第27話 魔王と呼ばれた男

 佐藤直史の異名はいくつもあるが、一番本人が不本意なのは、やはり魔王と呼ばれることだろうか。

 大魔王になるともう、五十歩百歩なのでどうでもいいらしい。

 何がそんな異名の元になったのかというと、やはり試合の支配力によるものだろう。

 王とは支配する者。

 その支配の仕方が圧倒的であり、かつ残虐で極悪非道であるがゆえに、魔王と呼ばれたものであろう。

 法曹の使徒である直史としては、非常に遺憾である。

 あとの人間じゃないとか、化物とか、実はターミネーターなのだとか、そういうものはそこまででもないのだが。


 そんな直史が、ついにマウンドに登る。

 七回の裏、点差は二点。

 アメリカの打順は一番からの好打順だが……つまるところ上杉は六回までを投げて、一人もランナーを出さなかったということなのだ。

「さあ、見ものだな」

 ごつい顔にごつい笑みを浮かべて、上杉は直史をベンチから見守る。


 上杉にとっても直史は、不思議な存在であった。

 違うチームで敵対したことはあるし、同じ試合で投げあったこともある。

 だがその試合は、12回まで一人のランナーも互いに出ないという、奇跡のような試合になってしまったりもした。

 不思議なことに、上杉は直史に対しては、戦友のような感情を抱いているのだ。

 もちろん直史も、上杉に対しては一定の敬意は抱いているが。


 上杉が直史と同じ舞台に立ったのは、NPBで一年と、MLBで一年だけ。

 高校時代には練習試合で、一応チーム同士の対戦経験はある。

 あの頃の細い少年が、それほど雰囲気も変えずに、この大舞台に立っている。

 佐藤直史は大きく変わったが、根本的な部分ではおそらく変わっていない。

 変わっていくことと、変わらないでいること。

 この矛盾しそうな二つを持っていない限り、人はせいちょうしないのだ。


 そう、この舞台であっても、直史の投球練習に力強さはない。

 残り3イニング、85球を投げるのが許されているなら、まず間違いなく直史は相手打線を封じられる。

 生涯に達成したパーフェクトゲームの回数は、もはやいちいち数える気にもなれない。

 そもそも複数回を達成した選手が、プロに限れば他に上杉と武史しかいないのだ。

 その二人には、奪三振率の高いパワーピッチャーという共通点がある。

 実はそれなりに奪三振率の高い直史だが、世間の評価では彼は技巧派だ。

 そしてその分類も、間違ってはいないだろうと上杉は思っている。


 超絶技巧。

 誰が評したか知らないが、直史のコントロールのことである。

 ミリ単位でコースを変えられると言われているが、その程度で超絶技巧なはずもない。

 上杉の聞く限りでは、直史の本当に優れているのは、その洞察力による配球の組み立てだ。

 もちろんキャッチャーの読みも優れていると、それだけピッチャーは再計算し、より確実に打ち取れることになる。

 そうは言っても本当に相手の読みを外すより、力技でその読みを上回る方が、上杉としては楽なのだが。


 六回まで上杉は全力を出して、一人のランナーも出さなかった。

 よって直史は、一番からの打順を相手にすることになる。

 パーフェクトに抑えることが出来たら、一度きりの対戦で済ませられる。

 そこまで都合がよくいくだろうか、と普通ならば考える。

 だがこの世にはナオフミストという存在がいて、直史がリリーフをするなら、誰一人出さなくても当たり前、と考えていたりしている。


 アメリカはたとえ優勝できなくても、メジャーリーガーの最高レベルの選手で、出ていない選手が多かった、という言い訳が立つようにしていたと思う。

 だがどう言い訳しようとも、パーフェクトで負けたなら、それはもう負け惜しみにもならないのではないか。

 現在のMLBでは、ブリアンが二番手の強打者であることは間違いない。

 ターナーにしても五指には入る数字を残している。

 この二人の強打者が、全く手が出ないとなれば、何をしたら勝てるのか。

 絶望をもたらす存在は、まさに魔王であるのだろう。




