第28話 究極と至高の果てに

 ペドロ・ブリアンはアメリカ生まれのアメリカ人である。

 だがその名前を見ても分かるように、アイデンティティはヨーロッパのどこにあるのか分からない。

 アメリカはそういったものを取り込んで力にする。

 そんな社会においては、国民の共通する価値観は、国家ではなく宗教であったりもする。

 もっともアメリカには、キリスト教徒以外にも多くの信者が住んでいる。


 その中でブリアンは、まさにカトリックの家に育った。

 そしておそらくキリスト教徒としては、かなり模範に近い存在であったろう。

 他者に対して寛容であり、怒りを見せるということはない。

 だが努力のための熱意は充分に持っている。


 そんなブリアンが対戦して、全く歯が立たないピッチャー。

 最初に一度ホームランを打ってから、まるでバッターとしての仕事をさせてもらっていない。

 七回は三者凡退で、しかも三者三振であった。

 普段の直史に比べれば、やや球数を使う傾向にある。

 だが残りのイニングと球数制限を考えれば、余裕ゆえに慎重に投げているのだと分かる。

 スローボールでストライクを取りに来るのは、余裕にも過ぎるとは思ったが。


 バッターボックスのブリアンに対して、マウンドの上の直史は呼吸さえ止めたかのように不動。

 そしてそこからコマを飛ばしたように、ボールを投げてくる。

 球速自体は、MLB全体で見るならそれほど上位でもない。

 だがボールをリリースした瞬間、一瞬そのボールが消えて見えることなどはある。


 すとんと抜いたようなカーブが、高所から落ちてくる。

 球速がそれなりにあるため、これはナックルカーブであろうか。

 ゾーンを斜めに切断したその軌道に、審判はストライクのコール。

 ブリアンとしてはこれは、普段ならばボール球ではないのかと思わないでもない。


 審判の判断が間違っている、とは思わない。

 ただ狂わされているのでは、とは思うことが多々ある。

 動体視力に優れたブリアンでも、かなり判断に迷うのだ。

 審判も判断に迷えば、そのままピッチャー寄りのコールをしてしまう。

 それは過去に行われた直史のピッチングで、審判の判定がボールとなった場合、ほとんどがストライクとコールすべきであった、などと解析された影響もあるだろう。

 機械よりも正確と言うよりは、機械でないとその正確さも分からない。

 人間の領域にあるピッチングではないのだ。


 二球目、おそらく今度は速い球。

 予想通りにツーシームが、インローに投げ込まれた。

 これもブリアンはスイングが出来ず、コールはストライク。

 二球で簡単に追い込まれてしまった。


 なぜこんなにも打てないのか。

 心静かに対戦しているというのに、ボールが意識の間隙を突いてくる。

 スピードとかテクニックとか、そういう次元の話ではない。

 わずかにある、どうしても打てないタイミングに、ボールを放り込んでくるのだ。

 そんなことが可能なピッチャーなど、他に誰もいない。

 おそらく過去にもいなかったのではないか、とブリアンは思う。


 もちろんそれは買いかぶりすぎである。

 直史自身が普通に、意識しないボールを投げられて、手が出なかったことが普通にある。

 人間の集中力は、MAXの状態でいられる限界は、15秒だという説もある。

 また相手の呼吸を読めば、その肉体の準備が出来ているかどうかも分かる。

 追い込んでからの、第三球。

 セットポジションから、足が上がった。


 常にクイックで投げるはずの、直史のピッチング。

 足がゆっくりと上がり、そして体の捻りも普段より大きい。

 何か違うボールを投げるのか、とブリアンの肉体が警戒する。

 そしてそこから投げられたのは、とにかく普通のボールである。

(な!?)

