2 Petrichor/雨上がり

2 Petrichor/雨上がり


結菜が薄い瞼を開くとそこは自分の家ではなかった。身体を起こし、周囲を見渡す。彼女の記憶が呼び起こされ、自分が今どこにいるのかを思い出させた。机には一枚の置き手紙が置かれていた。


『おはよう。よく眠れた? 少し出かけてくるから机の上にあるおにぎりでも食べておいて』


それはカフカからだった。視線をずらすとおにぎりが二個、皿の上に置かれていた。結菜はそれを手に取り頬張った。すっかり冷めていたが美味しかった。

ふと結菜は自分が泣いていることに気づいた。急いで服の袖で涙を拭き取った。二個とも食べ終わると玄関のドアが開いた。足音がどんどんと近づいてくる。そこには服だけが浮いていた。


「結菜」


結菜はその一言を発した。ペンが動き出した。


『教えてくれてありがとう』


それは文字だけだったが優しさがこもった字だった。


「カフカ、私もう行くね。帰らないと」

『わかった。いつでも来ていいからね』


カフカは結菜が少し震えているようにも見えた。そんな背中を見送った。



 カフカが家に帰ろうとすると結菜が彼女の部屋の前に座っていることが月に数十回もあった。その度にカフカは彼女を部屋に招いた。そのうち休日にカフカの部屋に来るようになった。来るたびに笑顔が増えたが決まって十六時には家に戻っていた。父親が帰ってくるからということらしい。その日は午前十一時ほどに来ていた。部屋に入った結菜はスマホで何かを見ていた。ここ十分ほど同じ画面を見続けている。


『さっきから何見てるの?』


ノートが結菜の視線に入った。


「今度公開される映画。昔見に行ったことがあるの。その続編。昔お父さんと見に行ったときはすごく面白かった。北イタリアの避暑地での恋物語なんだけど、すごく美しかった。すべてが綺麗だったの。恋や景色や雰囲気やすべてが。私もいつか行ってみたい。住んでみたいの」


目を輝かせながら言う結菜だが言い終わると悲しそうに目線を下に落とした。カフカは彼女の異変にいち早く気がついた。


『どうしたの?』


結菜の胸がキュッと閉まる感覚がした。息が上がり始めたがそれを抑えようと息を深く吸う。


『ごめんね。嫌だったら話さなくてもいいからね』


それは走り書きだった。結菜の呼吸が段々と落ち着き始めた。彼になら……それが彼女に出た答えだった。結菜は息を深く吸い言った。それは震えた声だった。


「ううん。話す。私ね、なんていうか、虐待されてるの。虐待っていうのかはわかんない。私が叱られているだけかも。私のお父さん十二年前に死んじゃったの。事故だった。雪が降ってた夜にスリップした車がお父さんに突っ込んで、そのまま死んじゃったの。私とお母さんを残して」


彼女の震え始める手を見えない何かが包み込む感覚を感じた。それは暖かかった。彼女は安心感を覚えながら続きを話し始めた。


「そこからお母さんはおかしくなり始めた。毎日泣いてお酒を飲んで、ご飯も作らなくなっちゃった。夜は帰ってこない日が増えて、朝起きたら知らない男の人が家で寝てたりもした。それが幼い私にどれだけのトラウマを植え付けたかあの人はわかってない。

そしたら二年前お母さんがニコニコしながら家に帰ってきた。後ろには知らない男の人がいたの。お母さんは、この人があなたの新しいお父さんよって言った。

その男の人は私に優しく話しかけてくれた。穏やかな口調で優しく。あぁ、私が我慢してたのが神様に届いてきっと幸せをくれたんだって思った。でもそれは違った。神様なんていなかった。

結婚して数週間でその男は本性を表し始めた。お酒がなければ私を殴り、仕事から帰ってきてご飯が用意されてなかったら怒鳴るの。お母さんも殴られた。私たちは怯えて生活してた。警察にも行った。でも対応してくれなかった。

そんなときお母さんが死んだ。体調が悪かったの少し前から、でもあの男は仮病って言って病院へ行かせてくれなかった。どんどん悪化していくからあの男がいない隙を見計らって病院に行ったの。だけどその途中で倒れて、私が病院に行った時はもう死んでた。あの人私を残して死んだのよ!」


結菜の声が荒々しくなった。その瞳からは涙が流れ、ボヤけて何も見えない。ただ強く手が握られるのを感じた。だがそこには自分の手しかない。結菜は続けて言った。


「家には私とあの男だけになった。私は家のこと全てをしてた。高校にもろくに行けないし。就職もできない。私は一生あの家であの男の奴隷として働くの。

私が少しでもミスをすれば殴られ、怒鳴られ、外に追い出された。もう死にたい。私なんて存在してる意味もない。資格もない。もういやだ」


強く身体が引き寄せられた。宙に浮いた服が彼女を覆った。全てが暖かかった。温もりを感じた。優しさを感じた。彼女の瞳からさらに涙が出てくる。

彼女は声が出る限り泣いた。そこには彼女一人ではなかった。彼女が感じることのできなかった人の温もりがそこにはあった。カフカは優しかった。彼女は彼に大丈夫、大丈夫。と言われてるような感覚だった。


「死んだお父さんと行った映画は楽しかった。ポップコーン買ってくれて暗い映画館で見るのがすごくすごく楽しかった」


カフカが強く抱きしめた。

 


 気がつくと太陽は落ちかけていた。オレンジ色の光が部屋の中を照らし、反射する光は眩しさを感じた。それに気づくと結菜はカフカのあるはずもない顔を眺めた。

彼女には見えた気がした。そこには存在するのかしないのかさえわからないカフカの顔が。カフカはノートを手に取り書き始めた。


『今度その映画を二人で見に行こう』

「うん」


結菜は自然と笑顔になった。その笑顔をカフカに見せるとカフカも笑っているような気がした。

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