第七話 誤解
スーパーに到着した後、ほどなくして俺と楓は別行動を取ることとなった。
楓曰く、ヤツにもヤツで買いたいものがあるらしい。まあ、どちらかと言えば行動を共にする方が面倒な部類の女なので、別れて困ることは特にない。むしろ疲れずに済む分、気は楽だ。
現在、俺はレトルトカレー売り場で一人、眉間にシワを寄せながら、選び取る商品を吟味しているところである。値段と容量のバランスを考えて最もコスパが良い物を選び取るというのは、貧乏大学生にとって必須任務なのだ。
ちなみに、なんでレトルトカレーなん? と聞かれれば、それは俺が料理をする気分では無いからである。バイトとレポートに神経を注いで、もうクッタクタなのだ。マジでガス欠5秒前である。
「セーンセっ♪」
いやはや、それにしても今日は特に疲れているようだ。まさか教え子の幻聴まで聞こえてくるとは。
「夕飯のお買い物かな? それにしては、少し遅い時間だけれど」
「ああ、そうだよ。俺は今、コスパ最強のレトルトを探しているのさ」
「へぇー、大学生って結構大変そうだね?」
「大変も大変。超大変よ。ウチは経済的に厳しいし、隣には変な女が住んでるし……」
ん? ちょっと待て。幻聴と会話が成立しているような気がする。
なんて、疲労困憊の頭で考えた刹那。普通に考えれば即座に導きだせるような結論を、俺は十数秒かかってようやく導き出すことに成功した。
「お前、本物の神楽坂繭じゃん」
「え? 逆に今まで誰と話してるつもりだったの?」
くりくりとした、二重の瞳。日中に外出すれば太陽熱を吸収しまくりそうな、黒くて透き通った頭髪。そして一度だけ目にしたことのある、ラフな部屋着。間違いない。隣で俺を見上げている少女は、神楽坂繭その人だった。
「それにしてもすっごい偶然だよねー。あ、センセーの家ってこの辺? 意外とアタシん家とご近所さんだったりする?」
「いや、個人情報だからそれはノーコメントだが……お前、こんな時間にスーパーなんかに来て何してるんだ?」
現在、閉店直前の二十時四十分。女子高生が外を出歩くような時間帯ではない。
「ん? あー、アタシはママの買い物に付いてきただけ。ちょっと外で風に当たりたい気分だったから」
「な、なるほどな」
神楽坂が非行少女と化したのではないかと一瞬ヒヤッとしたが、そういうわけではないらしい。ほっと胸を撫でおろす。
「あ。もしかしてセンセ、アタシが夜に一人で出歩いてるんじゃないかって、心配しちゃったりした?」
「ん? そりゃ教え子のことは心配するだろ。それに、神楽坂は人より繊細な性格してるからな。お前のことは普通の生徒より注意深く見ているつもりだ」
これまでのことを考えるに、この子は精神的ストレスを溜めて爆発させるタイプの女の子だ。また妙なことをしでかさないように、気を付けて見守っていく必要がある。
「へ、へぇー。そうなんだ。あはは、なんか思ってた反応と違って、少しびっくりしちゃったな……」
どういうわけか、ニマニマとこちらを見つめていた先ほどの態度が一変。神楽坂がプイっと視線を逸らす。
「なんか、センセーってずるい気がする。優しいのか優しくないのか分かんない」
「いや、何を言っているのか微塵も分からんのだが」
というか、このまま駄弁っているのは非常にマズい。プライベートな時間に生徒と交流するのはよろしくない。
何より楓がこの場に来ようものなら、間違いなく面倒な展開になる。
「ゆーうー! 私の買い物終わったよー!!」
そして。やはり世の中とは無常であり、俺に対しては無情であった。
きっとこの世に人を救う神など居ないし、居たとしてもソイツは疫病神だろう。でなければ、このタイミングで後田楓が颯爽と登場していいわけがない。つーか買い物終わったんなら、先に帰っとけよパチンカス。
「え……?」
空気を読まず、そもそも店の中でのマナーすら守らず。大声で駆け寄ってきた楓を見つめ、狼狽える神楽坂。
「えっと、センセー? この人は一体……?」
分かる。神楽坂が困惑する気持ちは痛いほどわかる。いきなり核爆弾級の個性のカタマリが現れたのだ。そりゃあ誰だって最初は動揺する。
「あー、えっと、コイツはだな……」
──と、ひとまず楓とは腐れ縁であると説明し始めた瞬間。
「いぇーい! 私は優の彼女でーす!!」
「はぁ!? 何言ってんだお前!?」
状況。タイミング。そして、集いしメンツ。どれを取っても今一番、場をややこしくするであろうセリフを、楓がピンポイントでブン投げた。
「お、お前! マジでふざけるのも大概にしとけよ!?」
「あらあら、優ったら照れちゃって。私たちは一緒にお風呂に入るような仲でしょ? ね?」
「黙れ。お前マジでいっぺん黙れ。一生黙れ」
注。一緒に風呂に入っていたのは五歳までの話だ。十五年以上前の話だ。
「ま、まさかセンセーに彼女が居たなんて……」
「いや、待て。落ち着け神楽坂。深呼吸だ。そして俺の話を聞いてくれ」
急展開に次ぐ急展開。全く頭が状況に追い付かない。つーか、なんで修羅場みたいになってんだ?