 ブリアンの思考力で、情報が処理しきれない。

 ハーフスピードのストレートと見えたが、いくらなんでも変化球だろう。

 そして変化球としたら、スプリット以外にはまずありえない。

 そうスイングの途中で判断したのだが、軌道変更は不可能だった。

 落ちたボールに、膝を折ってスイングを合わせようとする。

 だがスプリットの変化には届かず、空振り三振。

 バウンドしたボールを樋口がキャッチして、ブリアンにタッチした。




 最強の打者であるはずのブリアンが、あまりにも簡単に凡退してしまった。

 アメリカはそこからも、バッターが萎縮している。

 初球から簡単にストライクを取り、そしてボール球を振らせてしまう。

 五番バッターも空振り三振し、これでツーアウト。


 次の六番は、逆に打ち気に逸っていた。

 なのでスライダーを使って、まずは空振りさせる。

 ストライクカウントが進んだ時、ボールカウントが先行してなければ、当然ながらピッチャーが有利である。

 統計によるとバッターは、初球を狙うのが一番いいらしい。


 ただ直史や樋口の場合は、その統計すら心理操作に使っている。

 バッターの傾向や、監督の傾向。

 状況によってどういうバッティングが正解なのか、それは変化していくだろう。


 そんな直史のピッチングを、ずっと見守っている日本の守備陣。

 はっきり言って暇である。

 ファールを打たれた時、内野はわずかに動くことがあった。

 だが外野は、バッターの打力によってやや、守備位置を前後するが、そもそもボールが飛んできていない。

 第一ラウンドや準決勝まででも、直史のバックは守っていた。

 しかし今その背中から感じさせるのは、巨大な壁がそこにあって、打球が飛んでくるのを阻んでいるというイメージだ。


「暇だ……」

 織田はもちろん気を抜いてはいないが、もうボールは飛んでこないのではないかと思えてきている。

 直史は打たれるとしても、ゴロが圧倒的に多い。

 織田が処理するとしたら、ピッチャー返しの打球になるだろうが、直史はMLBでもピッチャー部門のゴールドグラブに選ばれている。

 そして直史が届かないボールであると、強力な二遊間が届いてしまったりする。

「本当にやることないんじゃないか?」

 そう思いながらも、直史がセットに入ったら、ちゃんと構える。


 ライトに入っている正志も、なんとなくなぜ直史が援護に恵まれないピッチャーなのか、なんとなく分かってきていた。

 とにかくそのピッチングに容赦がなさすぎて、隙が見えない。

 バックを守っていると、試合がまるで止まっているように思える。

 その停滞が、自分たちのバッティングまでに影響してくるのだ。

(本当に、ピッチャーの概念が変わってしまう人だな)

