目が行くくせに、他人の良いところばかりを見ようとする。影は見られず、光しか見られない。裏にある苦悩や、努力は目に入らない。だから、嫉妬する。だから、羨む。お前は俺の数少ない長所しか見えていないから、俺が立派な大人であるかのように錯覚しているだけなんだよ」


 ……多分。


「夢が無い? それがどうした。そのうち見つかるかもしれないじゃないか。やりたいことがない? だったら、大学でやりたいことを探すのも悪くない。新しい友達を作って、キャンパスライフを満喫すればいい」

「そ、それだけの理由で進学してよかと……?」

「ああ、それでいい。案外、多くの受験生は大層な理由もなく進学しているもんだぞ?」


 もっとも。俺もそんな有象無象のうちの一人だったわけだが。


「明けない夜はない。止まない雨はない。海だって、朝夕晩で色を変える。だから、ずっと何も無くて心が空っぽなままってことも、きっと無いんだ」


 ──そして。


「なんとなく頑張ってれば、そのうち光るものも見つかるさ! そう! 今目の前で輝いている、あのウミホタルのようにな!」

 柄にもなく声を大にして、俺はすっかり闇に染まった海を指差した。

「うわ、なにコレ……すっごい綺麗……!」


 俺に向けていた視線を海へ移し、両手で口を抑える神楽坂。

 彼女の眼前を支配するのは、小さくて。けれど確かに輝いている、微かな光。

 夜空では星々が。そして闇夜の海では海の昆虫、すなわちウミホタルが。それぞれ小さな輝きを放っている。


「この時期、この場所、この時間に限って、稀に見られる景色でな。ウミホタルってのは海に住む小さな虫で、その名の通り光を放つんだが……はは、聞いちゃいねぇや」


 光を見つめる彼女の瞳は、それこそ眼前の光群にも負けないほどに輝いていた。先ほどまで悩んでいたのがまるで嘘のように、眼前の光景に夢中になっている。


「……あ、ゴメン! ボーっとしてた! センセー、何か言った?」


 夢から覚めたようにビクリと身体を震わせ、少女がこちらを向く。


「いーや、別に何も? ただ、お前もまだまだ子供だなーと思っただけさ」

「っ! だ、だってしょうがないでしょ!? こんなの見ちゃったら、誰だって童心に帰っちゃうよ! ていうかアタシ、まだ子供だし! 別にいいじゃん!!」

「はは、そうだな。お前はそれでいい」

「あっ! 今センセーちょっと笑ったぁ! なによ! アタシをバカにしてるの!?」

「はは。さあ、どうだろうな?」

「むきー! なんかムカつくぅー!!」


 プンスカと頬を膨らませる彼女を見ていると、笑みがこぼれてしまった。もちろん顔が滑稽だったというのもあるが、あれだけ大人ぶろうとしていた彼女が自分を『まだ子供だ』と認めたのが微笑ましくて、少し安心して。思わず頬を緩めてしまったのだ。


「さて。あまり遅くなると親御さんを心配させてしまう。今日のまとめをして、そろそろ帰るとしようか」

「え? 今日のまとめ? 何それ?」

「今日のオープンキャンパスはあくまで課外授業だからな。ならば最後に授業内容をまとめる必要があるだろう」

「うわぁ、センセーって相変わらず頭カチンコチンだね。硬すぎてそのうちヒビ入っちゃうかもよ?」

「うるせぇ。いいから、まとめだ。耳の穴かっぽじってよく聞いとけ」


 そして。俺はコホンと一つ咳ばらいをして、本日の総まとめを告げることにした。


「まとめ。

・やりたいことなんて後から、いくらでも見つかる。大いに悩め。

・悩んでもずっとお先真っ暗、なんてことは無い。真っ暗な中にも小さな希望の光はあるはずだ。その光を探す努力をすればいい。

以上」


 特に夢もない俺が偉そうに、こんな講釈を垂れるのは筋違いかもしれない。俺自身、まだやりたいことなんて無いからな。教え子も教師も、お互い空っぽだ。

 だが、俺は信じている。悩みもがく暗闇の中にも必ずウミホタルのような小さな光があると、信じているのだ。

 ──かつて楓と婆ちゃんが、暗闇に引きこもっていた俺の光になってくれたように。悩める誰かを照らす光は、小さくても必ずどこかにある。

 俺は、そう信じている。


「さあ、恋愛教師。次はお前の番だ。今日の俺を採点してもらおうじゃないか」


 どうせ、いつも通り『次はアタシのターン!』と主張してくる。そう踏んだ俺は、偶には先手を打とうと考え、彼女の小さな左手を握った。


「……え? センセ? なに、この手? 二問目の『タイミング見計らって手を繋ぐ』は正解にしてあげたつもりなんだけど?」


 首を傾け、キョトンと彼女が俺を見つめる。


「ああ、確かに俺は正解したかもしれない。でも、なんというか、その……あんな形で正解するのは、俺が納得いかなかったんだよ。アレはお前を助けようとして、無意識に手を取っただけだ。俺がお前の気持ちを考えて、手を握るタイミングを見計らったわけじゃない。あんなのは、そう。偶然だ。四択問題を勘で当てたようなもんだ」

「だから、今手を握りなおしたってこと?」

「あ、ああ、そうだ。復習すべきなのは間違えた問題だけではなく、勘で答えた問題も含まれる。だから、なんというか。与えられた『初デート』という条件でお前と手を繋ぐなら、共に夜景を見ている今が最適だと判断した次第だ」

