第18話 それぞれの未来

 単純に得点差だけならば、日本が一番苦戦したのはドイツということになるのだろう。

 だが体感的には台湾であったと、直史は思う。

 上杉は六回で球数制限に引っかかる前に交代。

 この時点で6-0と日本はさらに、二点を追加していた。

 七回に投げるのは、右腕の上杉の後ということで、サウスポーの真田。

 やはり真田のような技巧派は、左打者の多いところのセットアッパーとしてはとても強い。

 八回には鴨池が出てきて、ランナーは出したが点はやらない。

 ただし日本も、この2イニングは追加点を取れていない。


 そして九回の表。

 日本のクローザーとして、直史が登板する。




「終わった……」

 台湾チームのトレーナーとして、スタッフルームで観戦していたヤンはそう言った。

「サトーか……」

「ヤンはワールドカップで対戦したんだったよな?」

「それに去年もアメリカで試合を見てたんだろ?」

「MLBで35登板して34勝無敗のピッチャーを、どうやったら打てるんです? ワールドカップはクローザーとして12イニング投げて、一点も取られていないし」

 あれはトラウマと言うか、ヤンにとっても記憶にはっきりと残っていることであった。

 ひそかにではあるがずっと足跡を追っていったら、学生なのに特例としてWBCに選出されたり。

 大学を卒業後にプロに行かなかったのに驚いていたら、随分と経ってからプロ入りしてすぐにMLBに移籍していた。


 MLBでの活躍は、もはや言うまでもない。

 積み重ねた数字ならば、大介の方が大きいが、それは活躍期間の違いによる。

 もっとも直史の場合、体の線の細さから、下手に早めにプロ入りなどしても、数年は二軍で生活するようなことになったかもしれない。

 誰がどう考えても無視できない実績があって、即戦力として入団。

 そして実際にエースとして活躍したのが、NPBもMLBも、あらゆるバッターを軒並み倒していった。


 200イニング以上毎年投げていて、年に一本ホームランを打たれるかどうか。

 レギュラーシーズン無敗の記録は、現在進行形の伝説である。

「二年前のニューヨークはおかしかったなあ」

 しみじみとヤンが呟くのは、直史がクローザーとしてメトロズで、大介と過ごした三ヶ月。

 あのメトロズは間違いなく、MLB史上最強の軍団であったろう。


 今回の日本チームには、その二人に加えて上杉までが入っている。

 この第二ラウンドからは、まだ合流していないとはいえ、武史もピッチャーの入れ替えで入っているのだ。

 現役メジャーリーガーの数も質も、かつて存在した全ての日本代表より、おそらく圧倒的な今回の日本チーム。

 勝つのが難しいことは分かっていた。

 だがそんな圧倒的強者に挑んでいくことが、自分たちのステージを上げることにつながる。

 負けないことを恐れていては、勝つ事は出来ない。

 勝つための最大の方法は、勝つまでやることなのだから。


 だが今回の日本は、本当に圧倒的に強かった。

 中国に15-0のコールド勝ちはともかく、キューバにも同じく15-0というスコアで勝利。

 なぜかドイツ相手には5-0であったが、全く投手陣が危なげのない試合運びをした。

 オーストラリアにも13-1とコールド勝ちをしていて、事前の評判やドイツの勝敗からすると、どうしてドイツには苦戦したのか、と不思議に思わなくもない。

 ただ台湾も6-0とそれなりに善戦はした。

 もっともランナーは三塁までは一人も行けなかったが。


 野球はまずピッチャーから始まると言ってもいい。

 実際に短期決戦であれば、エースの強力なチームの方が、圧倒的に有利であるからだ。

 日本は今回、トップレベルのピッチャーは、蓮池以外はほぼ全員を招集出来たと言っていい。

 ただベテランの中でもさらにベテランの選手や、若手の有望株はあまりいない。

 完全に育成などではなく、勝ちにきたチーム。

 それに対してアメリカなども、今回は本気のチーム編成をしている。




 直史が投球練習をしていると、なぜかそれを拝む者たちがスタンドの一角にいる。

 魔王原理主義者は、やはり日本を本拠地としているらしい。

