第2話 オフの季節

 昨年、直史がメトロズでワールドシリーズを制した後、どのチームに行くのかはとても注目されていた。

 基本的に三年で引退、ということを知っている人間は少なかったからだ。

 ただ知っていた人間は、逆に驚いたものである。

 理由を聞いて、遠い目で納得したりもしたものだが。


 大介は不敵に笑って、それを見つめるツインズはご馳走を作った。

 武史は「年金」の単語に絶句した。

 樋口は普通に、これでアナハイムはあと二年は戦える、と思ったのみである。

 そして延長戦の一年目が終わり、WBCの話がやってきたわけである。

「出たくないなあ……」

 武史は即答を避けたものの、ソファに寝転がってそう呻いた。

「どうして?」

 恵美理は話を聞いて、優雅に紅茶を淹れながら、素直にそう思った。

「日本代表のあの空気、俺あんまり得意じゃないんだよね」

 基本的に武史は野球の星の人間ではない。

 そのあたりは他の日本人なら、蓮池も似ているのかもしれない。


 ただそんなことより、もっと簡単な理由がある。

「俺一人いなくても、普通に優勝できそうだし」

 別にすねているわけでもなく、心の底からそう思う。

 上杉はおそらく出るだろう。日本代表という名前の下に、あの男が出ないはずがない。

 他に兄である直史なども、そういった看板を背負って投げるのは大好きである。

 あとは今回の大会からの、変更された部分なども、日本のピッチャー有利に働いている。


 結局のところ直史は、魂の根底から、日本人であるという意識が強いのだ。

 もちろんアナハイムにはある程度の愛着はあるだろうし、メトロズにいた時代もわずかではあるが、信者を洗脳していった。

 だが心の底から、応援されて嬉しかったのは、やはり高校時代が一番であったとも言っていた。

 対して武史は、確かに応援の声援を受けて投げるのに、意気に感じないわけではない。

 それでも野球というスポーツは、武史の人格を構成する要素の中では、かなり重点がかかっていないものなのだ。


 武史がMLBに移籍してからも、NPBには新たな才能が出現している。

 またあの頃はまだ若輩であった選手が、今では主力となったりもしている。

 気はまだ若いつもりであるが、武史ももう31歳になっている。

 日本代表の主力ならば、やはり20代の半ば頃の、成長曲線が一番はっきりしている選手が出るべきではないか。

 今後の日本代表を考えれば、若手に機会は譲るべきだろう。

 もちろんどうしても、と言われれば出ないでもないが、メトロズからは他に、大介は絶対に呼ばれているだろう。

 大介はおそらく、どうにかして出場しようとするに違いない。

 武史もそれなりに頑健ではあるが、大介は怪我をしにくい体質であるし、治癒速度が常人の数倍だ。疲労からの回復も早い。

 しかし大介が出て、武史も出すというのは、さすがにチームが渋ると思うのだ。


 NPBの選手は比較的、WBCに出場することを、名誉として優勝を狙いにいく。

 だがアメリカの場合は、リターンよりもリスクの方が高すぎるのだ。

 それは故障のリスクなどではなく、価値やブランドへのリスクである。

 そう言われても日本人には分かりにくいだろうが、野球において世界最高の年俸を得ているメジャーリーガー。

 なのにそれを集めてアメリカ代表を作っても、優勝がなかなか出来ない。


 最多優勝をしている日本に次ぐ、二番目の優勝数ではあるのだが、その差は歴然。

 とにかく短期決戦で、しかもトーナメントであれば、圧倒的に日本が強いというのは、世界でも常識になりつつある。

 これはなんだかんだと批判も多いが、甲子園とそこに至る地方大会で、トーナメント戦に慣れているからと言えるだろう。

 一試合にかける集中力と、スモールベースボールの戦術で、日本は世界一になる。

 アメリカなど決勝をずっと本土で行っているのに、まだ二度しか優勝がない。

 選手たちの背中を叩いて送り出すのと、渋い顔で出場させないのでは、前提からして士気が違うだろう。