「……」


 すると彼女は、元々大きな目を更にまんまるに見開いて。


「ふふ……ふふふ……あははははは! センセーってやっぱりセンセーだぁ! あははははは!!」


 かつてないほどに、大爆笑していた。


「お、おい、笑うなよ! こっちは真面目にお前の問題演習に付き合ってやったんだぞ!?」

「あーいやいや、ゴメンゴメン! まさかセンセーがもう一回手を握ってくれるなんて思ってなくてさ! しかもバカ真面目に数学の問題解く時みたいに、まくしたてるもんだから……あはははは!!」

「おい! 笑うなって言ってんだろ!!」


 手はしっかりと握ったままで、涙を拭いながら笑う彼女。一体何がそこまでツボにハマったのか。大変遺憾である。


「いやー、笑った笑った。センセーって頭良いけど、ホントバカだよね。女心は数学みたいに解けないって言ったのに。結局ガチガチに理論立てちゃってるじゃん」

「っ、そ、それは……仕方ないだろ。俺は、こういうやり方しか知らないんだ」

「ふふ、そっかそっか。そうだもんねぇ。センセーは優しさが絶望的に不器用で、カチカチ理屈マンだもんね」

「だから。さっきから俺もそう言ってんだろ──」


 ──なんて、いつも通りの返しを試みた刹那。


「でもね?」


 彼女は、その整った顔を俺の耳元に急接近させて。


「アタシは、そんなセンセーが大好きなんだよ?」


 甘い香りと声色で、囁いてきたのだ。


「な、ななな……! なな……!」

「あはははは! センセー顔まっかぁー! 超ウケるぅ!」


 狼狽える俺を小バカにするように、ゲラゲラと声を上げる小悪魔。


「ねぇ、告白されたかと思った? 告白されたかと思った?」

「う、うるせぇ! そんなわけないだろ! アレだ、アレ! 生徒として言っただけだろ!?」

「えへへぇー、それはどうだろうねぇ?」

「……!」


 新しいオモチャを見つけたような表情で。柔らかな手をグーパーさせながら、俺の反応を楽しむ問題児。恋愛教師モードに入った途端に、コレである。

 ああ、クソ。どうしてこんなことになっちまったんだ。こんなの、もう言い訳出来ないほどに、家庭教師の範疇を超えちまってるじゃないか。


「……おい、神楽坂。お遊びはこの辺にして、マジでそろそろ帰るぞ。俺を採点したいなら今すぐやってくれ」


 鋼の理性で己の平常心を取り戻し、恋愛教師に語り掛ける。


「お、そうだったそうだった。うーん、じゃあ今日のセンセーは……一問目の『服装を褒める』が不正解で、二問目の『手を握る』が正解だったから八十点!! おめでとう! 自己ベスト更新だね!」

「は? 半分正解で八十点? 五十点じゃないのか?」

「あー、そこはほら、大学入試と同じだよ。大学入試は二回試験があって、二つの配点比重を大学が決めるでしょ? だからアタシも、自分で配点を決めてみたの! 一問目が三十点で二問目が七十点!」

「ん? それだと七十点にならないか?」

「ふっふっふ。そこはアタシの裁量というものさ」


 言うと、彼女は俺の手を放してスタっと立ち上がり、


「今日はとっても楽しかったから、オマケで十点プラスしてあげる! 青春ボーナスだよ!」


 破顔一笑。「ブイ!」とピースサインを見せながら、シロップで染まった青い舌を出していた。


「やれやれ、まったく。とんでもない試験官が居たものだ。入試本番はオマケの点数なんてもらえないからな?」


 家庭教師モードに戻り、俺もベンチから立ち上がる。

 まったく、何が青春ボーナスだ。教師と生徒の青春があってたまるものか。お門違いにも程がある。


「おーい、センセー! はやくこっち来なよー!」


 気づけば彼女は俺の隣を離れ、帰り道を歩き始めていた。ブンブンと手を振りながら、黄昏の俺を呼んでいる。

 やれやれ。手を繋げと言ったかと思えば、勝手に先に行ったり。わがままな教え子だ。


「つーか……全部溶けてんじゃねぇか」


 ふと、ベンチに置いていたカップに視線を落とす。中にあるのは、ただの青ジュースと化した、元カキ氷。

 いかん。自分用のカキ氷を買っていたのを完全に失念していた。


「はぁ、しかたない。飲むか」


 捨てるという選択肢もあったが、飲み干すことにした。

別にもったいないという精神ではない。青春ボーナスなる言葉がやけに頭に残って、なんとなくムシャクシャして。目の前の青を、この世から消し去りたくなっただけだ。


「……ぷは」


 化学味のジュースを、一気に流し込む。


「ちょっとー! 何やってんのセンセー! はやく帰ろうよー!!」

「あーはいはい、分かった分かった! 今行くよ!!」


 大声で返事をしつつ、俺は一抹の後悔を覚える。

 元々甘いのは苦手だったが、今日飲み干した青は、胸焼けするほどに甘かったから。飲まなければ良かった、なんて遅すぎる後悔をしつつ俺は、口直しのために、思いっきり潮味の風を吸い込んだ。


「……はは。なんだよ、コレ」


 天を仰いで潮の匂いを口に含んでも、一向に青い甘味は消えず。見上げた夜空の月は、腹立たしいほどに綺麗だった。



〈指導報告書⑥〉講師名:櫻田優作 

・課外授業終了。目立った問題はなし。許可をいただけたことに、改めて感謝を。

・不覚にも講師である私が、生徒から多くのことを教わってしまったようだ。


 

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