最終話 この果てしなく青い空の下で
WBCが終わり、日本代表もそれぞれの本拠地へ帰っていく。
全力を尽くした後に、これからレギュラーシーズンが開幕というのは、コンディション調整が難しくなるのかもしれない。
直史と樋口は、アナハイムのチームに合流。
数日は休んだが、そこからオープン戦に入っていく。
春ではあるが、カリフォルニアは年間を通じて、それほど寒くなることはない。
アメリカの場合は州によって、明らかに寒暖差が激しいのだ。
レギュラーシーズンが始まれば、普通に日本の春の気温の地域を訪れることもある。
コンディションを整えるというのは、そちらのことも注意していかなければいけないのだ。
オープン戦で直史は、短いイニングを調整として投げている。
だがほぼ毎日付き合っているのは、ターナーのフリーバッティングだ。
あのWBCの決勝で、参加したメジャーリーガーのほとんどは、バッティングの調子を崩している。
上杉と直史の二人に、継投でパーフェクトをされてしまった。
特に直史などは、変化球を存分に使っての、九連続三振という結果であったのだ。
上杉はまだ分かる。純粋にスピードが違う。
人間の反応速度には限界があるのだ。
しかし直史のピッチングには、これまでの野球とはまったく別の次元からの視点がある。
それはここまでの四年間で、散々に指摘されてきたことなのだ。
現状、それに対応出来る試合があるのは、メトロズだけである。
一年間直史とバッテリーを組んでいた坂本に、直史との対戦経験の多い大介。
直史のピッチングの原点には、アメリカではなく日本の野球がある。
それを認めるだけでも、屈辱であったり不本意であったりするのかもしれない。
今日も直史は、早朝からエネルギーを摂取すると、軽い運動を始める。
それが終わる頃には、瑞希が目覚めて朝食を作っているというわけだ。
真琴が丁寧に食事をしながら、明史の面倒まで見てくれたりする。
明史は生来おとなしい性質らしく、それほど厄介ではないのだが、それでもまだ子供である。
食べ物をぐずぐずに崩してしまう弟に、しっかりとスプーンで食べさせようとする姉。
いつか見た理想的な生活が、そこにある。
シーズンが始まればまた、瑞希に子供たちの世話を任せきりになってしまう。
実際にはシッターなどを雇うのだが、すぐに動けるのは瑞希だけなのは間違いない。
日本に戻ればまた、あの頃のように戻れるだろう。
そのあの頃というのが、どの頃を指すのかは、直史も少し分かっていない。
先に食事を終えた直史に、瑞希が声をかける。
「WBCの記録の清書、全部終わったから読んでくれる?」
「ああ。練習から帰ってきたら読む」
瑞希の記録は、一部は記事となって雑誌に掲載される。
その監修者の一人が、直接試合に出ていた直史なのである。
瑞希はあの決勝、全打者を三振で終わらせた直史の心情を、正確に把握していた。
そして同時に、そのまま発表するのもまずいな、ということまで分かっていた。
後に発表するものにしても、少なくとも引退してから数年は置いておいた方がいいのではないか。
瑞希はマスコミや著述に不本意にも関わってしまっているが、本来はそちらの世界の人間ではない。
少しでも不利になりそうな、また印象を損なうような情報は、しっかりと秘匿する。
弁護士らしい考えであるが、ジャーナリストの感性も全くないわけではない。
さすがに30年ほども経過すれば公開してもいいだろうという、直史の完全に上から目線というか、超越者目線の感想などは存在する。
だがそれは、遠い先の未来の話。
あるいはその発表は、もっと前倒しになるかもしれない。
今の瑞希に期待されているのは、現場に最も近かった発信者としての情報。
それを直接現場の人間に監修してもらうわけだが、直史は案外柔軟なところはある。
なければそもそも結婚していなかっただろうが。
今日もまた、オープン戦に向けて球団の職員が迎えに来る。
その様子をマンションのバルコニーから眺めて、小さく手を振る。
直史も軽く手を振り返して、日常的な非日常が始まる。
カリフォルニアの青い空の下で、今日も野球が始まる。
直史には登板はなく、ブルペンで肩を作っていくのみ。
ブルペンキャッチャーはベテランで、捕球技術だけは高い。
なのでそれなりに満足して、直史はボールを投げる。
やがて樋口の手が空いて、そこに投げ込むことが出来るようになる。
チームとしてはエースとして直史を最優先で対応するが、直史としては逆に、来年以降のことを考えてほしい。