 なぜか仏教式に拝んでいるが、世界の宗教としては、果たしてスタンダードなのだろうか。

 まあ仏教であれば第六天魔王などというのもいるらしいので、どうでもいいかと思考を放棄した直史である。


 ピッチャーの交代に合わせて、キャッチャーも樋口に交代している。

 このバッテリーの残した記録は、大学においてもプロにおいても、他に比類すべき対象がない。

 黄金バッテリーと言えば聞こえがいいが、ロックな人間たちはもっと的確に二人のことを表している。

 即ち、魔王と副官、というものである。


 上杉が交代したあたりから、二人はもうブルペンに入っていた。

 MLBのブルペンはだいたい、客席からも見える作りになっている。

 なので東京ドームのブルペンは、懐かしく感じるかと言うとそうでもない。

 神宮はブルペンが見える位置であったからだ。

 もちろんNPB時代も他のスタジアムで投げているので、こういうものでもあったな、という程度には思うのだが。


 遅いボールを投げる投球練習。

 WBCはMLBと違って、マウンドに登ったピッチャーに、最低でも三人に投げるという制限などはない。

 ただ直史はイニングの頭から投げる。

 基本的にグラウンドボールピッチャーなので、ランナーがいるとゴロを打たれる間に点が入る可能性がわずかに高くなるのだ。

 0.1%が0.11%に変わる程度の違いだろうが。


 最終回、台湾は不幸中の幸いと言うべきか、打順は一番から始まっている。

 リードオフマンから始まるならば、得点の可能性は高い。

 常識的に考えれば、それは間違いないはずなのだ。

 だが単純に、直史には常識が通用しない。


 初球からゾーンに投げられたストレートを、バッターは振っていった。

 だが当てた打球はほぼ真上に上がり、キャッチャー樋口が問題なくキャッチ。

 一球でアウトが一つ取れてしまった。

 直史を初球から打っていくのは、現実のデータだけを見れば悪手である。

 それでも今の球は、ミートできると思ったのだ。


 球速、スピン量、スピン軸、リリースポイント。

 投球練習がほとんどスローボールであった直史のボールを見て、打てると思ったのは仕方がない。

 初見では誰もが通る道である。

 そしてこの短期決戦のトーナメントは、まちがいなく初見殺しである。


 次の二番がバッターボックスに入る。

 直史はわずかにトランス状態に入り、相手の思考を肉体の表面から見て取る。

 打つ気配がそれなりにある。

 完全な見に徹しているわけではない。

 ならばおそらく、またストレートを投げれば、打ってくるのは間違いない。

 ただ同じようなアウトの取り方は、ほんのわずかに危険である。


 樋口とはもう、いい加減に以心伝心だ。

 カーブを、しかもスローカーブでもパワーカーブでもない普通のカーブを、打てるコースに投げる。

 思わず手がでてしまいそうな、しかし確実に狙いは外すように。

 バットが自然と出てしまう。

 だが体がわずかに泳ぐ。

 打ち上げたボールは、レフトの浅い位置に飛ぶ。

 これをキャッチして、ツーアウト。

 二球でツーアウトを取ってしまった。


 WBCの球数制限の穴。

 それは連投の制限が、今回はなくなっていることである。

 30球以上を投げれば、中一日は休まなければいけない。

 だが今回は、三連投は不可、という条件がなくなってしまっている。

 つまり29球までに相手を抑えてしまえば、いくらでも連投は可能ということだ。


 普通のリリーフであれば、失点を防ぐために1イニングで30球以上を投げることはある。

 また実際にマウンドで投げる前に、ブルペンで肩を作る。

 なので三連投はともかく、四連投はしないであろう、というのがMLBなどでは常識となっている。

 レギュラーシーズンであればよほどの場合でない限り、三連投もしないのが、今のMLBの継投のスタンダードだ。

 しかし直史のように、1イニングを10球程度で抑えてしまって、しかも無理に肩も作ろうとしない場合はどうなるのか。


 ラストバッターになるであろう三番が、バッターボックスに入る。

 その表情は恐怖を隠せない、緊張感に彩られている。

(これは一球目は振らないな)

