第25話 マウンドの上の神

 初回の攻防が終わり、まずは日本が一点を先制。

 大介のホームランが出た瞬間、ネットでは「勝ったな」というメッセージが数百万単位で流れたという。

 もちろんベンチの中では、そんな甘い雰囲気にはならない。

 上杉が二人連続でバットを折るという離れ業を見せたが、冷静に見ればバットにはボールを当てられたということだ。

 105マイルのボールであっても、ストレートなら当ててくる。

 それぐらいの脅威度は、はっきりと日本選手団も分かっていた。


 アメリカはアービングが二回も投げてきた。

 ランナーは一人出したが、それでもこれ以上の失点はなく、点差は一点のままである。

 そして二回の裏、アメリカの先頭は四番のブリアン。

 毎年ア・リーグの打撃タイトルをいくつか取っていく、MLBにおいては二番目の強打者と言えるだろう。

 一番との差は随分と大きいと思うが。


 もしも上杉から一発を打てるなら、それはターナーかブリアンだろうと樋口は認識している。

 なのでこいつも、長打を打たせない組み立てを考えなければいけない。

 ただブリアンは、初球はかなり狙いを絞っていて、それ以外の球は見逃すという傾向がある。

 もっともその狙っている球が、なんなのかというのは問題であるが。


 上杉はコントロールがいい。

 ストレートであれば構えたミットの中に、ほぼ間違いない吸い込まれるように投げてくる。

 動かしてくるボールにしても、ゾーンの四隅は狙えるぐらいだ。

 スピードだけでどうにかする、若いクローザーとは違うのだ。

 正確なコントロールだ。

 だがそれだけに、読みが当たれば打たれる可能性はある。


 ムービング系から入るのが、安全ではあるのだろう。

 しかし樋口はストレートを要求する。

 全盛期の上杉であれば、本当に何をしても無駄だというピッチングが出来ただろう。

 だが今の上杉でも、投球術を少し工夫すれば、MLBの強打者たちを封じていける。

(よく見てろよ)

 樋口が意識しているのは、アメリカのバッターたちではない。

(上杉さんをリードするなら、こうするんだ)

 普段はスターズでバッテリーを組んでいる、福沢に対してのものだ。


 インロー、膝もとのボールを、ブリアンはスイング出来なかった。

 厳しいボールであり、一応はボールとカウントされたが、大介なら打っていたコースである。

 そこから次にインハイ、これはブリアンも振っていった。

 だがボールはわずかに当たっただけで、そのままバックネットに突き刺さる。

(今のは打ちたかった)

 ブリアンは集中し、上杉と対決している。

 ブリアン自身は上杉とは、大きな舞台での対決はなかった。

 だが話にはよく聞いている。

 レギュラーシーズン完全無失点の、パーフェクトクローザー。

 それは最初は、直史ではなく上杉への呼称だったのだ。


 三球目、同じコースにストレート。

(打てる!)

