第26話 安全圏

 野球において、ほぼ勝敗の決した安全圏というのは、何点差ぐらいであるか。

 高校野球においては、そんなものはないと指導者も選手も断言するのが日本である。

 甲子園においてさえ、序盤についた大差であれば、覆すことが可能なのが野球である。

 一方のMLBとしては、およそ六点差が安全圏と思われている。

 それは六点差になれば、勝っているほうはさらなる得点よりも、試合の進行を要求されるからだ。


 もちろんこれはリードしている側のピッチャー、守備陣、対戦相手の打線によって変わってくるもののはずだ。

 だが日本においては、たった一点取っただけで、勝利を確信してしまうような、絶対的なピッチャーが存在する。

 上杉勝也と佐藤直史。

 直史の場合などは、応援歌までが存在する。

 イリヤが作曲したわけでもないはずだが、とても分かりやすいテンポに、とても分かりやすい歌詞。

 佐藤が投げるなら一点あれば大丈夫。

 そんな無茶な認識が、日本においては周知されている。

 そして実際に、おおよそその判断は正しいのだ。


 上杉の場合はどうであろうか。

 実は上杉の場合も、味方が先に点を取ってくれれば、勝つ確率が圧倒的に高い。

 そもそも上杉の勝率が高いので、先制すれば勝ちやすいのは当たり前の話である。

 また上杉に加えて、直史はどうであるのか。


 年間無敗というピッチングを、両者は複数回達成している。

 そんな上杉は、二点味方が点を取ってくれれば、ほぼ負けることはない。

 高校時代、甲子園で負けた試合が全て、二点以内の点差であったし、あるいは自分が球数制限でマウンドを降りるまで、一点も取られずに負けた試合さえあった。

 上杉が投げる以上、自分たちが打てば勝てる。

 そう確信しての、樋口の一発であった。


 ちなみに樋口は、上杉と直史の両者を信頼しているが、その性質は全く違うと思っている。

 ベンチに戻ってくると、直史がブルペンに向かっていた。

 一応なんらかの事故に備えて、既にブルペンにはリリーフ陣が待機している。

(一人も出さないつもりか)

 直史の後姿からも、その意思表示はしっかりとしている。

(ならこちらも、そのつもりでリードするか)

 上杉の球数と、直史の球数。

 170球もあれば、延長に行かない限りは完封できる。

 そして二点も点差があれば、完封にはもう充分すぎる。


 六回まで上杉が投げ、直史が残りの三回を投げる。

 それで充分だと、樋口は計算する。

(終わらせるぞ)

 ドリームチームは中盤から、まだどんどんとアクセルをかけていく。




 大介の低い弾道のライナーに、アレンが追いついてダイビングキャッチ。

 見事なスーパープレイを見せて、五回の表は終わった。

 そして五回の裏、一人のランナーも出していないアメリカは、四番のブリアンから。

 この強打者を抑えてしまえば、上杉の役目はとりあえず終わりと言ってもいいだろう。


 いつもよりもゆっくりと、十字を切るブリアン。

(神よ。立ち向かう私を、どうかお守りください)

