第29話 永遠のエース

 野球ファンというのは年季の入った人間が多い。

 そして一部はプロ野球と高校野球のどちらも嗜んでいる。

 その両方を好む割合は、この10数年は一気に上がったものだ。

 甲子園という大舞台で活躍した選手を、プロの舞台でも見たい。

 いずれプロの世界で光り輝く選手を、高校時代から知っておきたい。

 全試合が生中継される甲子園というのは、いまだに覇権コンテンツの一つである。

 そんな長い甲子園ファンもかねた人間は、この試合から過去の記憶を刺激される。

 これはあの甲子園の決勝と同じではないかと。


 直史としても、個人として勝ちたい相手はまだいる。

 だがチームとして優勝したい、と思うのはこれが最後になると思っている。

 日の丸を背負って、チームを頂点に導くということ。

 それはMLBにおいてチームをワールドチャンピオンに導くよりも、直史にとっては価値のあることだ。

 大介との勝負は、言ってしまえば私闘である。

 チームが全体としては負けても、大介との勝負には全力を尽くす。

 それが今、自分がまだ野球をしている理由。

 誰かのためではなく、自分のための野球である。


 アメリカのベンチを見る。

 七番からはさっそく、代打が出てきている。

 ただ代打と言っても、普通にMLBでは対戦経験がある。

 DHで本来は打っているバッターが、今日は代打として出てくるのだ。

(あと三人)

 三人で終わらせる。

 何かが起こってしまうかもしれない内野ゴロなど打たせない。

 三振で全てのアウトを取ってしまおう。


 カーブから入ったボールは、スイングして当ててきても、ファールとなってスタンドに飛び込んだ。

 こうやってファールを打たせても、カウントは稼ぐことが出来る。

 外角の出し入れではなく、内角の出し入れでストライクを取る。

 そして最後には、外いっぱいからわずかにボールに逃げるカッターで、空振りを取る。

 まずはワンナウトである。




 観客席から見ていると、七回以降の日本の守備が、ひどく無意味なものに思えてくる。

 直史がずっと、三振だけでアウトカウントを積み重ねているからである。

 本来はグラウンドボールピッチャーで、逆にその印象を利用して、フライも打たせることがある直史。

 基本的に打たせて取るというのが、そのピッチャーとしての原点であるはずなのだ。


 ただ本人はそんなことは明言していない。

 直史がまず心がけているのは、失点しないことだ。

 極端な話、味方が点を取ってくれるまで失点しなければ、あとは完封して試合に勝つ事は出来る。

 それはもちろん原理としてはその通りなのだが、出来るかどうかと言えば不可能に近い。

 近いだけで、不可能ではないというのも確かだが。

 可能と不可能の間に、可能性という言葉があるため、断言が出来なくなるのだ。


 直史が目指すのは、勝利である。

 勝利のために、ピッチャーは何をするべきか。

 失点しないことは、当然その一つである。

 そしてもう一つ、チームの士気を高めるという役割もある。


 直史は完全に、前者に特化したピッチャーだ。

 だがチームの士気を高めるということは、意識したことはほとんどない。

 エースとしての重要な役目であるはずなのだが、直史にはそういった才能は欠けている。

 だがそれを補って余りある、圧倒的な制圧力を備えているのだ。


 直史が投げていると、点を取られる光景が思い浮かばない。

 もちろん長いシーズンの中では、一点ぐらいは取られることもある。

 しかし大学野球の時点で、直史はほとんど点を取られないピッチャーになっていた。

 そして同時に、パーフェクトを当たり前のように達成するピッチャーにもなっていた。

 本気を出していないはずなのに、能力はどんどんと伸びている。

 それはプロに入ってからも同じで、変化球の質が高まっていくことがあった。


 さすがにこれ以上は、成長の余地はない。

 肉体的にはそう言えても、まだここからの伸び代がある。

 高校に比べれば大学は、リーグ戦があったために相手の情報が得やすかった。

 ただプロとなるとさらに、情報戦で勝負が決まっていた。

 直史のピッチングは、相手の情報が多ければ多いほど、それに対応して組み立てられる。

 