 だがブリアンのスイングは、ボールの下をこするのみ。

 またもバックネットにボールが突き刺さり、これでストライクカウントが増えていく。

 追い込み、追い込まれた。

 ここまで三球、全てストレートである。


 四球目は、何を投げるのか。

 チェンジアップを投げられたら、頭では分かっても体が反応できない気がする。

 ブリアンは一度ボックスを外し、神に祈った。

 そして上杉を見て、そこにまさに、ゴルゴダの丘に登ったキリストのごとき面相を見た。


 なぜそんな錯覚をしたのか。

 神は人の心の中にあり、誰かを、何かを神にしてしまうというものではないはずだ。

 だがそれでも、ブリアンの見たそれは、ただの錯覚とは思えなかった。

 神はキリストをして、神の子として人の世に降臨させた。

 実は元のキリスト教の学問では、んなことはキリストも言ってはいないのだが。

 ブリアンにはいまいち分からなかっただろうが、日本人ならそれなりに分かる、

 人が神を降ろすということは、古代から行われていたからだ。


 四球目、樋口の要求したのは、またもストレート。

 アウトローではなく、純粋に外のボール。

 ブリアンのスイングは空を切り、二つ目の三振となったのである。




 日本では冗談ではなく、上杉のことを神に最も近い肉体、などと呼んでいたりする。

 二回の裏は三者三振でしとめて、その豪腕振りを見せ付けた。

 ただのチームではなく、アメリカ代表の四番から六番である。

 そして初回の二人も、バットを破壊するピッチング。

 まさに軍神、ここにあり、といったところだろうか。


 点が入る気がしない、というのがアメリカチームの正直なところかもしれない。

 実際に打球は、ファールボールでも外野までは飛んでいっていない。

 これが上杉のボールに特有の、重さである。

 回転はかかっているので運動エネルギーは多いのだが、武史と違って遠くには飛ばない。

 それをホームランにしている、大介はなんなのだという話になるが。


 一応レギュラーシーズンならば、上杉もホームランを打たれることはある。

 だがそれは完投することを計算して、ペース配分も考えるからだ。

 中四日で100球以上投げるのと、85球で強制的に止められるのは、状況が全く違う。

 全てのボールに全力投球しても、85球ならば特に問題もない。


 三回の表、ツーアウトランナー一塁から、大介の二打席目が回ってきた。

 しかし既に、アメリカのピッチャーはヒューストンのポーターに代わっている。

 サウスポーであり、スライダーも使える。

 ア・リーグ西地区のチームであるので、大介との対戦経験も少ない。

 これだけ材料が揃っていれば、運が良ければ大介を打ち取ることも出来るだろう。


「ふぬ」

 大介の引っ張ったボールは、ポールの上を通り過ぎるぐらいの飛距離を出して、かろうじて右に切れていった。

 そこでアメリカは、申告敬遠を使う。

 最初から使っておけよ、と言いたくなるところだが、これは仕方がないだろう。

 だがこれで、得点圏にランナーを置いて西郷となる。

 セカンドランナーが悟であるので、シングルヒットで間違いなくホームに帰ってこられる。

 だがここで西郷の打ったボールは、レフトライナーに終わった。

 キャッチしたレフトのブリアンが、グラブから抜いた手を確認するような、人を殺せる打球であった。


 三回の裏、アメリカは下位打線であるが、それでも守備に特化した選手などはいない。

 代表に選ばれるような選手は、守備力も打撃力もあるプレイヤーに決まっている。

 実際に日本の打線も、とてつもなく強力なものだ。

 それが三回までで一点しか取れていないのだから、アメリカの投手陣と守備陣はよくやっている。


 先頭バッターの七番で、本日三本目のバット破壊。

 軍神はいつの間に、破壊神になったのだろう。

 ただこのボールは、サードファールグラウンドへのポップフライ。

 なので大介が簡単に処理をして、まずはワンナウトである。


 八番も九番も、MLBの平均よりは、はるかに高いバッティング技術を持っている。

 それでも打撃力重視の上位打線に比べれば、その方面では落ちるのは当然だ。

 ファールボールが二球続いた時点で、八番のバットが折れた。

 四本目のバット破壊で、痺れた手のままバットを交換する。

 まるで砲丸を打っているような、との例えはさすがに言いすぎだろうか。

 それでもこのバッターは、上杉に五球投げさせることに成功した。

 

 樋口としては上杉のボールでも、ある程度打たせて取るのが理想であった。

 出来れば六回までを、打者二巡で終わらせてしまいたかった。

 それはつまり六回までパーフェクトを続けてもらう、ということである。

 さすがに厳しいかな、と樋口は思う。

 実力ではなく、純粋に野球は、そういうことが簡単に出来るスポーツではないのだ。

 直史はちょっとおかしい。


 八番バッターを三振、九番バッターも三振と、これで打者一巡が終わった。

 ここまではパーフェクトである。

 三回までを投げて、奪三振が六個。

 破壊したバットが四本。

 ……一試合あたりに叩き折ったバットの記録など、どこかにあるのだろうか?




