第13話 そして何も起こらなかった
キューバは強いという事前情報はなんだったのか。
いや、間違ってはいなかったのかもしれない。
ただそれを上回る現実として、日本が頭がおかしいぐらい強い、という事実があったのだ。
上杉は球数が50球に達する前に交代し、中一日で投げられる状態。
もっとも日本は明日の対決はドイツ、そして四日目がオーストラリアとなる。
オーストラリアは一応そこそこ強いので、上杉が投げられるなら投げられる方がいいだろう。
しかしここまで差があるのなら、もう何も怖くないような気もする。
日程を考えてみると、日本は12日まで四連戦。
一位通過はほぼ確定と言っていいだろう。
するとトーナメントは16日に東京ドームで準々決勝を戦うことになる。
その後はアメリカに移動し、20日に準決勝、21日に決勝が行われる。
準決勝で対戦するのは、Cグループの二位通過とDグループの一位通過チームの対戦の勝者。
このCグループとDグループについては、まだ試合が開催されていない。
アメリカにおける試合であるので、移動日のことも考えると日本や韓国のグループより、後から開催しても間に合うのだ。
Cグループはアメリカ、メキシコ、コロンビアが強いと思われる。
特にアメリカは、メジャーリーガーを若手から多く選出してきた。
ただキューバのメジャーリーガーがあまり出場できなかったことで、日本相手に蹂躙されてしまったことを考えると、どれだけメジャーリーガーを召集できたかが、優勝につながってくるか決まるのかもしれない。
選手を出さないことで、アメリカは「まだ本気じゃないよ」というスタイルを貫くつもりだろうか。
WBCで試合を支配する選手が、MLBでも決定的な仕事をするのであれば、ぎりぎりその言い訳は通じるかもしれない。
MLBは金を儲けるために、WBCを開催している。
だが結局のところ、本当の意味でWBCを盛り上げる努力が足りない。
またWBCは確かに金にはなっているが、果たしてアメリカ国内のマーケットを盛り上げているのか。
これまた確かに言えるのは、世界のマーケットは拡大し、放映権料は高騰しているということである。
ただそこでアメリカ代表は、他の国のチームに負けまくっている。
特に最近はやたらと日本が強い。
野球はアメリカの国技であるはずだ。
人気においてはアメフトやバスケの方が、競技人口なども含めて、もう上回っていると言われている。
確かにアメフトのスーパーボールなどは、一時期は完全に、ワールドシリーズの視聴率を上回った。
だがこの数年の、直史と大介の対決という、分かりやすいライバル関係から、両方のリーグが大いに盛り上がり、その価値は高くなっている。
MLBはほとんど毎日試合が行われるのに対し、NFLは圧倒的に試合数が少ない。
これは選手の消耗度合いが、それだけ違うからであるとも言われる。
MLBにしてもピッチャーは、完全に先発はローテーションで回している。
野球はアメフトほど消耗は激しくないが、ピッチャーは別である、ということであろう。
正直なところ上杉は、100球を毎日投げても、いまだに五日連続程度ならさほど疲れない。
もちろんペース配分は必要であるが、そのあたりはまさに鉄人と言える。
もう沢村賞以外に、上杉賞を作らないと、引退するまで他のピッチャーは沢村賞を取れないのではないか。
佐藤兄弟のいない今のNPBでは、それが冗談ではないのである。
上杉は50球に達する前に、三回でマウンドを降りた。
その時点で既に、日本は12点を取っていた。
キューバは強いから、甘く見ずに手を緩めないでおこう。
そんな日本陣営の容赦のなさは、キューバの選手のプライドをポキポキといい音で折っていった。
四回は毒島が登板し、164km/hを投げて「上杉よりは打てるぞ!」などと謎の希望をキューバに与えたり。
もちろんそれは錯覚であり、毒島のクセ球の前には、まともにボールをミートすることも出来なかった。
三人でキューバの攻撃が終わり、さらに四回、日本は三点を追加する。
これでまたも15点差となり、五回の表にキューバが点を入れられなければ、コールドで日本の勝利となる。