 本当に自分のやっていることが野球なのか、正志は疑問を抱いてしまう。


 悟もまた、落ち着かない気持ちでいた。

 そもそも直史は、グラウンドボールピッチャーというのが定説である。

 しかし今日はまだ、一度も打球が飛んできていない。

 五番までを連続で三振に打ち取っているのだ。


 奪三振率が10を超えているのだから、三振も取れるピッチャーではあるのだろう。

 ただ変化球投手の割には、ストレートで三振を取っている割合が多いように思える。

 肉体の全てが撓って動き、本来のストレートとは違うタイミングで投げられているのではないだろうか。

 もちろん充分にスピードも、150km/hは出ているのだが。


 多彩な変化球による組み立ては、確かに三振も奪えるものだろう。

 だが普段はあえて、ゴロを打たせて球数を減らしている。

 今日は決勝なので、そんな制限もすることなく、確実に三振を取りにいく。

 取ろうと思えば簡単に取ってしまえるというのは、いったいどういうことなのか。

 直史はおそらく、全く違う次元でピッチングというものを考えているのだ。


 六番も三振に終わり、これで六者連続三振。

 球数はレギュラーシーズンなどと比べれば、ずっと多くなっている。

 それでも2イニングを終えて、まだ30球にも満たない。

 確実にアウトを積み重ねるなら、ゴロよりも三振。

 やろうと思えば出来てしまうのだと、この試合で証明してしまっている。


 八回の裏が終わる。

 アメリカはまだ、一人のランナーも出していない。

 上杉の方がむしろ、ゴロやフライでのアウトが多かった。

 直史はここまで、全てのアウトを三振で取っている。


 絶望が人の姿をしている。

 命を刈り取る死神のように、直史もまたさくさくとアウトを増やしている。

 ちゃんと三振でアウトが取れているのは、単純に運がいいから。

 そして九回の表、日本の攻撃が始まる。

 バッターボックスに入るのは、六番の正志から。

 アメリカはまたピッチャーを、クローザーに代えてきていた。




 野球には相性というものがある。

 また選手にも、タイプというものがある。

 同じ強打者であっても、直感的な人間と、計算的な人間、色々と違いはあるのだ。

 その中で正志は、間違いなく計算型の人間だ。

 なので実は、コントロールが悪くても、球威だけで押し切るというタイプとは相性が悪かった。


 たとえ打てそうにない配球で、緻密に投げてくる相手であっても、それが思考によるものであるなら、むしろ正志にとっては相性がいい。

 ボール球から入ってきたピッチャーは、正志が得意とするタイプだ。

 球速は160km/hを超えているが、何種類かの変化球を持ち、計算して投げてくる。

 ならばその計算を読んで、狙い打てばいい。


 バットに当たってからは、ある程度は運である。

 狙ったのはカットボールであり、実際にジャストミート出来た。

 ただ少しバットの根元に近いかな、とは思った。

 だがそれでもボールの飛距離は充分であった。


 まったく、なんて試合だ。

 日本の追加点が、正志のソロホームランで入った。

 ヒットやフォアボールで塁に出ても、一点も入らない。

 そしてホームランが三本出て、全てがソロホームラン。

 緻密なはずの日本の野球が、どうにも大味に思える点の取り方だ。

 もっともこの三点目は、本当に決定的なものであった。


 勝ったな、とこの試合において何度目かの確信を、観戦する者は思っただろう。

 直史としてもおかげで、さらに安定したピッチングを行っていける。

 本来ならばもう、三振にこだわることなく、点だけは入らないゴロを打たせていってもいい。

 だがせっかくMLBの各チームから来ている期待の若手が揃っているのだから、今年のレギュラーシーズンを圧倒するためにも、心は念入りに折っておいた方がいいだろう。

(もう一点ぐらい入らないかな?)

 どうせなら他のチームのピッチャーも、ボキボキにプライドが折れていてほしい。

 直史は鬼畜に考えるし、これで必ず打順が回ってくると決まった鬼畜眼鏡も、ほぼ同じ考えである。


 ただそこからは、アメリカのクローザーも息を吹き返した。

 日本側の打線が、既に守備に意識を割いていた、とも言えるのかもしれないが。

 3-0で残りは1イニング。

 直史から1イニングで最低三点を取るというイメージは、どうしても湧かないものだ。

 しかもアメリカは下位打線。

 もちろん下位打線でもアメリカ代表だけに、その打撃力はかなりあるし、代打という選択もあるだろう。

 しかしその中に、直史を打てそうなバッターはいない。


 ツーアウトまで取ったが、そこで日本は九番の樋口に回る。

 九番に樋口がいるというのが、既にあまりにも理不尽である。

 色々と統計的には間違っていた日本の打順であるが、感覚的にこの九番樋口だけは正解だったろう。

 ただし樋口には、ここで打ちにいくつもりはない。


 直史は次の3イニング目まで投げる。

 もしそれで打たれる可能性があるとすれば、よほどの悪条件が重ならないといけない。

 悪条件とまでは言わないが、キャッチャーが樋口から代わってしまえば、多少は負荷の変化があるだろう。

 なので完全に見送りと決めている樋口であるが、カウントがフルカウントにまでもつれこんだりしている。

 一度もバットを振っていないのに、随分とピッチャーには警戒されたものだ。

 まあこの試合でホームランを打っているので、その警戒も過剰とは言えないだろう。


 結局最後まで、樋口はバットを振らなかった。

 三振でスリーアウト、日本の攻撃は終了。

 アメリカの最後の攻撃が始まる。




 この試合をどう考えたらいいのだろう。

 まず日本の守備については、上杉が多くの三振を奪い、他も内野フライや内野ゴロでパーフェクトに六回までを抑えた。

 守備の好プレイはあったが、別になくても上杉は失点をしなかっただろう。

 ただ守備の堅さも存分に見せ付けて、アメリカには得点のきっかけさえ与えなかった。

 それは上杉から継投した、直史も同じである。

 いや上杉以上に、上杉のような代名詞である三振を奪っている。


 そして攻撃に関しても、日本は圧倒していた。

 ヒットも出るし、余裕を見せて四球出塁もある。

 それでいながら点が入っているのは、三点ともソロホームラン。

 ちょっと変わったところで言えば、西郷の打球によって、ピッチャーが一人脱落した。

 MLBのレギュラーシーズン開幕には、ちょっと間に合わないであろう。


 スタンドの中も、テレビ画面の向こうも、多くの日本人が日本を応援している。

 ただこの応援は、充分に安心して見ていられるものだ。

 強いて言うなら、満塁ホームランを打たれれば逆転負けする。

 実のところ直史は、サヨナラ負けは経験しているのだ。

 しかしここまで、一人のランナーも出していない。

 絶対的な安心感が、応援団をも包んでいるのだ。


 現地のみならず日本でも、時差を忘れて応援している者は多い。

 夕暮れにもまだ遠い、日中の時間帯。

 ただ多くの人間が、テレビの前でこの試合を見ている。

「そういえば、前にも上杉さんと継投で、パーフェクトしたことあったか」

「あれ? 上杉さんだったか?」

 樋口は記憶しているらしいが、直史は脳にその情報を収納していない。

 