自分がいなくなっても、樋口とアレクは数年まだアナハイムに残るのだ。
チームの強さと選手の年俸には関係がないMLBだが、トレードという選択は存在する。
直史は今年で表舞台から去る。
正確には裏舞台に行くわけでもなく、違う舞台で活躍するようになるわけだが。
アナハイムのフロントは、直史の引退について、完全には知らされていない者もいる。
二年契約の直史を、来年以降もとどめるのに、どれだけの金が必要なのか、必死で計算している者もいる。
もっともセイバーは、腹心とも言える一部に対しては、直史の引退をオープンにしている。
インセンティブを含めて6000万ドル程度の金額が、来年からは空くことになる。
セイバーとしてはそもそも、今年でアナハイムの権利は売却する予定だ。
去年に引き続いて今年も、直史たちの活躍によって、アナハイムの株はストップ高になってくれるだろう。
一番高いところで売ってしまう。利確である。
これが株の二番目に難しいところである。なお一番難しいのは損切りだ。
セイバーはこの時期、あまりアナハイムにいることはない。
そもそもシーズンが始まっても、別にアナハイムに常駐しているわけではない。
ただ今のセイバーにとって、一番秘密が多くなるのは、このアナハイムというチームに関することである。
あとはネットがあれば、だいたいのことはつながってしまう。
現地にまで行ってみないと、分からない熱量というものはある。
だが代わりに人を使うというのも、経営者としては必要な才能なのだ。
セイバーは大量の人間を雇うのではなく、少数精鋭で人を使う。
基本的には、人間の能力の平均値を信じていないのだ。
まだ明るい間に、その日の試合も終わった。
セイバーは秘書と一緒に、その試合を見に来ていた。
直史は投げることなく、まだのんびりと試合は過ぎていく。
もっともメジャー契約でロースター入りが決まっている選手はともかく、そうでない選手はここでメジャー契約を取るために、必死になっているのだが。
こんな頂点に立っているのに、全く衰えてはいないのに、引退するのだなとセイバーは思う。
だが理解出来ないわけではない。
天才の中にはその才能と、自分のやりたいことが合っていない人間はいる。
本来ならその才能に合った道に進むのが、一番いいのだろうが。
ただ人類全体の発展と違い、直史が活躍する分野は娯楽だ。
娯楽もまた人間性の発展としては、悪いものではないはずなのだが。
昼過ぎには試合も終わり、練習も終えて選手たちは帰途につく。
シーズン中はストイックにコンディションを整える選手たちも、この段階ではまだリラックスして遊びまわったりする。
だが直史はもう、はしゃぐ気分にはなれない。
WBCで一度、決勝にピークを持っていってしまった。
そこからまたバイオリズムを安定させて、レギュラーシーズンに備えなければいけない。
結局のところ、直史が最も優れていた部分というのは、制御力なのだ。
それはコントロールだけではなく、メンタルにも及ぶ。
また試合だけではなく、日常にも及ぶ。
節制した生活をして、体調を整え、無理にはしゃぐことをしない。
ただこういった生活は、パートナーである瑞希の助けがあって、ようやく可能になるものであるが。
ユニフォームから着替えた直史は、もう一度グラウンドに戻っていた。
機材を片付ける人員が、あちこちで動き回っている。
特に何か、用事が残っているわけではない。
しかし珍しくも理由なく、直史は時間を使っている。
そんな直史に、セイバーは声をかける。
「グラウンドを去るのが、惜しくなってるの?」
「惜しいと言うか……寂しさかな。学校を卒業するのと同じように、この舞台からは去っていくだけだし」
人生は成長すればするほど、世界は広くなっていった。
高校から大学、大学からプロといったように。
しかし今、MLBの世界から去って、故郷の千葉に戻ろうとしている。
やがてはいつか、あの大きくて古い家を相続し、そこで死ぬのだろう。
人生の折り返し地点だろうか。
だがここから必要なのは、蓄積されてきたものだ。
特に頂点などは目指さない、目の前にある問題を解決していく。
しかしプロの世界と言っても、野球などは毎年チャンピオンが変わっていく。
衰えて引退するまで、ずっとこの世界にいる。
そんなことは直史は望まない。
人間としての働き盛りは、30代から40代と言える。
50歳を超えればもう、マネジメントの方が多くなってきて、少なくとも肉体労働は厳しくなってくる。
自分が理想としていた、大人としての生き方。
それはもっと、ささやかで穏やかなものであった。