こんなこともあろうかと、三回の終わりあたりから、直史はブルペンでピッチングを開始していた。
「佐藤、出番だ」
MLBや神宮と違って、東京ドームはブルペンがバックヤードにある。
NPB時代はアウェイゲームで普通に使っていたものだが、久しぶりとなるとどうも勝手が違う。
ただスタジアム自体の震える響きが、直史にも伝わってきていた。
「行くか」
「ああ」
同時にキャッチャーも樋口に交代。
世界最強のバッテリーが、東京ドームのグラウンドへと姿を現した。
不敗神話。
直史という存在を語る場合、まずこれから語られることになる。
NPBとMLBを通算して、プロ生活でレギュラーシーズン無敗。
古今東西のあらゆるリーグを調べても、そんなピッチャーは存在しない。
空前絶後にして唯一無二。
登場した瞬間、その試合は終わっている。それがクローザー時代の直史であった。
スポーツというのは本来、観客を熱狂させるものであると思う。
もちろんテニスやゴルフのように、選手の集中力を削るのを避けるため、一時的に静かにする場面というのはある。
そういう意味では直史のピッチングは、ゴルフのショットに近いものであるのか。
本人は別にうるさくても、何もこだわらないのであるが。
NPB時代には同僚から、ゴルフに誘われたこともある。
弁護士も付き合いでゴルフをやるとは言われたので、一応は直史もやってみたことはあるのだ。
だがその頃はまだ、真琴が小さかったこともあるし、そもそもゴルフには興味を抱けなかった。
体の使い方にしても、野球とはまた違ったものになる。
よくゴルフスイングなどと、アッパースイングのことを形容したりするが、もちろん根本的に二つのスポーツは違うものだ。
ともかく直史のピッチングは、熱狂よりも静謐さえもたらしてしまうことがある。
味方にとっては安心して見られて、敵にとっては戦意を失う。
それが直史がクローザーをするということだ。
ただしキューバの若手は、それが分かっていなかったらしい。
五回の表、キューバの攻撃。
上杉が内野安打を一つ、毒島がフォアボールを一つ出しただけなので、キューバの打線は六番からとなる。
ここで試合を終わらせてしまえば、なんと九番打者は一度しか打順が回ってこないという悲劇。
だがここまで徹底された悲劇は、もう既に喜劇であろう。
先頭の六番に対して、カーブから入る。
落差が大きいとは言っても、相手は完全にボールの軌道を見失っていた。
次に投げたのは、アウトローへのストレート。
低いと思ったものが、ストライク判定。
そして最後には、ど真ん中にストレート。
バットはボールの下を振っていた。
三球三振である。
三振したバッターが不思議そうな顔をしている。
初球のカーブは上手く見極められなかったし、二球目は低いと判断した。
だが最後のストレートは、確実に捉えたと思ったのに。
ストレートと一言で言っても、そのクセは千差万別だ。
直史の場合は、それに加えてフォームの変化にリリースのタイミング、スピン軸など様々な要素を組み合わせて、バッターに錯覚させるようにしている。
一球ごとにすとれーとさえ違って入れば、まともに打てることもない。
とりあえずこれで、残りは二人。
キューバも残りのバッターに、代々を出してきた。
今更なのかとも思うが、もしホームランで一点でも入れば、五回の裏の日本の攻撃が回ってくる。
少しでも情報を手に入れたいと思うか、経験を積みたいと思うか。
ここで一点ぐらい取られたとしても、裏の攻撃で日本はさらに点を取るだろう。
試合自体はもう、終わったと言ってもいい。
直史は本多の受けたような、妨害がないかを気にしていた。
ただそれでピッチングへの集中力が落ちるということはない。
果たしてあれは中国のやったことなのか、今でも疑問には思っている。
偶然の一度という可能性が、慎重な直史の中でも、判断としては高まっている。
残りの二人を、直史はいつも通りのピッチングで片付ける。
内野ゴロ二つで、球数は30球に全く満たない。
これによって明日も投げられるという条件で、直史は試合を終わらせた。