 積み重ねてきた経験が、ほとんどテレパシーのレベルで、バッターの意思を探る。

 ならばど真ん中でもいいのだろうが、直史は樋口のサイン通り、インハイいっぱいにストレートを投げた。

 分かっていれば、ホームランにさえ出来たであろうボール。

 しかし台湾のバッターは、そのボールをしっかりと見逃す。


 打てる球であった。

 しかし状況が、初球を打っていくのを許さなかった。

 それにハーフスピードのストレートは、そこから変化すると思ってしまってもおかしくない。

 だが単純に、ストライクカウントを稼ぐだけのストレート。

 本当に、手を出せば打てていたのである。

 だがもう直史と樋口のバッテリーであると、バッターの心理はほとんど読みきれる。

 読めないのは大介や、MLBでもほんの数人しかいない、自動的にバットが出るタイプだけである。

 日本人選手なら他に、悟や織田がそういうタイプである。




 残り二球。

 もちろんファールで粘るなり、ボール球を見極めるなり、もっと投げることはあるかもしれない。

 だがそれは、現実的にはどんな可能性であっても、0にはならないというだけだ。

 二球目の直史の投げたボールは、またも右打者の懐に入っていく。

 バッターに当たりそうな軌道から、斜め下に大きく変化するスライダー。

 ゾーンを大きく斜めに切り取り、樋口のミットに入る。

 これをスイングすることも出来ず、ツーストライク。

 残り一球。


 ただ直史としては、今のスライダーに無理に手を出して、ファーストゴロにでもなってくれた方が嬉しかった。

 前のバッター二人を一球ずつでしとめているので、そんな贅沢なことも考える。

 1イニングを10球以内で終わらせれば、それで充分であろうに。


 ツーストライクと追い込んで三球目。

 どんなバッターであっても、このカウントから凡退しないでいるのは、とても難しいことは統計で明らかになっている。

 ボール気味であっても振っていかなければいけないし、フレーミング技術を考えれば、ボール球がストライクになることは珍しくない。

 前の二球が、ほどほどのスピードのボールであった。

 直史の球速は、MAXが153km/h程度と、比較的他の日本チームのピッチャーに比べればおとなしい。

 だがここでスピードボールを投げられたら、打てないのではないか。

 それがバッターボックスに入っている、台湾の三番の心情である。


 直史はゆったりとした動きから、プレートに足をかけて構える。

 セットポジションから、ランナーもいないというのに、クイックで投げてくる直史。

 だがそのリリースしたボールを、バッターは一瞬見失った。

 ボールは間違いなくリリースされていた。

 だがそれは想像していたストレートなどではなく、上に跳ね上がるようなカーブ。

 それも時速90km/h程度のスローカーブである。


 バッターの当然の心理として、速いボールを温存していたのだから、ここで速いボールを投げてくるのは当然、という考えがあった。

 直史のツーシームなどは内野ゴロを打たせるのに、とても都合のいい球速と変化を持っているのだ。

 右打者に対しては、当然ながらありうると思っていたボール。

 だがここで使ってきたのが、より遅い球であるスローカーブ。


 バッターボックスの中、ゆっくりとボールが迫ってくる。

 この落差、見送ってもボール扱いになるかもしれない。

 だが間違いなくゾーンは通っているし、バットは届く。

 なのに体が動かないのは、いったいどうしたわけであるのか。


 打てる球だ。打たなければいけない球だ。

 ボールがバットの届く範囲に入ったとき、金縛りが解ける。

 だがそのスイングは、ひどく力の入りすぎた、体重移動もしっかり伴っていないもの。

 コンと当たったボールは、ピッチャーの目の前に。

 容赦なく直史はキャッチして、ファーストへと送球。

 ランナーはまだファーストへ走り出したばかりだというのに、アウトにしてしまった。

 かくしてスリーアウト。

 日本はついにWBCの準決勝進出を決めたのである。




 試合が終わってインタビューも終わり、日本選手団はホテルへ戻る。

 準決勝以降は、アメリカのカリフォルニアが舞台となるのだ。

 直史や樋口にとっては、ホームに近い感覚。

 だが移動時間を考えれば、中三日でも調整は大変だろう。


 第二ラウンドに入ってからは、武史がロースターに登録されている。

 しかし武史自身はアメリカにとどまっているのは、この時差による調整などを考え、移動による疲労などがないようにという考えである。

 準々決勝から準決勝までは、中三日となっている。

 そして準決勝と決勝は、なんと連戦なのだ。