 恵美理は少し困った顔をして、大会の概要を見ていく。

 彼女の気持ちを極めて単純に言うなら「うちの旦那のかっこいいとこ見てみたい」となる。

 タッチパネルを操作して、そう簡単なものでもないと思うのだ。

「けれど球数制限、かなり厳しそうだから、ピッチャーは何人いてもいいと思うけど」

 文句を言う割りに詳しく見ていなかった武史は、改めて確認する。

 なるほど確かに、ピッチャーの球数制限が厳しい。


 ・30球以上の投球:中一日の休み

 ・50球以上の投球:中四日の休み

 ・85球以上の投球:禁止


 なるほど、この条件においては、一人で一試合を投げきることは、ほぼ不可能だろう。

 一人の例外を除いて。

 ただしそのたった一人の例外には、クローザーをやってもらった方がいい気がする。

「う~ん……」

 武史にとっては50球などというのは、まだようやく肩が暖まった程度である。

 このルールにおいてはやはり、武史の能力を完全に発揮するには難しい。


 全く出たくない、というわけでもないのだ。

 だがそれでも、ルール自体が武史に向いていない。

「う~ん……」

 煮え切らない武史が決断するのは、もう少し後のことである。




 最終的な30人ロースターが決まるのは、来年の二月に入ってからである。

 だがその前の段階の50人のリストアップは、既に終わっている。

 それに従って、NPBは選手たちに声をかける。

 故障している選手などは別だが、基本的には実力順だ。

 メジャーの選手に関しては、チームの意向で出られないことがあるので、早めに話を通していかないといけない。

 ポストシーズンが終わってすぐに、あるいはポストシーズンで出られなければレギュラーシーズン後に、話は通っている。


 そんな中で意外だな、と思っているのは織田であった。

 前回のWBCでは織田は、球団の要請によって出場を辞退している。

 だが今回ダメ元で聞いてみたところ、許可が下りたのだ。

 織田が活躍することによって、宣伝効果があるだろうという話である。

 しかしそのためには、スタメンに選ばれないといけない。

 そう思って出場予定の選手を見ると、確かに外野でセンターを専門にやる選手、というのは他に一人ぐらいしかいない。


 ちなみに他の日本人メジャーリーガーであると、井口は難しいらしい。

 同じ地区なので、そこそこ接点のある蓮池は、既に不参加を表明している。

 彼は元々帰国子女で、日本への帰属意識が薄かったからだとも言われている。


 他にはやはり、本多は出場できそうとのこと。

 WBC本選で使われるトロールスタジアムの本拠地とするのがトローリーズであるので、そのトローリーズの選手が出場するのを止めるというのが、なんでも難しかったらしい。

 織田の後にも多くの日本人が海を渡ってきたものだが、失敗して日本に帰国している者も多い。

 シアトルは織田が、活躍するなら出てもいいよ、というスタンスである。

 ならば他に外野手で誰が出るのか、それが判明してから決めてもいいだろう。


 ロースター30人のうち、ピッチャーを14人以上、キャッチャーを二人以上というのは、編成の上で決まっている。

 念のためにキャッチャーは、三人、もしくはキャッチャーも出来るDHを入れてておくべきだろう。

 ピッチャーはおおよそ決まっていく。

 アメリカではそれほど感じなかったものであるが、直史が日本に戻ってきた時は、日本ではかなり選出のメンバーが盛り上っていた。


 WBCは現在の野球の国際大会としては、最大のものである。

 オリンピックから野球が除外された今、参加国の数からしても、一番価値があるものだと言えるだろう。

 だが温度差というものがある。

 アメリカはあれだけMLBが盛り上げようと思っても、世間の認知度はワールドシリーズの方が高い。

 割と近い時期にNFLのスーパーボールがあるし、NHLはレギュラーシーズンの終盤である。

 MLBに興味のある人間としては、むしろスプリングトレーニングに関心が向く。