だが実のところは、とても贅沢なものでもあった。
全力で生きていく時間は終わった。
もちろんこの先も、悩み、決断していくことは多いのだろう。
子供たちを育てることなど、特に重要なことだと思える。
アメリカを訪れることなど、この先にまたあるのかどうか。
もっともアナハイムの殿堂入りの式典などに、呼ばれることはあると思う。
現役のメジャーリーガーの中で、二番目に殿堂入りに相応しいと言われる直史。
とりあえず目標は、大介との対決で勝つことであるが。
去年もあった対決で、今年も期待される対決だ。
直史がMLBに残った理由は結局、大介に負けたままであったからだろう。
それでもNPB時代から通算すれば、直史は確実に大介に勝っている。
もちろん本来野球は、ピッチャーがバッターに勝つ確率の方が高いのだが。
セイバーの目から見て、直史は飢えている人間ではない。
ハングリー精神ではなく、もっと別のモチベーションで直史は動いている。
元々金には執着しないタイプだ。
清廉潔白とか、そういう意味でもないのだが。
ただ勝ちたかった少年時代。
しかし勝ちたいというだけで、あそこまでのことをしてしまえるのか。
セイバーは直史のやっていたことを見て、どう考えても壊れるだろうと思った。
だが実際のところは、壊れるどころか他のピッチャーと比べても、きわめて故障の少ない選手生活を送った。
トミージョンもする必要はなく、変化球も肩肘に負担をかけなかった。
不思議なピッチャーである。
「今度、瑞希さんも誘って食事をしない?」
「ああ、でも子供たちがいるから」
「私の家にシェフを呼んで、子供たちはシッターに見ていてもらえばいいと思うの」
セイバーもまた、子供自体は持っている。
代理母に出産を頼んだが、それは彼女のパートナーであった。
恋愛対象は同性であるが、子供はほしい。
全く彼女も、一般的な普通からはずれた人間である。
「それはいいですね」
セイバーの贅沢は、ちょっと直史たちとはまたレベルの違ったものだ。
レギュラーシーズンが始まる。
また162試合の長いシーズンが始まる。
しかしそれは全て、ポストシーズンへの長い前奏。
本当にMLBが儲かるのは、ポストシーズンだとセイバーなども言っていた。
ただアナハイムやメトロズは、ほとんどの試合が満員となる。
あとはボストンなども、歴史的にチケットが全て売れるのだ。
アナハイムのヘイロースタジアムで、今日も試合が始まる。
穏やかな陽気の中、今日は夜から試合である。
それに対して直史は、軽くキャッチボールなどをしておく。
開幕戦のピッチャーは、当然のように直史が行う。
そして今年もまた、様々な記録を期待されるのだろう。
試合前の、軽い運動が体のコンディションを整える。
空が青い。
試合は夜に行われるが、出来ればまた昼間の試合もしてみたいものだ。
青空の下でやる野球が、直史たちの原点である。
夜に行われる試合というのは、ほぼ全てがプロのものであるのだし。
思えば視聴率などを考えなくてもいい、アマチュアの野球は良かった。
高校時代も大学時代も、それは派手な応援があったものだ。
アマチュア精神などというものは、根底から存在しない直史である。
だが打算などもさほどなく、ただ自分のためにプレイしていた時間は、とても貴重であったと思える。
いつかまた、青い空の下で。
あちこち体にガタがきて、それでもたまにはやってみるかと。
小さな球場を借りて、楽しみたいものだ。
その時には自分は、どういうピッチングをしていくのだろう。
勝利にこだわるのが、スポーツの醍醐味であった。
そしてこのMLBにいる間も、直史は勝利にこだわっている。
だがやがて、ただ楽しむためだけの試合をすることになるのだろう。
ずっと先であるのかもしれないし、それほど先でないのかもしれない。
未来は分かっていないのだから。
青空の下で、直史はグラウンドから出て行く。
誰かにとっての当たり前の日々。
そして誰かにとっての特別の日々。
直史の最後のシーズンが始まる。
完
×××
残り、あとがきだけとなります。
というわけで星の評価、過去の第一部から第七部まで、コレクション機能で付けられますので、出来れば評価をお願いします。
本編は終了しておりましたが、これで彼の長い物語も完結しました。
質問などがあればあとがきで反応するかもしれません。
なので星! くれ! 出来れば満遍なく!
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