 折られたのはバットではなく、アメリカの戦意なのかもしれない。

 なにせ一球も、外野に球が飛んでいっていない。

 このあたりは上杉と言うよりも、樋口の計算が上手く当たっている。

 だがどう計算しようと、バットを折ることなどが、試合中にそうそう起こるはずはないのだ。


 球数は32球と、ほどほどのペースである。

 六回までを70球で投げたら、七回も投げられるだろう。

 そうすれば直史の担当するのは、八回と九回の2イニングだけ。

 普通にクローザーとして、一人も出さないピッチングが出来てしまう。


 ただそんな絶好調の上杉はともかく、打線はそろそろ追加点がほしい。

 四回の表、日本は五番の後藤から。

 しかし後藤はあまり、ポーターとは相性がよくないらしい。

 あっさりと凡退してしまったが、その後のバッターが正志である。

 毎年30本以上のホームランを、この数年はコンスタントに打っている。

 そして速球に対しても、かなり日本人打者としては強い。


 ポーターのツーシームを、右方向に打ち返す。

 ライト前のクリーンヒットで、その後のゴロの間に二塁へ進塁に成功。

 ツーアウトながらランナー二塁で、この数年で曲者に変身した小此木の打順である。


 おそらく古い時代の二番バッター、と言われて一番思い浮かぶのは小此木のようなタイプであるのだ。

 高い打率、俊足、選球眼、バットコントロールで最低でも進塁打は打つ。

 だがホームランも二桁は打っている、新時代の二番の性能も備えた過渡期の選手。

 ポーターのボールに対しても、160km/hオーバーのストレートをカット出来る。

 そして変化球にもついていく。


 ただ最後には、外のボールを見送って三振してしまった。

(あ、そういえばそうか)