 自国のリーグの方が世界大会より大切という、アメリカならではの意識が大きいのもあるだろう。


 ただ結局アメリカで微妙なのは、なかなか優勝出来ないからではないのか。

 ぶっちゃけてしまえば、短期決戦では日本相手にもそうだが、韓国などにも負けている。

 そのあたりがアメリカでは人気にならない理由となるだろうか。

 移民の国アメリカでは、国への帰属意識より、居住している場所への愛着の方が高いのかもしれない。

 日本人が高いパーセンテージを誇る日本とは、やはり違うものなのか。


 直史はわずかながらマスコミに対しては答えた。

「出場するか否かはきまっていないけれど、チームから出場しても問題ないという返答はもらっている」

 これだけ言って、自身の意思は言わないのである。

 さらなる取材攻勢をしたいマスコミであるが、直史を相手に下手に密着すると、法的措置を取られる可能性がある。

 ファンとしてはもどかしいながら、直史としても決めるのは他のメンバーを見てからでもいい。


 そもそも他の国の代表が、フルメンバーで出てくるのかどうか、そこが気になるところだ。

 また今回はルール変更があって、今まで選出されていないピッチャーが出る可能性が高くなっている。

 それは試合球の変更というものである。


 これまでのボールは、MLBにおいて使われている公式球を、そのまま使用してきた。

 MLBが主体となって開催しているので、当たり前のように思われていた。

 ただMLBのボールはNPBや他の国のリーグに比べて、大きくて重くて大雑把な作りであることが多い。

 そのためピッチャーの故障予防のためにも、特別に今回はNPBなどのチェックを受けて、二重の基準で合格したボールを使うというものである。

 元々MLBのボールは滑りやすいとは、MLBのピッチャーからも言われていたことなのだ。

 それがようやく改善の傾向が見られたため、これまでは適性がないと思われていたピッチャーも、選出の対象となったのである。


 これによって最大の恩恵を得たと言われるのが、ライガースのエース真田である。

 よく分かっていないファンからは、どうしてWBCに真田は選ばれないのだろう、と散々に言われていた。

 日本が優勝できなかった大会などでは、だから真田を入れておけば、と何度も言われたものである。

 しかし今回、この使用される公式球の変更で、真田の適性が試される。

 元々中学時代には、シニアの世界大会で優勝している真田である。

 その大会で使われているボールは、MLBの公式球ではなかった。




 日本に戻ってきた直史は、今回のWBCにおいて、出場するかどうかを迫られる。

 実力、実績共に、最強のピッチャーではある。

 だが直史としては、このタイミングのWBCというのは、あまり都合が良くないなとも思っている。

「WBCに合わせてコンディションを調整すると、シーズン開幕あたりで、調子を落とすと思うんだよな」

 いや、お前は大丈夫だろう。


 過去にWBCではないが、ワールドカップのU-18でのみ、日本がなかなか優勝できなかった理由。

 U-15などの他の年代では、ちゃんと優勝出来ていた理由。

 それは開催の時期が、甲子園の直後にあったというそれが、最大のものだと言える。

 高校生の最大の目標は、甲子園である。

 そこで一つでも多く勝ち抜き、頂点を目指すことを、高校球児は考えている。


 その後に行われる国体などは、おまけに過ぎない。

 また秋の大会もすぐに始まるため、二年生を出すのも難しい。

 高校最後の三年目、燃え尽きた三年生という、メンタル的にもフィジカル的にも、最悪なコンディションの選手を集めたため、優勝できなかったのだ。

 WBCに関しては、間違いなくコンディションのピークを、決勝に向けて整えていかなければいけない。

 また第二ラウンドはトーナメントのため、一度でも負けたらそこで敗退と、どの試合も力を抜くのが難しい。

 序盤からしっかりリードして、隙なく勝たなければいけない。