 ブルペンで軽くキャッチボールをする直史は、そんなブリアンの遠景を醒めた思考で眺めていた。

 MLBの頭の悪いアッパースイング一辺倒のバッターよりも、ブリアンはよほど優れたバッターだ。

 ホームランを捨ててしまうなら、上杉や直史からでも、それなりにヒットぐらいは打てる可能性がある。

 アメリカが継投パーフェクトなどという屈辱に塗れないためには、それぐらいの覚悟が必要であるだろう。

 だがブリアンであっても、しょせんはアメリカ人というわけだろうか。


 野球は確かに点を取り合うスポーツであり、最も最小限の段階で点が取れるのは、ホームランである。

 だが逆に言えば、無理にホームランばかりを狙わず、ヒットを積み重ねたり、フォアボールで出塁する。

 そういった打線のつながりの方が、得点全体の中では割合が大きい。

 とは言っても上杉から連打となると、かなりハードルが上がりそうである。

 フォアボールにしても上杉は、コントロールがいいピッチャーだ。

 現実的に言って、ここから連打が狙えるのか。

 ブリアンからの打順であるので、それなりに打撃力の優れたバッターは並んでいるのだが。


 直史と対戦したブリアンは、その中に超常の力をたびたび感じた。

 一度はホームランを打てたものの、その後はほぼ完璧に封じられている。

 あまりにも静かな直史と違って、上杉の発する気配は獰猛である。

 だが直史と似ていて、その気配を隠そうとしている。

 しかし巨大な岩のように、マウンドの上に佇むその姿。

 ヘラクレスの神像というのは、こういったものなのか。

 直史の計算し尽くされた冷徹さとは、また違った恐ろしさを感じさせる。


 初球から投げられたストレートには、バットはしっかりと当たった。

 打球はライト方向へのファールで、それなりに飛んでスタンドに入る。

 そしてまたしてもバットが折れた。

 ブリアンのようなクラスの選手になると、当然ながらスポンサーがいて、使うバットなどは全て提供されている。

 完全にブリアンの注文に応じた、専用のバットである。

 基本的に軽く、そして細いのがスラッガー用のバットだ。

 だが細いバットではわずかに芯を外しただけでも、こんな結果になってしまう。


 状況に応じて、ある程度バットは変える必要もあるだろう。

 そう思ってブリアンは、やや太いバットも持っている。

 太いといっても芯を外せば、やはり折れてしまうだろう。

 だが今のままでは、上杉の攻略など何も思いつかない。


 この太いバットを使って、出来るだけ粘っていく。

 そして甘く入ってきたボールを、確実にミートするのだ。




 そんなブリアンの気配の変化を、上杉も樋口も感じ取っていた。

 上から目線でも、対等でもなく、上位者に挑戦するという執念。

 MLBのスタープレイヤーには、おおよそ欠けている資質である。

 優れたプロスペクトに、適切なトレーニングと練習を行わせれば、結果は自然と出てくる。

 そうやって考えているうちは、理屈を超えた存在に勝てるはずもない。


 ここからが本当の勝負だと、ブリアンは考えているのだろう。

 なるほど確かに、単純にストレートだけでは押し切れないかもしれない。

(長打を捨てるにしても、タイミングがもう遅かったな)

