第四話 救世主
指導終了後、いつもの帰り道。初夏の湿気はインナーのTシャツをピトリと俺の肌に張り付かており、これでは『肌に着る』肌着ではなく『肌に密着』する肌着ではないか。などと、つまらない文句を垂れながら夕焼け道を歩く。
ちなみに本日、恋愛教師・神楽坂が俺につけた点数は三十点だった。なんでも、今後は授業終わりに彼女が毎回『アタシの目から見た、男としてのセンセー』を採点し、女子目線であれこれとアドバイスを送るらしい。今日は「もっと目を見て話さないとダメだよ? まだ口調がぶっきらぼうで優しさが足りないかな!」などと口うるさく言われた。明日もダメ出しを喰らうのは癪なので、次回はもう少し優しくしてやるとするとしよう。
「つーかマジで蒸し暑いな。サウナかよ」
しかしこうもジメジメしていると、嫌でも梅雨の足音を感じてしまう次第である。お天気お姉さんの話によれば、沖縄は既に梅雨入りしているとかしていないとか。いやはや、これは九州の梅雨入りにもリーチがかかっているかもしれないな。
だが雨の日に神楽坂家に通うというのは、家庭教師的に面倒だ。拝啓、梅雨前線殿。しばらく貴殿には沖縄付近で油を売っていてほしいのだが、いかがだろうか。律儀に九州まで上昇せずとも、停滞して沖縄を満喫するのも悪くないと思うのだが、どうだろうか。
「うーん、何か大事なことを忘れている気がするんだよな……」
火花バチバチ・雨でビショビショだった教え子との問題を解決し、独白で一人コントをするくらいには、機嫌を良くしている俺。しかし人間とは往々にして、調子に乗った時ほど痛い目を見る生き物であり、それを十全に承知している聡明な俺は不意に、言いようのない健忘感を覚えたのである。
「……あ」
加えて、人間とは何のきっかけも無く大事なことを思い出す生き物でもあり。つまり何が言いたいかと言えば、俺は瞬時に『それ』を記憶の棚から引っ張りだしてしまったのだ。
「やべ。明日提出のレポート、まだやってねぇ」
◆
帰宅直後、俺は流れるようにデスクへと向かい、PCを起動してレポートファイルを展開。
▽
電気情報科三年・実験レポート
(学籍番号)1TE67481H
(氏名) 櫻田 優作
問一「先日実験で取得したデータを元に、最小二乗法を用いてvとtの関係の近似式を求めよ」
問二「求めた近似式と理論式を比較し、考察を述べよ」
問三「実験条件の改善点を検討せよ」
▽
「おうっふ……」
が、しかし。学籍番号と氏名を入力した途端にフリーズを起こしてしまった。
……PCではなく、俺の脳みそが。
「いや最小二乗法って、なんぞそれ……」
大学生・クソレポートあるある、その一。『習ってもいない知識を唐突に要求してくる』
目下、俺はその問題に直面してしまったわけである。
「よっす、優! 夜ごはん食べに来てやったぞ!」
「帰れ」
加えて、あれよあれよという間に問題は積み重なる。最悪とも呼べるタイミングでベランダの戸が開いたかと思えば、古びた高校時代のジャージを身に纏った金髪女が現れた。
「ん? なに、それ? レポート?」
肩口からグイッと顔を近づけ、PC画面を覗き込む楓。風呂上がりだろうか。ほのかにコンディショナーの香りがする。
「ああ、そうだよ。提出期限が明日までだったのを忘れていてな。今慌ててやってるところだ」
「あれま。勤勉な優にしては珍しいね。いつもは余裕をもってレポート片付けてるイメージがあったんだけど」
「……まあ、最近は色々あったからな。完全に忘れてたんだよ」
JKに弱みを握られたりとか、JKに弱みを握られたりとか、JKに弱みを握られたりとか。
いやはや、本当に色々なことがあったな。
「でも、なんだろう。心なしか優の顔がスッキリしてるように見える?」
「そりゃ気のせいだろ」
「あ、分かった。例の生徒ちゃんの問題を解決できたんだ。ふふ、そうなんでしょ」
「……」
なぜにこの女は、こうも察しが良いのだろうか。
「さ、さあ、どうだろうな。解決したかもしれないし、解決していないかもしれない。つまりはノーコメントだ」
「分かった。じゃあ勝手に解決したと思うことにするね?」
ニッシッシと、楓が屈託なく笑う。
「そりゃまた。相変わらずめでたい脳みそなことで」
「ふっふっふ。そうさ、私は常にめでたいハッピーガール。タダ飯を食べられて、ハッピーな女。というわけで、ごはん食べたい」
「……お前、ホントぶれないよな」
もはや呆れを通り越して感心の域である。
「つーか見ての通り、俺はレポートと格闘中なわけ。しかもやたらと問題難しいし、このまま調べ物とかしてたら徹夜になるかもしれないわけ。メシ作る暇なんて無いんだよ。まずはその辺の事情を理解してほしいんだが」
「いや、優が徹夜する展開にはならないと思うよ? 私が協力してあげれば、の話だけど」
「は? どういう意味だよ……?」
協力? いつも何かと俺に依存してくる、あの楓が?
などと、上手く言葉を飲み込めずに疑念の目を向けた刹那。楓は「えっへん」と自信たっぷりに、豊満な胸を包むように腕組みをすると、
「ねぇ、もし私がそのレポートの答えを入手できるって言ったらどうする?」
「そんなモンたらふく飯食わせてやるに決まってんだろ」
予想だにしていなかった、救いの手を差し伸べてきたのであった。
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