あまりにも盛り上がりのない、沈黙するような勝利であった。
不思議なことが起こっている。
大会三日目、日本の対戦相手はドイツであった。
日本の先発ピッチャーは小川で、さすがに今のNPBで、一番上杉に近いとまで言われる。素晴らしいストレートを投げている。
対戦相手のドイツは、この大会では有効な待球策を取ってきている。
だが不思議なことは、そちらではない。
日本側の打線が、沈黙している。
いや、ヒットはそれなりに出るし、先制点も取ることが出来た。
しかし昨日までの、圧倒的なバッティングはなくなってしまっているのだ。
スコアは2-0と日本のリードで五回を終える。
そしてここで、小川も交代をする。
交代したピッチャーは、相手の打順も見て、真田が投入される。
(点が入らないな)
ドイツは二日目に初登場し、8-7で中国に勝っていた。
その中国相手に日本は、圧倒的なコールド勝ちをしている。
ならばドイツ相手にも、ある程度は圧勝できていておかしくはない。
だがもっと単純化すれば、ドイツは僅差ではあるが、確実に中国に勝っているのだ。
明日はキューバ、そして明後日はオーストラリアと、比較的格上のチームと対戦することになる。
とても勝てるとは思えなかった。
実際にドイツは、ヨーロッパの中でもそれほど、野球が強い国ではない。
もっともオランダやイタリアが強いのも、一部の旧植民地などが、野球に特化した地域になっているからではあるが。
ドイツと言えば、東西分裂時代は、東ドイツがスポーツでは活躍していたものだ。
もっともその時代は共産主義であったため、限られたスポーツ資源に大きくリソースを割いていたわけだが。
現在でもドイツは、サッカーなどは強豪の国家として知られている。
ワールドカップで日本に負けたこともあるが、それでも世界的に最もスポーツで成功したものの一つが、ドイツのサッカーリーグであったりする。
サッカーに比べれば野球は全く人気がないが、それでも試合らしい試合になっている。
日本の優秀なピッチャーを打つことは出来ない。
それでもさすがに、ノーヒッターに抑えられているわけではないが。
ヒットが出て、連打となっても、ホームランは打たれていない。
そして点を取られても、着実に最少失点で済ませているのだ。
ものすごく戦術的な野球である。
流れというものを感じさせない、スモールベースボールの一種だ。
中国との試合は見たのだが、直接対決すると感じが違う。
そしてある程度運が良ければ、野球はジャストミートされてもアウトになる。
今日の試合は、日本側にかなり運が悪い。
それでもピッチャーの差によって、点を取られてはいない。
直史は昨日投げているので、今日は登板予定はない。
そして樋口も、今日はピッチャーはNPBの選手だけでいく予定である。
「こういう野球もあるんだな」
「やっぱり監督の指針が一貫してないと、選手だけをそろえてもダメなんだな」
直史は中学時代に、何も監督には期待していなかった。
そして高校に入ってからは、異色の監督に出会うことになった。
今のドイツの監督は、アメリカのマイナーチームを普段は率いている。
ドイツ系の監督が、ドイツの指揮を執っているわけだ。
野球の中で反復練習をして、しっかりと成果が出やすいのは守備と走塁である。
ドイツ人の国民性もあるのか、この微細なシフトの調整と、守備の優先順位の徹底が、エラーなしで試合を展開させている。
そう、優先順位である。
とにかく失点をしないことと、失点を増やさないこと。
この単純なロジックは、ドイツの国民性に合っているのだろうか。
もっともドイツ人と、一言でまとめてしまうのも、かなり乱暴ではあるのだろう。
これもまた野球なのだろう。
日本の投手力の絶対的優位を、ドイツは崩すことが出来なかった。
ヒットは単打が数本出たが、そこからチャンスを広げることが出来ない。
ランナー一塁からの送りバントという、今では否定されている戦法も使ってきたが、状況によっては送りバントも正しい。
ドイツの野球は発展途上だ。
そもそもスポーツとして、あまり優先的に選ばれない種目でもある。