 第一ラウンドのリーグ戦にしても、あまり油断出来るようなものではない。

 それでも日本であれば、油断さえしなければ、問題なく勝てるであろうが。


 今回の大会においても、第一ラウンドは5チームによるリーグ戦であり、その上位2チームが決勝トーナメントの第二ラウンドに進める。

 第一ラウンドは日本、韓国、アメリカのマイアミとカリフォルニア、四つの区分で行われる。

 日本では準々決勝も一試合行われ、準決勝と決勝は舞台はアメリカとなる。

 日程的には甲子園に比べればマシ、というあたりが逆説的に甲子園の過酷さを証明する。

 既に直史は何度も国際大会に出ているし、アメリカでも長距離の移動と連戦には慣れている。

 だがトーナメント戦というのは、やはり勝手が違うのだ。


 来年のシーズン、直史はそれで現役を引退する。

 その最後のシーズンを前に、故障や不調の原因となりそうな大会に参加する。

 自分一人のことを考えれば、不参加が妥当である。

 ただMLBのポストシーズンとWBC、どちらが直史にとって魅力的かと言うと、WBCであるのだ。


 純粋に、日本という国の威信を背負って、他国との対決を行う。

 MLBのポストシーズンも、レベルの高さという意味では、WBCのおおよその試合よりはよほど高い。

 韓国、キューバ、台湾、メキシコといったあたりの国も強いことは強いが、MLBにはおおよそその上澄みが集結している。

 それに他の国には、大介はいない。

 もっともアメリカは、ターナーがまず出てくる。

 そしてブリアンも参加に意欲的だとは、まだアメリカにいる間に聞いていた。


 正直なところ直史が、国際的な試合において、一番苦しかったかなと思えるのは、レックス時代に行った、メトロズとの親善試合である。

 あれは相手に大介がいたということもあるが、かなり打線が揃っていた。

 もしもWBCでアメリカが、本当にドリームチームを組めるなら、確かにミネソタなどよりも、よほど恐ろしい打線となるだろう。

 そういったチームを相手に戦うというなら、それはさすがに面白そうであるのだが。


 他の国のチームについても、微妙なところはある。

 たとえばキューバなどは、政治的な問題から、出られる選手が限られたりする。

 アメリカ代表といっても、他の国籍の選手は、自国の代表として出てくる可能性が高い。

 するとオールMLBチームほどの強さは、とても見込めない。

 そもそも直史や大介が入っていない時点で、オールMLBチームではなくなっているわけだが。


 ただそれを別にしても、最後に日本代表として、もう一度戦いたいかな、という気持ちはある。

 上杉はMLBでのたった一年で、巨大な足跡を残した。

 そんな上杉と、また同じチームで戦うというのは、随分と久しぶりのことである。

 お祭り騒ぎではあるが、同時に真剣勝負でもある。

 野球大国日本が、本当に世界一を現実的に狙える大会。 

 出るか否か、それが問題だ。




 そんな直史に対して、NPBのお偉いさんが実家を訪れたのは、12月に入ってからのこと。

 MLBのチームの選手である直史とは、球団を通して簡単に話す、という手段は取れないのだ。

 なおこの時点で、大介や武史は、まだ日本に帰国していない。

 あちらの家族はオフシーズン、ようやく父親を交えて、アメリカのニューヨークを堪能するのである。


 直史は実家の中でも、祖父母の家の方で、こちらの使者を迎えることとなった。

 広い和室の中、上座に座るのもなんだかな、と思ったので祖父にそこは座ってもらう。

 左右に分かれて、直史と使者は対峙する。

「また、クローザーをしてもらえんかな?」

 今回の日本代表の監督は、直史は別に恩はないが、名前も顔もしっかりと記憶している人物であった。

 上杉を擁して、何度も日本一を経験した、スターズの元監督別所。

 彼が今回の日本代表を率いる、貧乏くじを引かされた人間であった。

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