 普通ならピッチャーは、対戦する回数が増えるほど、同じバッターには攻略されやすくなる。

 だが直史は完全な例外である。

 そもそも最初の対戦も、それからの対戦も、ほとんど点さえ取られない、ということは変わらない。

 しかしプロでやっていくうちに、数字は0に近づいていった。

 取られる点の数字、打たれる点の数字、ランナーを出した数字。

 それがどんどんと0に近くなっていく。


 プロ入り五年目、そしてMLB移籍の三年目は、途中でトレードなどもあり役割も変わったのに、遂に防御率は0を記録した。

 連続無走者イニング記録など、達成した記録は枚挙に暇がない。

 プロ入りも、MLB移籍も年齢が高くなってからであったため、積み上げる記録に関してはさすがに、先達に及ばないところはあるだろう。

 だが何度となくパーフェクトを達成し、タイトルを独占し、常に最高のピッチャーに選ばれてきた。

 その伝説が、いよいよ完結しようとしている。

 最後の一年のシーズンの、プロローグになるのがこのWBCだ。


 


 八番バッターにも代打が出されたが、これも三振でしとめた。

 普段は三球以内にバッターをしとめるのが理想だが、今日は五球から六球も使っている。

 しかしそれでも、ランナーを出さないために三振を奪っているのだ。

 スタンドの中の瑞希も、ペンを握る手に力が入ってくる。


 あと一人だ。

「あと一人」

 呟いたその声を、誰かが拾ったのだろうか。

「あと一人」

「「あと一人」」

「「「あと一人」」」

「「「「あと一人!」」」」

 昨今ではアマチュア野球では、色々と文句を言われる、あと一人のコール。

 だが日本応援団の一角から、その声が自然と湧き出ていた。


 マウンドの上で、直史はその大歓声を聞く。

 いや、規模的にはそれほど大きな声ではないのだが。

 結局この試合は、何も起こらなかった。

 第一ラウンドで起こったような、危険な不法行為。

 わずかに警戒していたのだが、あれ以降は何も起こらなかった。

 いや、起こすことが出来なかったと言うべきか。


 どこの国が、何を狙っていたのかは分からない。

 ただ犯人が中国であっても、逆にアメリカなどであっても、二度とそんな悪質な手法を取るような隙がなかったのだ。

 日本の投手陣は、一人や二人のランナーが出ようと、逆に一点や二点を防ごうと、そんなものは誤差である。

 そして打線に関しても、連打もあれば長打も本塁打もある。

 つまり一度や二度の機会を潰しても、全くの無駄であるのだ。


 もしもそれでもどうにかするのであれば、より直接的な手段に訴えるしかなかっただろう。

 選手の食事に下剤を盛るなり、あるいは逆にドーピングに引っかかるようにしたりなど。

 だがそのあたりは、日本は地元で開催できたためにチェックも厳しくしたし、アメリカに来てからも監視する役目の人間がいた。

 何よりも実は、こっそりとセイバーが動いていたりする。


 MLBは現在も、違法ではないがグレーゾーンであれば、薬を使うことはある。

 オリンピックに比べると、はるかにそのハードルは低いのだ。

 名誉を失ってしまったとしても、金はしっかりと残っている。

 この金というのはアメリカ四大スポーツでは、本当に馬鹿にならない。


 結局誰が、なんの目的であんな手段を取ったのか。

 それとも本当に、あれは一度きりの偶然であったのか。

 もうこの段階に至ってしまっては、調べる必要もないだろう。



 