 七回先頭のアレンは、自分の役割を割り切っている。

 打てるとか、出塁するとかは考えない。

 後続の打者のために、情報を手にして戻るのだ。

 もっとも単なる情報だけなら、直史は充分に分析されている。

 それでもこれまで、まともに打てなかったという現実がある。

 いったいどうしたらいいのかとも思うが、ピッチャーにはコンディションの上下もあるはずだ。

 なんとしてでもわずかな攻略の鍵を見つけなければいけない。


 このアレンというバッターを、直史も樋口も侮ってはいない。

 ミネソタの先頭打者として、レギュラーシーズンもそうだがポストシーズンでも、何度も対戦しているのだ。

 おそらく単純なパワーやテクニックは、アレクや織田を上回る。

 理想的な一番バッターであるが、そこにまだ経験が足りない。


 ふわりと浮かぶように投げられたその初球は、スローカーブですらなかった。

 ただのスローボールだとアレンが気づくまでには、さすがに樋口のミットの中に入っている。

 球速86km/hのスローボール。

 いくら緩急をつけるためでも、せめてカーブなりシンカーなりを投げるべきではないか。


 初球から狙ってくることがないと、見極めてのボールである。

 打たれる危険はあったが、これを見逃してくれるなら、ピッチングの幅が広がるのだ。

 リターンが大きいと考えて、リスクを取る。

 アレンにとってみれば、はるかにリスクの方が大きかったように思えるだろうが。

 そんなリスクの大きい手段で、ファーストストライクを取ったことに、大きな意味があるのだ。


 アレンがその意味を処理する前に、片付けてしまおう。

 二球目に投げた球は、スルーチェンジであった。

 減速の大きなこのボールは、その前のスローボールの後に使えば、速く見えた球が途中からいっそう遅く感じる。

 バットに当たった球は、力なくファールグラウンドを転がる。

 そして三球目、考える暇は与えない。

 インハイストレートがゾーンに構えたミットに突き刺さり、アレンはバットをスイングすることも出来なかった。


 アレンには何もさせたくはなかった。

 そしてその次のシュミットも、警戒すべき相手である。

 メトロズにおいては大介の後ろを打つ、万能タイプのバッター。

 長打力はブリアンやターナーほどではないが、毎年のように30本ほどのホームランは打っている。

 またシュミットはアメリカチームの中では、比較的年齢も上である。

 積んだ経験や、大介に直史とチームメイトだった経験から、なんらかの対抗手段を持っているかもしれない。


 だが樋口にはサインを出すのに迷いがない。

 初球は外角へのスルーであった。

 上手くアウトローのあたりに入って、カウントはストライク。

 シュミットはこの難しい球は、追い込まれるまで手を出すつもりはない。


 二球目は大きく変化するツーシーム。

 直史の分類では、ツーシームでもシンカーでもなくシュートである。

 シュミットはこれに当てたが、バウンドして樋口のプロテクターに当たるのみ。

 前に打球が飛んでいかない。

(二球で追い込まれたか)

 だがまだ、焦りなどはない。

 直史のボールのスピードは、どうにかカット出来るぐらいのものである。

 これに緩急がかかってきて、ようやく打てないボールになってくる。


 樋口から返球されたボールをキャッチして、直史はすぐにプレートに足を触れさせる。

 シュミットに考える暇を与えない。

(早い)

 ボールのスピードではなく、その思考速度がだ。

 そしてセットポジションにクイックから投げられたボールは、ゆっくりと空間を切ってくるカーブ。

 外角のそれをカットしたが、これはボール球であったろう。


 見逃すことすら出来ない。見極めることが出来ない。

 自分の思考が、集中するのに時間を欲している。

 だが直史はそれを与えない。


 四球目もまた、タイミングが早い。

 そしてここでリリースされたボールは、間違いなく速球であった。

(当てる!)