クソ。恋愛教師ってのが特殊過ぎて、全てがややこしくなっている。
「繭ー!! そろそろ帰るわよー!!」
いや、待って。待って下さい、急に登場したお母様。まだ娘さんの誤解が解けてないんです。このまま帰られると、とんでもない勘違いをされたままになるんです。
「あ、うん、わかったよママ! じゃ、じゃあまたね、センセ! あ、明日の授業もよろしく!」
「あ、ちょ、待ってくれ神楽坂! 十秒、いや五秒でもいい! 頼む! 頼むから俺の話を聞いてくれえぇぇ!!」
……と、呼び止めてみたものの。出口に居るお母様の元へ猛ダッシュで駆けていく神楽坂の背中はみるみると小さくなっていき、挙句の果て、俺は『なんだ、あの迷惑バカップルは』的な冷たい目線を店員さんから向けられるという、考えうる限り最悪の状況に陥っていた。
「ねぇ、さっきのって優の生徒ちゃんでしょ? 優のことセンセーって言ってたし」
周囲の視線を気にすることもなく俺に問いかける、フリーダム暴れ馬。
「あはは、想像以上にかわいかったから、ついついからかっちゃった。うーん、でも……ちょっとやり過ぎだったかな……?」
「もう五分早く気づけ、このバカ。中身はともかく見た目だけはホントに怖いんだからな、お前。いきなりヤンキーみたいな金髪女があんなテンションで来たら、そりゃ驚くっての」
長年の付き合いで俺は後田楓という人間のことを熟知している。コイツは昔から「面白そうだから」という動機で行動する女であり、今日の出来事もその例外ではないのだ。
なんか面白くなりそうだった。だから神楽坂をからかってみた。ただそれだけの話なのである。タチの悪いことに、コイツに悪意は無いのだ。
そして、先ほどの言動は少し度が過ぎていたということに今更気づいたのだろう。たとえ嘘であったとしても、生徒が家庭教師の恋愛事情を垣間見れば互いに気まずくなるし、多少面倒なことになる。
そういう込み入った事情に、楓は今更頭が回ったのだ。
「ねぇ優、明日生徒ちゃんに『からかってごめんね』って伝えといてくれないかな……?」
「はぁ……謝るくらいなら最初から、からかうなっつーの」
「うう、ごめん……どうしても好奇心が抑えられなかったんだよ……」
珍しくしょぼくれている楓を見ていると、不意に『好奇心は猫を殺す』という言葉を思い出した。『過ぎた好奇心を持てば、その身を滅ぼすことになりかねない』という意味を持つ、イギリスのことわざである。
神楽坂に好奇心を持ちすぎた結果、『やり過ぎた』という後悔の念に悩まされている今の楓は、まさに好奇心で身を滅ぼす猫そのもののように思えた。
「やれやれ、まったく。お前は本当に仕方が無いヤツだな。いいよ。代わりに謝っといてやるよ。今後は度が過ぎたおふざけは控えるんだぞ」
「うう、ありがとう優ぅ……」
そして、俺は猫相手に本気で怒るほど心が狭い人間でもない。明日の指導に多少の不安はあるが、謝罪の代行くらいは引き受けてやってもいいだろう。
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