 初球から直史は、インハイにストレートを投げ込んだ。

 ファウルチップとなって打球は、そのままバックネットに当たる。

 交換されたボールが直史の元へ戻ってくる。

 とりあえずストライクカウントが一つ。


 ストレートの次に投げるのに適しているのは、緩急差を活かしたカーブか、スピードはさほど変わらないが鋭く変化するボールである。

 特にスプリットなどがいいが、直史の場合はスルーという球種がある。

 沈みながら伸びていくボール。

 それはわずかにバットに当たり、バウンドして樋口のプロテクターを直撃する。

 それなりに痛いが、ちゃんと前には落としている。

 深く呼吸してから、バウンドしたボールをまた交換し、直史に投げる。


 ツーストライクまで来てしまった。

 何か妨害行為が起こるのかと、第一ラウンドからずっと警戒はしていた。

 だが結局最初だけで何も起こらなかったのは、効果が薄かったからだろう。

 本多がしっかり投げたからこそ、相手は諦めたのだ。

 繊細ではない本多の神経は、日本の優勝に貢献している。


 残りワンストライクで勝利となって、スタンドからの掛け声は変わっている。

「あと一球」だ。

 ここから変化球で攻めていくので、あと一球では終わらないはずなのだが。

 遅いシンカーが、左バッターのゾーンから外に逃げていく。

 これは無理に打ったら、あるいはヒットに出来るかもしれないというボール。

 だが見逃せば確実に、ボール球なのである。


 出塁率というのは、一種の毒であったのかもしれない。

 本当に必要な場面でバッターに求められるのは、出塁率ではない。

 打率すらない。ヒットを打っても、点につながるとは限らない。

 究極的に求められるのは、ホームランだけである。

 それが統計を下手に持ち込んでしまったため、強打者が打てる球を見逃して、出塁率を上げて満足している。

 もちろんレギュラーシーズンの中では、その統計的なプレイが重要なのだが。


 こんな場面に代打に出されて、大変だなと直史は左打者のキャフィーに同情する。

 ミネソタの四番を打っているキャフィーだが、直史との対戦成績は、打率が確か一割にも満たないはずである。

 ただ直史との対戦成績が、二割を超えているバッターは一人もいない。

 一割でさえ、ポストシーズンを含めた大介ぐらいであるのだ。


 誰がバッターボックスに入っても、結果は変わらないはずだ。

 ターナーやブリアンであっても、三振しているという事実があるのだから。

 それでもMLBのレギュラーシーズンで、いい成績を収めているバッターが、送られてくる。

 処刑台に送られて、それを喜ぶ人間はいないに決まっているのだ。


 最後の一球は、何を投げてもストライクは取れそうであった。

 プレッシャーに強いはずのメジャーリーガーでも、この状況では緊張せざるをえないだろう。

 八連続三振で、直史は淡々とアウトを積み上げてきた。

 せめて三振だけは、などと当てていってはむしろ恥。

 最低でもなんとかヒットを打っていきたい。


 そういった心理も含めて、直史には打たれないボールが分かる。

 ごく平凡な、かつては変化球の基本と言われた球種。

 カーブで勝負を決めよう。

 樋口のリードもまた、直史と同じものであった。


 遅いシンカーの後には、速い球が投げられる。

 そう考えるのが自然であったろう。

 しかし直史の投げたボールは、リリースからして軌道が違う。

 斜めの方向に、空間を切断していく死神の鎌。

 キャフィーのバットは、間違いなくストライクであるこのボールを、スイングしていった。

 空振り。そして樋口がキャッチ。

 審判がストライクとコールした。




 その瞬間に直史は、意識の空白があった。

 別にこの瞬間に、格別の思いなどはなかったであろうに。

 時間が止まったような、そして全てが漂白されたような、奇妙な瞬間であった。

 それは瞬間とは言いつつも、かなりの長さを持っていたような気もした。

 空隙の中に、彼女はいた。


 奇妙な理解が、直史の中にはあった。

「イリヤか」

 直史のピッチングを、真の意味で理解していたのは、樋口でもなければ大介でもなく、そして瑞希でもない。

 一試合のピッチングだけを見て、わざわざ日本への滞在を決めた、彼女なのである。

「これは、一種の幻覚なのかな? まさか本当の超常現象なわけでもないだろうし」

 神秘体験、というのを直史は否定しない。

 トランス状態で投げる時、直史の脳は明らかに、人間の能力を超えて情報を処理している。

 だからこれは、試合に勝った瞬間に高潮した、自分の脳が見せる幻影だと思った。


 イリヤは深い紫色のドレスを着ていた。

 ステージの上に立つ時の様に、たっぷりと化粧もしていた。

 スリットの入ったスカートからは、白い足が見えている。

 彼女に対して色欲を感じたことはないはずだが、と直史は冷静に考えている。


 覚醒夢というものの、正しい定義を直史は知らない。

 だがこれはどうにも、ただの幻覚と言うには奇妙すぎるものではあった。

「何が伝えたいんだ?」

 自分の体がただ直立し、グラブもはめていない状態のように感じる。

 地平線まで広がる、白い世界。

 何も幻想的でないのは、いかにも無機質な自分らしいな、と感じるのでこれは自分から生まれたものだと思うのだが。