 そう思って振ったシュミットのバットの上を、直史のストレートが通過する。

 空振り三振で、連続三振である。




 ターナーには予感がある。

 これがこの試合、自分の最後の打席であると。

 別に深刻に考えるわけでもなく、深遠な考えでもない。

 佐藤直史の投げる試合で、四打席目が回ってこないことは、よくあることなのだ。


 ランナーが二人出なければ、ターナーの四打席目は回ってこない。

 そしてこのアメリカチームの打線の中で、どうにか出塁出来そうなバッターがいるか。

 長打を捨てて出塁に専念すれば、ブリアンはどうにかしてくれるかもしれない。

 だがそうしても、ダブルプレイでランナーを消してしまう可能性は高い。

 直史と樋口のバッテリーが、ダブルプレイでランナーを消すことは、とても多い。

 そして日本は二遊間と三遊間は、鉄壁の守備を敷いている。


 一二塁間が、一番可能性はあるだろう。

 だがそれよりは、クリーンヒットで内野の頭を越えていきたい。

 そう考えながらもターナーは、現実的なことを考える。

 ツーアウトから自分が出塁できたとして、次のブリアンまで打つことが出来るのか。


 ランナーを一人置いてホームランを打てば、同点に追いつける。

 ここでなんとしてでも、ランナーとして出塁しなければいけない。

 ブリアンに託すべきなのだ、とターナーは計算する。

 だがMLBでは同じチームであるからこそ、それがいかに難しいか分かっている。


 直史はシュミットに対して、ボールになる球を投げていた。

 レギュラーシーズンであれば、まずしないことである。

 逃げるボール球に絶対に手が出るという状況でもない限り、直史はゾーン内で勝負する。

 ただこの試合、直史が投げるのは残り3イニング。

 普段よりもさらに、取れる選択肢が増えている。


 それでも立ち向かうしかない。

 ピッチャーはバッターから逃げることが出来る。

 それは作戦として認められてもいる。

 統計的には強打者であっても、基本的には勝負した方が失点する確率は低い。

 だがどうしても一点も取られたくないと考えるなら、確かに勝負を避けるのも選択肢となる。

 このツーアウトの時点で、ターナーを回避する理由。

 直史というピッチャーを考えれば、それは全く思いつかない。


 初球からスルーが投げられた。

 打球を詰まらせて、弱いゴロを打たせるのに適したボール。

 キレがあるのに沈んでいくという、他の変化球にはない特性。

 スプリットより性質が悪いのは、バットに当てる程度ならなんとかなるのだが、ミートのタイミングが狂うということ。

 おおよそ想像していたよりも、早くボールが来てしまうので、ジャストミート出来ない。


 追い込まれればこのボールにも手を出していかないといけない。

 だが今はまだ、その状況ではない。

(次は、遅い球か?)

 カーブかシンカーか、遅い球でも平気で投げてくる。

 しかし直史が投げたのは、純粋に大きく曲がるスライダーであった。


 他のバッターなら手が出てしまったかもしれないが、ターナーは確信を持って見送ることが出来た。

 確かに大きく曲がるボールであるが、これは組み立ての中では布石に過ぎない。

 次は内角を厳しく攻めてくる。

 そして実際に、カットボールが放り込まれた。

 ターナーのバットがボールに激突するが、打球は三塁側のファールグラウンドへと転がったのみ。

 もしフェアグラウンドに飛んでいたとしても、おそらく内野が処理したのみであろう。

(どうする?)

 やはり追い込まれてしまった。 

 分かってはいるのだが狙いを絞り込めない。


 今度は振らせるスライダーを投げてくるだろうか。

 あるいはストレートで三振を狙ってきてもおかしくない。

 スルー、は初球で使ってきているので、可能性はやや低くなるか。

 カーブを使って緩急差を活かしてくるかもしれない。


 考えるターナーに投げられたのは、やや高めのボール。

 ゾーン内に入ってくるこれは、おそらく――。

(スルー!)