 NPBならばボール球であるが、WBCはMLB寄りのストライクゾーンである。

 完全にボール一個ほども、外に広いわけではないが、今のはぎりぎりを見逃しすぎた。

 かくして二塁にまで進んだ正志は残塁。

 しかし日本は三者凡退に終わったイニングが一度もない。


 全体的に日本が優勢である。

 ただ実際の点差はわずかに一点。

 このまま試合が進んでいけば、終盤ぎりぎりでの大逆転、というパターンが多いのが野球というスポーツだ。

 もちろんそんな都合のいい展開を許さない、絶対的なピッチャーが日本にはいるわけだが。


 野球はピッチャーから始まる。

 一人のエースだけで、甲子園を勝てる時代ではない。

 そう言われてそろそろ常識となりつつあるが、だが一試合に限ればそうとも言えない。

 それに日本にはエースが二枚いるのだ。


 一点差を守るために、上杉がベンチから立ち上がる。

 四回の裏はアメリカも上位打線に戻り、一番のアレンから。

 第一打席のように、積極的過ぎて球数が少なくなるようなことはしないだろう。

 マウンドに立つ姿は、より巨大になって見えた。




 アレンはツーストライクまで粘ってから、最後には三振。

 これでもう七つ目の三振である。

 正直なところ、下手に当てていったら、手の方が破壊されるような気さえしていた。

 自分のキャリアで重要でもない試合で、故障をしたくはない。

 アメリカが負けるとしたら、この言い訳が通ってしまうからであろう。


 二番のシュミットは、上杉のボールを分析にかかる。

 それはおそらく、純粋ではないがライフル回転によるボールが、破壊力を増しているのだ。

 反発力も増しているはずなのだが、完全にミートできないと力がバットの方にかかってしまう。

 事前の調査や過去の成績に比べて、球質が違いすぎるのではないか。

 ライフル回転をしていると言っても、ボールは球状であるのだ。


 樋口もシュミットに関しては、かなり注意している。

 アナハイムがメトロズとワールドシリーズで対戦する場合、だいたい大介の後ろを打っているのがシュミットであるのだ。

 対戦回数自体は少ないのだが、打たれてはいけない場面で勝負することが多い。

 それだけに念入りに、樋口も分析している。


 ボール球も使って、シュミットの意識が分散するようにする。

 ツーシームを使って、最後には打ち取りたい。

 高速チェンジアップを投げてから、次にツーシーム。

 シュミットの打った高速のゴロは、サード大介の真正面に飛んだ。

 これを確実にアウトにしてくれるのが、日本代表の守備力。

 ツーアウトとなって、ターナーの打席が回ってくる。


 一人もランナーが出ていない。

 確かに一点差であるのはいいが、その事実をどう考えればいいのか。

 なんとか球数だけでも増やして、リリーフするピッチャーを打ちたい。

 ただそれには上杉の球数は、まだまだ50球にも満たない。

 全力で投げているといっても、球数制限の85球までは、平気で投げるのが上杉である。

 NPBでは120球を投げて平気で完封すると、記録には残っている。

 しかしそれよりもターナーが気にしているのは、直史のことだ。

 まだブルペンに向かっていないが、直史がリリーフしてきたらどうなるのか。


 昨日も確かに直史は投げているが、球数制限には何も引っかかっていない。

 つまり85球までは投げられるということだ。

 既に四回になった今、直史はここからなら、最後まで投げきってしまうことは出来るだろう。

 それがないとすれば、アメリカがどうにか一点を取って、同点から延長に持ち込むしかない。


 105マイルのストレートは、簡単には前に飛ばない。

 下手に前に飛んで、ゴロになってしまっても困るのだが。

 同じ105マイルであっても、武史などのMLBのピッチャーの105マイルより、上杉のボールは重く感じる。

 まさか本当に重いはずはないのだが、回転があまりかかっていないのか。

 物理学の運動エネルギー的にどうなのか、そこまでは考えないターナーである。


 なんとかツーシームを前に飛ばすことに成功。

 だが打球は上がらず、上杉の横を通り過ぎるのみ。

 この打球速度なら、内野の間を抜けてtいくのでは。

 しかし飛びついた悟がそれをキャッチして、そのままセカンドの小此木へグラブトス。

 小此木からファースト後藤へと送球され、結局この回も三者凡退。

(守備力も高い)

 大介がショートを守っていないので、メジャーリーガー的にはそこが、少しは穴になっていてほしいのだが。

 ちなみにこの大会、日本守備陣のうち、内野のエラーは一つだけである。


 そして五回の表、日本の攻撃が始まる。

 そろそろもう一点はほしいかな、と思っている樋口からの打順であった。




 ヒューストンのポーターとは、同じア・リーグ西地区だけに、それなりに対戦経験のある樋口である。

 そしてその数字は悪くないので、あるいは交代させるかな、とも思っていた。

 しかしさすがにまだ2イニングしか投げておらず、失点もしていないピッチャーを交代させるのは避けたかったか。

 気持ちは分からないでもないが、樋口にとってはありがたい判断だ。


 ポーターはMAX164km/hのストレートに、ツーシームとスライダーを使ってくるサウスポーだ。

 左打者相手には、かなり数字が良くなっている。

 樋口を乗り越えれば、そこから織田、悟、大介と左打者が並ぶ。

 ならば少なくともそこまでは、ポーターを引っ張りたいのだろう。

(それならまあ、使ってくる球種も絞れることだし)

 普段は使ってこない球種を、ここで使ってくる可能性。

 メジャーリーガーの選手には、切り札とでも言えるような、そんな必勝パターンがあまりない気がする樋口だ。


 初球からストレートを、外に投げてきた。

 樋口はスイングすることなく、それを見送ってワンストライク。

 次に投げられたのは、懐に入ってくるスライダー。

 打てなくはないかな、とも思ったが想定内の組み立てなので見送る。これはボールとカウントされた。

 そして三球目は、内角へのツーシーム。

 際どいコースから、ゾーンぎりぎりへと入って、ストライク。

 一度もスイングすることなく、樋口は追い込まれたように見える。


 だが多くの日本人選手は知っている。

 樋口は追い込まれたように見えるところから、本領を発揮するのだと。

(一度もスイングしていないから、こちらの狙いがどこにあるかは分からないだろう)

 こういう時にNPBというか日本では、探るためにボール球を使う。

 MLBにもそういうピッチャーはいるが、基本的には自分の一番力のあるボールで勝負してくるのが主流だ。

 この場合であれば、ポーターがストレートを投げてくる確率は、約80%ほどであったか。


 外角のストレートに、樋口は90%の意識を向ける。

 それ以外のボールは、基本的にカットしていけばいい。

 唯一投げられたら嫌なのは、外のボールになる逃げていくツーシーム。

 だがそれでもどうにか、カットする程度にはバットが届くと思う。


 最後には力勝負を挑んでしまうのは、メジャーのピッチャーの傲慢なところである。

 あれだけ歩かされても大介が各種タイトルを取れるのは、そのあたりが理由となる。

 日本であればもっと、ゾーンの際のボールで勝負することを多くする。

 そのあたりどうにも、MLBのピッチャーというのは、自信過剰と言うか楽観的だと思うのだ。


 投げられたのは制球よりも、パワーを重視した外角のストレート。

 コースがやや甘い。

(なんでこうも)

 樋口のスイングは、遠心力で力のかかる、バットの先でそれを捉える。

(外角ストレートで勝負してくるバッテリーは多いのかね)

 ボールは右方向、飛距離は充分。

 やや右過ぎたかな、と思ったボールはポールに弾き返された。

 ソロホームランによって、日本は追加点を得たのであった。

(これでまあ、勝っただろ)

 ヒットや四球の出塁に、ホームランによる二打点。

 これを見て直史は、グラブを手にしてブルペンに向かうのであった。

 監督もコーチもそんな指示は出していなかったが、今更のことである。

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