 イリヤは口を開いた。

 そしてそこから聞こえたのは、数節のメロディであった。

 それを三度繰り返してから、彼女は微笑んだ。

 その微笑をきっかけにするように、世界に音が戻ってくる。

 白い世界は、遠ざかっていった。

 だが音楽の素養がある直史の脳に、そのメロディは残った。




 目の前にいたのは、樋口に違いなかった。

「どうした?」

「いや、少し幻覚が見えた」

「おいおい、脳の使いすぎか?」

「それは違うな……。舞台が見せた幻想だろう」

 そう言いながらも、直史は周囲を見回す。


 内野陣、外野陣、そしてベンチからと、人々が駆け寄ってくる。

 まずは目の前に差し出された、樋口の手を握る。

 そして樋口は、ミットの中からボールを取り出し、直史に渡した。


 軽い足取りで駆け寄ってきた大介は、ぽんぽんと直史の背中を叩く。

 そして内野陣を内側に、外野陣を外側に、引き連れるようにして直史はベンチに向かう。 

 代表監督の別所がベンチから出てきて、直史とまた握手をした。

 続いて上杉が、その分厚い右手を差し出してきた。


 音がざわめくだけの世界であった。

 スタンドからの歓声は、果たして誰のものなのか。

 身近な者の声のようにも思えるが、全く違うようにも思う。

 耳慣れたはずの英語であるのに、ほとんど聞き取ることが出来なかった。


 ともあれ、これで全ての試合は終わった。

 直史の最後のシーズンの、プロローグが終わったのだ。

 実際にはWBCはエピローグとして、代表選手などが表彰されていく。

 ただそれはもう、直史にはあまり興味もない。

 最後の一年に向けて、アナハイムに戻る。

 少し暮らしていただけで、戻るという感覚にはなってしまっているが。


 もう一度グラウンドに出てきて、日本選手団は手を振った。

 小さな日の丸を振る、応援団の姿が見える。

 それに向かって、直史も手を振った。

 最強のチームがグラウンドで見せる、最後のパフォーマンスであった。




 WBCのMVPは、登板した全試合で勝ち星を上げ、特に決勝での先発が評価された上杉となった。

 警戒されすぎて勝負されることが少なかった大介は、打率や出塁率だけなら、とんでもない数字にもなった。

 だがホームランや打点が伸びなかったのに対し、上杉は確実に勝ち星を上げたのだ。


 表彰選手の中には、さすがに大介もいたし、直史も選ばれた。

 優勝した日本チームからの選出が多く、ポジションで言えばピッチャー三人のうち、二人が日本の直史と上杉である。

 キャッチャーも樋口が選ばれ、内野は大介と悟が、そして外野は織田と正志が選ばれた。

 DHの部門でも、西郷が選ばれている。


 試合後のインタビューでも、直史は寡黙であった。

 アウト全てを三振で取るというのは、これもまた人間離れした記録であったと言える。

 単純に九者連続三振というのなら、それはありえないことではない。

 日本シリーズの記録においても、九連続三振というのはあるのだ。


 だが普段は打たせて取っているピッチャーが、本気になればどうなるのか。

 今更ながらMLBの各チームは、直史に対する認識を改めなければいけなくなった。

 直史は寡黙であり、少なくとも全く打てなかったアメリカ打線を、侮辱するようなこともなかった。

 試合自体はどうでも良かったのだ。

 気になったのは、あるいは感傷的になったのは、これが最後の試合だと分かっていたからだ。


 大介のみならず、上杉や武史、また西郷や織田など、多くの選手との最後の試合。

 あるいは一部は、対戦相手として戦うことはあるが。

 唯一樋口だけは、相棒としてラストシーズンを戦う。

 長かった直史の野球人生が、終わろうとしている。

(小学校の学童野球からだから、もう20年以上になるのか)

 その間には、第一戦級の勝負からは離れていたこともあったが。


 あのマウンドで流れた光景は、果たしてなんだったのか。

 ただ直史の記憶に、あのメロディはしっかりと刻まれている。

 ホテルでの祝勝会には、偶然であろうがホールの隅にピアノが置かれていた。

 直史は記憶を確認しつつ、片手でメロディを爪弾いた。

 それを聞いて数人が振り向くが、近寄ってきたのは武史と恵美理であった。

「兄貴、そのメロディ何?」

「いや……前に、ずっと前にイリヤが口ずさんでいたのが、なぜか思い出したんだ」

 その言葉に反応したのは、武史よりもむしろ恵美理で。

 わずか数小節のメロディを、流暢に片手で爪弾く。


 そしてそこから、メロディと伴奏が生まれた。

 まるで最初から、そこに一つの曲があったかのように。

「イリヤから聞いていたのか?」

「いえ、でも彼女なら、こういう曲にするかなって」

 なるほど、イリヤを最も理解しているのは、確かに恵美理なのだろう。


 興が乗った恵美理に対して、リクエストする人間が出てくる。

 せっかくならとホテルに聞いてみれば、普通に楽器が出てきたりもする。

 妙なる調べは、ホールの中を包んだ。

 そしてその音楽の中で、直史はゆっくりと旋律に身を委ねたのであった。

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