 樋口の正直な感想である。


 ブリアンは同時代のバッターの中では、傑出した存在だ。

 だが大介という、時代を超越して傑出した存在と、同時期にいたのが不幸ではあった。

 そしてこの時代は、そんな傑出したバッターでも対応できない、さらに傑出したピッチャーが複数存在する。

 まさに時代に愛されなかった男と言っていいだろう。

 幸いと言うべきか、慰めになるかは分からないが、そういった選手はブリアン以外にも複数存在する。


 上杉のボールを、必死でカットしていく。

 幸いと言うべきか、このボールはカットには向いている。

 高速チェンジアップには、膝や腰を使って振らないように全力でこらえる。

 低めに外れていくので、これで球数を増やすことが出来る。


 まさに上杉こそは、完成されたピッチャーと言えるだろう。

 球速やコントロールに球種などは、武史とさほど変わらない。

 もっとも本当にそう言えるほど、ブリアンは武史との対戦経験はないが。

 しかし本当の奥底にある、ピッチャーとしての根本的な資質。

 それは上杉が上回っていると感じる。


 これがMLBを捨てて、故郷のリーグに帰ったのだ。

 それはまさに、日本のプロ野球を盛り上げるためのものであったろう。

 アメリカ生まれのブリアンには、想像が出来るはずはない。

 しかしマーケット的にははるかに小さな日本で、満足してしまえるのか。

 そんな自己の過小評価は、アメリカでは許されない。

 ただ別に上杉は、自分を過小評価などはしていない。

 単純にMLBよりNPBの方が好きなだけである。


 粘った末に打った打球が、上杉の横を通り過ぎていった。

 今度はセカンドの小此木が、それに飛びついてキャッチする。

 倒れたままの状態から、ショートの悟へとグラブトス。

 ファーストにボールが送られてアウトと、先ほどのプレイを左右反転したような連携を見せた。




 ブリアンが打ち取られたのを見て、直史は内心で指を数える。

 それなりに上杉に投げさせるのには成功したのだな、と拍手してもいい気分だ。

 だがMLBで大介を除けば最強のバッターが、二打席連続で凡退。

 打球の強さも方向も、悪いものではなかったのだが。


 野球は大きく運が左右されるスポーツである。

 直史はたびたび、運が良かったと口にしている。

 おおよそはパーフェクトやノーヒットノーランを達成した時だ。

 本来ならグラウンドボールピッチャーである直史は、どうしても一試合に数本は、内野を抜いていくゴロを打たれるはずなのだ。

 それがほとんどないのだから、直史の認識では運がよかった、と言える。


 上杉の場合も、並の守備力のチームであれば、ヒットになっている打球は他にもあった。

 なので運さえもが、今は日本の味方をしている。

 もっとも運というのは、最後まで傾き続けているとも限らない。

 ゴロを打たせれば普通に内野の間を抜けていく他、イレギュラーバウンドでヒットやエラーになる可能性もある。

 基本的には奪三振でアウトを取っていった方が、安全ではあるはずなのだ。

 それでも直史の場合は、とにかくホームランで点が入らないことを第一に考えている。

 なので単打であれば、許容範囲だ。


 上杉は続くバッターも、三振とキャッチャーフライでアウトとした。

 長打力のあるはずのバッターであっても、塁に出ることさ出来ない。

 これではますます、ホームランの一発狙いとなっていくのではないか。

 上杉が試合をそう導いた後に、直史がリリーフで投げる。

 キャッチボールから少し強めに負荷を加えていきながら、直史は配球を考える。


 このまま上杉が充分に投げるなら、おそらく六回あたりで交代となるだろう。

 もしくはランナーが出て、バッターの三巡目が回ってきた時か。

 バッターによっては直史に継投ではなく、毒島あたりの左腕を出すのかもしれない。

 ただバッターの力量から考えるなら、六回にもランナーは出ない気がする。

 下位打線なので、それこそ運が良くない限りは、まともなヒットは見込めない。


 もっとも、その打てないはずの下位打線から、一発が出てしまうのも野球である。

 それにアメリカ代表ともなれば、下位打線でも充分に長打力はある。

 ポジションなどで言うならば、ショートやキャッチャーは比較的打撃力は低い。

 ただそれは、ターナーやブリアンと比べてしまうえば、という話だ。

 レギュラーシーズンで二桁のホームランを打てていれば、充分に打撃力もあると言えるだろう。

 また出塁率に関して言うならかなり高く、OPSは0.85あたりはあるので充分なのかもしれない。


 そして六回の表、日本の攻撃は四番の西郷から。

 ここいらでさらに追加点が入っても、何もおかしくはない。

 点差はあればあるほどよく、どれだけ点差があっても油断しないのが、直史なのである。




 西郷の打球は、深く守っていた外野でも追いつけない弾道で、フェンスを直撃した。

 ツーベースヒット、と誰もが思っただろう。

 ただ弾きかえってきたボールが、あまりにもセンターのグラブに入るのが早かった。

 そこから二塁へボールを投げて、鈍足の西郷はセンターゴロ。

 う~むと観客がうなってしまう、運の悪いアウトであった。


 この試合の傾向としては、共に攻撃に関して、運が悪いということが言えるだろう。

 西郷の今の打球のみならず、日本のバッターのジャストミートした打球が、何本も野手の正面に飛んでいる。

 だがアメリカの攻撃も、どうにか内野ぐらいは抜いてもおかしくないボールが、堅い守備によってアウトになってしまっている。

 結局得点は、ホームランの二本だけで、それもソロホームランなのだ。


 ランナーが一人いる状況でホームランを打たれたら、一気に同点に追いつかれる。

 だから一人もランナーを出したくないな、と樋口は無茶なことを考えている。

 だがその無茶に付き合ってくれるピッチャーがいる。

 これほど嬉しいことはない。


 六回の表、日本は三者凡退に終わったが、ポーターのストレートにはついていっていた。

 上杉と違ってほとんど、三振のアウトが取れていない。

 最も危険性の少ないアウトは、野手の能力に頼らない奪三振。

 それを前提として考えるなら、まずこの上杉からどうにか最初のヒット一本を打つべきだ。

 しかし下位打線に入ったアメリカは、それなりに工夫してきている。

 トップを作った位置から、どうにか上杉のボールに当ててくるのだ。

 基本的にスピードで勝負し、変化球はミスショットさせる以外では使わない上杉は、空振りを取れるほどの変化や緩急は、チェンジアップしかない。

 もっとも160km/h台後半のムービングボールであれば、そのカットすらも怪しい。

 球数はやや増えるが、だからといってボール球は増えない。

 ツーストライクまで追い込めば、そこからゾーンで勝負出来る。

 ツーシームでボール半分外せば、そこから樋口がストライクにしてしまう。

 フレーミングの巧みさが光る。


 七番を三振にしとめて、八番もカットしきれずにファーストゴロ。

 ボールをキャッチした後藤は、そのまま自分でベースを踏む。

 あと一人で、六回をパーフェクトという結果が生まれてしまう。

 ただ残り3イニングを考えれば、守備力を低下させてまで、代打を出す意味はあまりない。

 ツーアウトからアレンに回しても、とても点が入るとは思えない、上杉のピッチングなのである。


 一球でも多く、上杉に投げさせる。

 確かにその作戦は、いい作戦だと樋口も思う。

 だがやるならば、試合前からもっと徹底しておかなければいけなかっただろう。

 上杉を甲子園の決勝で破った時、大阪光陰はそれで勝ったのだ。

(作戦を徹底していなかったことが、アメリカの最大の敗因かな)