 タイミングを合わせて、上手くカット出来るようにもスイングを始動する。

 だがボールの減速と落差が、思ったよりも大きい。

 スルーチェンジと気づいても、バットは止まらない。

 ならばどうにかカットをとも思ったが、バウンドしたボールにはバットが届かなかった。


 三者三振。

 直史としては珍しいスタートである。




 残り2イニングを抑えれば試合が終わる。

 ただ守備の前には、先に攻撃がある。

 八回の表、日本の攻撃は二番の悟から。

 なんとか塁に出さえすれば、次は大介である。

 下手にツーベースなどを打ってしまえば、また歩かされるのは目に見えている。

 単打でもいいし、なんならフォアボールでもいいから、とにかく塁に出ればいい。

 だがアメリカもここまで試合が進むと、クローザーのピッチャーたちを出してくる。


 MLBのピッチャーであっても、それほど突出してNPBより優れているわけではない、と悟は感じている。

 だがそれは上杉が、日本のファンのために日本に戻ってきてくれたから、というのもあるだろう。

 超人であり、鉄人でもある上杉。

 そのスピードに慣れていれば、とりあえずMLBのスピードにもついていける。


 ただここでMLBが出してきたピッチャーは、170km/hを投げる若手のクローザーである。

 現時点では170km/hを投げられるピッチャーは、地上に三人しかいない。

 上杉、武史、このリリーフに、MLBのマイナーで投げている選手が一人。

 まだまだ未熟だからと、マイナーで育成しているあたり、MLBもしっかりと育成をしている。

 そしてこのピッチャーは、今の日本相手には、かなり相性が良かった。


 荒れ球と言っていいだろう。高めも低めも内角も外角も、とにかくばらばらである。

 どうにかゾーン内には入っているので、とにかく球威で押すしかないというピッチングだ。

 なお他に持っている球種はチェンジアップだけ。

 それでも圧倒的な球速によって、バッターをなぎ倒していく。

 下手に読んでも意味がないコントロールの悪さが、この場合は上手く働いている。


 そのはずなのに、悟のバットはストレートをジャストミート。

 サードライナーであったが、確実にヒット性の当たりであった。

 憮然としてバットを拾った悟は、そのままベンチに戻る。

 その背中を、打ち取ったはずのピッチャーの方が、愕然とした顔で見つめていた。


 それは間違いなく、コントロールに影響を与えた。

 悟の次の三番は、もちろん大介である。

 その打撃力の脅威は、誰もが知っているものだ。

 少なくとも103マイル程度のボールであれば、自然と打ってしまうことが出来る。

 ただしこの場合、コントロールの悪さが、かえって狙いを絞らせずに済む。

 スピードだけで勝てる、パワーピッチャーであるのだ。


 もっとも、大介には通じない。

 甘く内に入ってきたボールをフルスイング。

 その打球はライナー性の打球でもって、ライトのポールのわずか外に着弾した。

 ボールが甘すぎたため、力が入りすぎて引っ張りすぎた。

 大介としては痛恨のミスであるが、MLBでは大介との対戦経験のないピッチャーの顔色が変わった。

 そこからはコントロールが乱れて、結局歩くことになってしまうのだった。


 この試合もホームランの他には、二度も歩かされている。

 一度だけは一応打ち取られた形になっているが、三振する気配など全く見せない。

 大介が一塁にいて、そして次は西郷。

 ここでもアメリカは、ピッチャーを代えない。


 大介に比べれば西郷は、まだしもどうにかなる。

 そう考えているのだろうし、それはおおよそ事実である。

 ただ西郷もまた、単なるパワーピッチャーには慣れている。

 コントロールが悪いというのは、確かに読みが通用しないので、むしろ面倒ではあるかもしれないが。


 西郷が考えるのは、ごく単純なことである。

 さほど緻密なコースに投げ分けが出来ないのだから、甘いボールを打てばいい。

 チェンジアップだけは警戒であるが、他はどうにかなるだろう。

 それが悟と大介の打席を見た、西郷の感想である。


 低めのストレートが外れて、それでも170km/hが出ていた。

 高めならともかく低めというのは、確かにすごいことではある。

 だが低めだけにおおよそ絞っても、西郷ならば打てる。

 日本チームの人間だけでなく、西郷もそう思っている。

 上杉に比べれば、それほど難しくもない相手だ。


 二球目の高めに浮いたボールを、西郷はフルスイングした。

 その打球はまさにピッチャー返し。

 後に多くの人間が「死んだと思った」というその強烈なボールは、偶然にもグラブの中に収まっていた。

 完全に運とも言える、ラッキーなアウト。

 慌てて大介は一塁ベースに戻る。


 だがせっかくピッチャーライナーでしとめたはずのアメリカのリリーフは、そこでうずくまってしまった。

 タイムがかかり、ベンチからもコーチなどが出てくる。

 そして確認をして、首を左右に振る。

 グラブをしていた左手の指を、ピッチャーは抑えつけていた。

 後に判明したことであるが、西郷のボールの威力で、彼は指を脱臼していたのである。

 全治一ヶ月、MLBのレギュラーシーズン開幕にも間に合わない。

 これによってさらに、MLBのチームはWBCなどに、選手を送りたがらないようになっていくのであるが。


 ともあれ西郷をアウトに出来て、ツーアウトでランナーは一塁。

 1イニングを満了させることもなく、痛烈な打球一発でピッチャーをノックアウト。

 下手にホームランなどを打つよりも、よほど恐ろしい印象を与えたであろう。

 アメリカのブルペンは大急ぎで、次のリリーフを登板させることになる。

「ジャストミートばかりしても、アウトカウントは増えるもんだな」

「怪我だけは気をつけないといけないな」

 日本のベンチで直史と樋口は、のんびりとそんな会話をしている。

 もう一点入るかなと思ったチャンスだが、どうやらこの試合は本当に、ホームランでないと点が入らないようである。

 続く後藤が倒れて、八回の表の日本の攻撃は終了。


 日本の守備陣が、グラウンドに散っていく。

 アウトになってもなお、西郷の打球は流れを呼び込んだと言えよう。

 この回の攻撃が終われば、もうアメリカにチャンスなどはない。

 バットを持ってバッターボックスに入るブリアンは、いつも通りに十字を切るのであった。

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