 直史がこれから先対決する相手に、NPBの選手はもういない。

 このシーズンをMLBで送れば、あとは日本に帰るだけだ。

 アメリカ側は九回の最後の攻撃に向けて、代打の打者を出してくる。

 打撃力に振れた選手たちが、どんどんと出てくるのだろう。

 だが直史は、特に問題にもしていない。


 アメリカはこの期に及んでも、言い訳するだけの余地を残した。

 30歳以上でMLBのスーパースターという選手は、まず出ていない。

 そういった選手はWBCに出ることが、何も自分のプラスにはならないからだ。

 それでもまだ若手は、アピールする機会を貪欲に欲した。

 結果的にはひどい数字しか残らなかったが。


 まだ本気を出していないから。

 そんな言い訳が、この試合の後でも通用すると思っているのだろうか。

 もっともチームのオーナーたちは、別にそんなことはどうでもいいのだろう。

 重要なのはレギュラーシーズンとポストシーズン、そしてそれすらも超えて、儲かるかどうかというものだ。

 資本主義社会の中では、確かにそれは一定の評価である。

 だがエンターテイメントというのは、もっと原始的な衝動が重要ではないのか。


 多くの欠陥と改善点、そしてなお残る旧弊を抱きながら、甲子園のブランドは落ちていない。

 経済的に巨大な金が動いていながら、選手たちには全く金など渡らない。

 旧態然としたこのシステムでの大会が存在しながらも、日本では野球が大きなマーケットとなっている。

 そしてそこには、プロにすらない熱狂がある。




 マウンドの上からバッテリーの二人が、アメリカ側のベンチを見る。

 日本のベンチからは特に、何も指示は出ていない。

 好きにしろ、ということであろう。

 もちろん最初から二人は、好きにするつもりである。


 残り三人をアウトにすれば、それで試合は終わるのだ。

 そしてMLBでも同じチームであるバッテリー二人は、どうせならこれを徹底的に利用しようと考えている。

 もう日本の優勝は見えている。

 ならばレギュラーシーズンに向けて、意味のあるピッチングをしたい。

「全部三振でアウトにしたいな」

「三振か。出来ないことはないと思うが」

 なにせここまで、六連続三振でアウトカウントを奪っているのだ。


 直史の奪三振率は、プロ入り後全ての年で、10を超えている。

 グラウンドボールピッチャーという印象がどうしても強いが、実際には奪三振も多いのだ。

 なので奪三振王を、MLBでも多く取っている。

 ただそれは直史が、中四日で完投を連発するという、まさに数を積み重ねていくことから生まれているのだが。


 九連続三振。

 上杉や武史であれば、それなりに達成していることである。

 だがそれは結果的にそうなったというだけであって、こういった舞台の決勝で、アメリカ代表相手にするには、かなり難しいだろう。

 実際に上杉も、まともに打球を前に飛ばさせることがなかったが、それなりにバットには当たっている。

 直史のスピードでは、スピード任せの空振りなどは取れない。

 それでも変化球を組み合わせていけば、ストレートで空振り三振が取れる。

 普段ならもっと効率を追及して、ゴロを打たせていくのだが。


 マウンドからは、グラウンドの全てが見える。

 一番高い位置から、バックの様子も見ていく。

 外野などは本当に球が飛んでこないせいか、げんなりとした表情をしている。

 そして内野も、集中力を欠いている気がする。

 さすがにバッターとの対決が始まれば、それもさすがに臨戦状態になるだろうが。


 あと三人、アウトを取れば終わるのだ。

 三点差があって、あとアウト三つ。

 これがレギュラーシーズンであれ、ワールドシリーズの最終戦であれ、直史が本当に勝ちたいと思う試合なら、もっと確実性の高い選択をするだろう。

 しかしもう直史も樋口も見ている先は優勝などではない。

 ラストシーズン、ワールドチャンピオンを目指す。

 本当に最強の敵は、今はバックで三塁を守ってくれている。

「これで優勝しても、またすぐシーズン開幕なんだよな」

「まあ故障だけはしないように、投げていけばいいさ」

 それぐらいの会話を最後に、樋口はキャッチャーボックスに戻っていく。

 マウンドに残されたのは、直史一人。

 ピッチャーという孤高の場所から、ゲームの行方を睥睨する。


 祭りが終わる。

 そして日常が戻ってくるように見えて、また違う祭りがすぐに始まってしまう。

 誰かに対しての対抗心などで、一年を投げきることも、もう限界だ。

 この世界から引退するための理由は、完全に揃ってしまった。

(だから最後に、絶対に勝つ)

 そう直史は戦意を高めて、最後の三人を抑えにかかった。

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