ただそれでも与えられた範囲で、最善を尽くそうとしている。
これは昔の日本もそうであったのではないか。
過去に日本人は、MLBに対して、完全に弱者であった。
だが一人の挑戦から成功者が出て、今ではもうどんなポジションでも、日本人が入っても不思議ではない。
さすがに今の、投打の頂点が日本人というのは、一時的なものであろう。
日本人だからではない、その選手が優れているから、頂点を極めることが出来る。
人種も国籍もなく、これが真実である。
試合の展開は結局、最後までドイツに流れが渡ることはなかった。
日本も追加点は入れたのだが、ホームランは一本も出ていない。
中国にキューバと、圧倒的な点差で勝ってきたところで、グループ最弱ではないかともいえるドイツ相手に、この試合展開。
ピッチャーと守備の方はともかく、打撃においては驕りがなかったか。
キューバ戦では一点を取るために、送りバントなども使った。
だがドイツ相手にはイケイケ攻勢で、かなり雑な攻撃になっていたとも思える。
総合的な戦力を見れば、明らかにキューバの方が上であったはずだ。
ただキューバもキューバで、日本の強さを分かっていながらも、大味な試合をやっていたとしか思えない。
見ている方は点がぽんぽんと入って楽しかったかもしれないが、やっている方としては反省が多かった。
キューバに対しては、どうしてあんな場面でバントを、と精神的にも揺さぶっていった。
だがドイツに対しては上から目線で、完全にフルスイングの攻撃をしていたではないか。
別にそれ自体は悪くはないのだ。
打てると思ったら、打てばいい。それは正しい。
だがドイツ相手に、苦戦というわけではないが、正面から完全に叩き潰すことが出来なかった。
ピッチャーの実力で、相手を封じることは出来た。
だが9イニングを勝負して、得点は五点。
もしも相手も得点していれば、日本チームも焦りが出ていたかもしれない。
実際に試合後のミーティングでは、勝ったにも関わらず厳しい表情の選手が多かった。
負けた試合からは得るものがある。
ただ勝った試合からでも、何かを得るべきであろう。
どうして勝てたのかには、かなり偶然の要素がある。
しかしこの試合については、偶然が大きく悪い方向に働いていた。
ホームランが一本も出なかったことは、ドイツの研究の成果であろうか。
長打は普通に出ていたのだが。
「結局、ドイツが頑張って研究したってことか」
「それで互角とまではいかなくても、かなりのいい試合をしたんだからなあ」
ただ日本チームにとっては、この結果は良かったと思う。
中国はともかく、強豪と思われていたキューバにも快勝し、慢心があったとは思う。
もちろんそんなものがあってもなくても、直史のピッチングは変わらなかっただろうが。
残るオーストラリア戦と、そして第二ラウンドのトーナメント戦。
日本は何をやっても勝てるような、圧倒的な強者などではない。
もう一度戦術などを、改めて考えるべきであろう。
高校時代も練習試合など、相手が弱いチームであっても、容赦なく大量に点を取っていったものだ。
基本的に全力でもって、相手を叩き潰す。
それを常に意識していないと、強い相手と対戦したとき、全力が出せない弊害があったりする。
もちろんこの全力というのは、単純にパワー任せの勝負という意味ではない。
もっと戦術や作戦、そして一つ一つのプレイのレベルから、相手を全ての分野で圧倒するというものだ。
油断厳禁という教訓を、勝利した試合から得ることが出来た。
これが一番、日本チームにとっての財産となっただろう。
そもそもWBCなど、第一回大会から、大本命のアメリカがチーム編成をミスしたため、決勝にも残れなかったという過去があるではないか。
それがなくても野球というのは、偶然性の高いスポーツである。
野球には絶対はない。
絶対的なエースを持つ日本が、そう考えること。
それこそがまさに、絶対に近づく最良の手段であるだろう。
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