 あるいは日本の、上杉の分析が甘かったと言うべきか。

 下手に復帰一年目のクローザーとしてのデータが残っていたので、それを頼りに戦力を計算したのかもしれない。


 現実において、上杉は圧倒的にアメリカを蹂躙している。

 クローザー並の出力を出しても、結局85球までしか投げられないのだ。

 ならば全力で投げて、一人のランナーも出さない。

 それが上杉の覚悟であるが、そんな無茶苦茶な覚悟を決めて、しかも貫き通すピッチャーは他にいない。

 直史などはもう少し、考え方が違うのだ。


 ともあれ、最後のバッターも三振。

 球数はまだ80球に満たないが、おそらく次のイニングで制限に引っかかるだろう。

 六回を78球投げて、11奪三振。

 記録に残されるものではないかもしれないが、折ったバットは六本にまでなった。

 環境に優しくないピッチャーである。




 七回の頭から。

 ブルペンの直史は、そう伝えられた。

 ボールを受けていた岸和田は、結局この大会、一度も試合には出ていない。

 だがそれも樋口と福沢がかなり打つキャッチャーであるので、仕方がないと言えば仕方がない。


 それに多くのトップレベルのピッチャーのボールを受けることが出来た。

 NPBのトップだけではなく、MLBのトップ二人もだ。

 思えばここ最近、サイ・ヤング賞を独占している兄弟である。

 ピッチャーとしてのタイプは違うが、共に時代に傑出したピッチャーだ。


 武史は200勝を既に記録し、名球会入りの資格を得ている。

 また直史はおそらく、今年で200勝を達成するだろう。

 現時点ではまだ171勝であるが、前年には34勝している。

 プロ入り後わずか六年で、その勝ち星なのである。


 化物としての純度で言うならば、直史が一番人間離れした数字を残している。

 パーフェクトの達成回数や、防御率の通算記録。

 だがとにかく直史は、負けないピッチャーであるのだ。

 唯一の敗北を喫したのは、相手が大介だからである。


 七回の表、日本の攻撃から、アメリカはピッチャーを代えてきた。

 リリーフピッチャーを出してきたのである。

 残りのイニングを、一人1イニングずつでもどうにか抑える。

 二点差までならなんとか、ならないこともないと思いたい。

 ただどうしようもないだろうなと思っても、これ以外に選択肢もないだろう。


 MLBのリリーフの特徴は、基本的にはNPBと変わらない。

 奪三振能力が高く、四球をあまり出さないことである。

 極端に言えば、たとえランナーが出てしまったとしても、それを進塁させないのに一番いいのは、続くバッターを三振でしとめること。

 まずは先頭の谷から、三振を奪う。


(確かに速いけど、そんなに打てないほどかな?)

 素質型の選手としてプロ入りしたが、一年目から一軍でそれなりに出場した小此木は、基準が直史や武史になっている。

 MLBのスピードは確かにすごいが、トップレベルには差などない。

 トップを早めに作り、そこから球種を見極めてミートする。

 レフト前に落ちて、クリーンヒットで出塁である。


 ワンナウトランナー一塁で、バッターはラストバッターの樋口。

 だがこの場合のラストバッターは、全く油断出来ないものであると、アメリカも分かっている。

 そもそも樋口はアナハイムでは、主に二番を打っているのだ。

 キャッチャーの守備負担を考えて、あえて九番に入れている。

 MLBでも毎年、20本前後のホームランを打ってしまうバッターなのに。


 樋口としては、ここで重要なのが何か、ちゃんと優先度が分かっている。

 一番にはもちろん、怪我をしないことである。

 残り3イニング、直史のボールを受けなければいけない。

 ここで長打を狙っていくのではなく、穏当にピッチャーのスタミナを削りたい。

 もっともここからアメリカは、傑出したクローザーを出してくるのだろうが。

(まあどれだけ凄いと言っても、普通にヒットでランナーは出せるか)

 流れを変えるためには、小此木も含めて三者凡退で抑える必要があった。

 それが出来ないという時点で、既にアメリカに天秤が傾く余地はないと考える。


 残り3イニング守れば終わる。

 楽しい祭りの結末が、もうすぐ近くに迫ってきていた。

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