 上杉を中四日で先発で使う。

 そのために武史は、準決勝で限界まで投げてもらう。

 なんとか七回まで投げれば、残りの二回は直史がパーフェクトリリーフをしてもおかしくはない。

 だがホテルに戻った日本代表を、つい先ほどまで対戦していた台湾チームの関係者が待っていたのだ。

「淳先輩も悟も、本当に久しぶり」

 白富東でピッチャーをしていた文哲。

「相変わらず容赦がなかったね」

 U-18ワールドカップで直史たちと対戦したヤン。

 直接対決が終わってようやく、二人は旧知の日本選手に会いに来ることが出来たのであった。


 同じ高校、そしてワールドカップということもあり、直史と大介はホテルのラウンジで話すことになった。

 樋口や、同じくワールドカップで対戦した織田や本多は、さっさと退散している。

 同じ白富東でも、優也や正志なども、この二人とは接点がないので部屋に戻った。

「しかし、今回の日本は強すぎるね」

 ヤンが呆れたように言ったが、それは確かにそうである。

「いくらなんでも強すぎる。キューバ相手に15-0って何?」

 文哲も思わず、といった感じで笑ってしまっている。


 なぜと言われても困る。

 だが今回のWBCが、おそらく史上最強の日本代表を作れる、最後の機会だからだ。

 上杉の年齢、そして他には言っていないが、直史の引退。

 何かを残しておきたかったのだ。

 そしてその何かに、日本代表という舞台は相応しいと思った。


 直史と大介の対決というのは、あくまでも二人の間でのみ成立するケジメのようなものだ。

 だが直史としても、自分の野球選手としてのキャリアは、こういった機会で終わらせたいと思っていた。

 もう大介との約束も、そして自分自身の内面としても、やり残したことはない。

 誰かに期待されることはずっと続けているが、それに応えてばかりというのも、苦しいものなのだ。


 ヤンは現在、シカゴあたりを拠点にしているのだという。

 元はニューヨークにもいたらしいが、そこからサンフランシスコに移動し、そして今はシカゴというわけだ。

 大都市を移動しているが、いずれは日本でも働いてみたいな、とは思っているらしい。

 ただMLBとNPBでは、トレーナーに対する報酬にしても、圧倒的に違うのが問題なのだとか。


 文哲はスポーツだけではなく、社会問題も含めて、記者として活動している。

 フリーの記者であるので、こういう国際大会などでは、かつての経験を活かして取材を行うわけだ。

 特にこんな感じで、高校時代のつながりを活かして、MLBのスーパースターに取材をしたり。

「本当は日本人になりたかったんだけどね」

 なんともコメントに困る発言であるが、ヤンと文哲との間では、そういったことが語られることもあるらしい。


 大きな意味での治安は、アメリカの方が優れている。

 ヤンはアメリカ人と結婚しているため、あちらの永住許可をいずれ取ろうと思っているらしい。

 小さな意味での治安は、日本の方が優れている。

 文哲の場合は日本の文化も好きなため、本当に日本に帰化したいらしい。

 ただ日本の場合の永住許可は、アメリカよりも取りにくいのだとか。

「まあ一部の条件を満たしているやつは、あっさり取れたりするけどな」

 そのあたりは直史も、労働者の問題などで、色々と勉強したことがある。




 二人の台湾人との話は、その後も長く続いた。

 大介はヤンに、アメリカに戻ったなら、少しあちらで会わないか、などと言ったりもした。

 台湾チームが負けて、文哲はもうWBCの結末までは追いかけないらしい。

 とても寂しそうにしていたのが印象的である。


 あまり次に響かないようにと、二人はホテルを辞去していった。

 明日にはもう日本代表は、アメリカに向かって出発することとなる。

 アメリカの現地時間では、明日と明後日に準々決勝が行われる。

 そして19日にキューバと、おそらくアメリカの準決勝が行われる。

 20日の日本の相手は、まだ決まっていないがメキシコかドミニカ。

 どちらも相当のメジャーリーガーを含んだチームとなる。


 以前にも国際大会で、ドミニカとは対戦したことがある。

 あそこは人口一千万ながらも、圧倒的な野球人気の国である。

 事実上MLBが選手育成をしていて、日本よりもはるかに多くのメジャーリーガーを輩出し、その数は現役でも日本より多い。

 メキシコも強いが、今回の選手層はドミニカが上であろう。

 WBCの頂点まで、あと二試合だけ。

 直史と大介が共に戦う試合は、もうそれだけで終わるのだ。

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