第9話 川で会った老婆

 八神は久し振りに鬼ノ子川へ釣りに出掛けた。期待に反して一向にしっくり来ない集落の暮らしに気疲れが出たのか、今朝は30分寝過ごしてしまった。目覚ましは鳴ったはずだが気付かずに、寧ろ静けさで飛び起きた。川には既に先客がいた。笹島とは後ろ姿がどことなく違う。一瞬嫌な予感がしたが八神は思い切って声を掛けた。

「釣れますか?」

 振り返った釣り人は八神の予測とは大きく外れてホッとした。見知らぬ老婆の探るような目は徳蔵とはまた違った威圧感がある。

「あんたは?」

「最近こちらに移住して来ました八神と申します」

「そうかい」

 老婆はそのまま釣に戻った。時間が経っても老婆に釣れている気配はないが、八神も今朝は全く駄目だった。30分の遅れは痛い。魚たちの朝の餌時はとっくに過ぎた。仕方なく午前の釣はあきらめて昼食にすることにした。木々の葉が覆い被さる川原でいつものように俄か竈を作り、味噌汁の湯を沸かして、笹島に教わった“きりたんぽの甘味噌焼き”を出した。いつの間にか横に立っている老婆に驚いた。細い枝に吊るした三匹のイワナをぶら下げていた

「おめも喰うが?」

「はい!?」

「イワナ焼いて喰うが?」

 八神は老婆の言ってる意味がやっと分かった。

「あ…釣れたんですか !?」

「釣りに来たんだもの、釣れるべ」

「あ…そうですね。私は釣れなかったもんで…」

「この川には重役出勤に釣られる魚はいねえ。したら、そこで焼いて一緒に喰うべ」

 老婆は串に刺したイワナを炙るべく、手際よく竈の周りに串を立てた。

「いつ移住して来た?」

「まだそれほど経たないです」

「何れあんたも嫌気がさして出て行くのかな?」

「いや、そんな…」

「みんな出て行く。残れば残るだけ悲惨な目に遭うからな」

 老婆は恐らく移住者の新庄要のこととかを言っているように八神には思えた。

「みんな徳蔵のせいだ」

「徳蔵さんって…あの…この村の…」

 八神はそれ以上どう言っていいか分からなくなった。

「あの男の所為でこの村は散々だ。早ぐ死んでければえんどもな」

 この老婆は歯に衣着せぬタイプのようだ。随分危ない発言をさらっと言う。しかし八神は至極好感が持てた。

「おばあちゃんは…いや…奥さんは…」

「私は吉田きぬだ」

「あ、どうも“ 吉田さんもよく釣りに来られるんですか?」

「これといったおかずがねえ時、たまにな」

「知らない間にイワナを三匹も…さすが地元の方ですよね」

「この村の昔話を知ってるか?」

「昔話 !?」

「この村は阿仁殿あにどのつってな、北秋田市一帯の豪族の“たつこ”っていう娘の婿が開拓した村なんだよ」

「そうなんですか!」

「だから地名の頭に阿仁が付いてんだ。百姓だけでは喰っていけないんで熊狩りをして、肉は勿論だども、需要のある毛皮やらきもを行商で物々交換とか金に替えたんだな」

「阿仁マタギの熊狩りですよね」

「んだな…この土地では熊のことを“イタヂ”って言うんだ。魚が焼けたみでだな。喰え」

「いただきます!」

「そのきりたんぽも少し焼げばええべ」

「あ、そうですよね!」

 八神は焼けたイワナを抜いた枝に、きりたんぽを差し替えて竈の火に立てた。

「吉田さんは…ご飯は?」

「この魚で充分だ」

「そうですか…でも、きりたんぽ、どうです?」

「したら、貰うべ」

 吉田は屈託なく炙ったばかりのきりたんぽに齧り付いた。

「あ、それはまだ炙ったばかりで…」

「なに、腹に入れば一緒だ」

 八神はこの老婆と居ると不思議に心が安らいでいった。このところ、嫌なことばかりが続いた。同じ移住者に起こる災厄は自分のことのように胸が締め付けられる。夢を懐いて移住して来たばかりなのに、早一ヶ月足らずで限り無い不安に襲われていた。

「これがら、どういうごどが起ごるが…心配だべ」

 老婆には見透かされている。余りのストライクな老婆の言葉に八神は思わず咳き込んだ。

「あんたはこれから、村の作業の奴隷にされるんだ」

「奴隷 !?」

「んだ、奴隷だ。奴隷の労役だ」

 それでなくても移住の後悔が地底から顔を覗かせているというのに、奴隷とはショッキングな予言だ。

「この集落には金がない。あんたら移住者の税金も思ったように集まらない。だがら、あんたらは労役でその穴埋めをさせられることになるんだ」

「…どんなことをさせられるんでしょう?」

「ありとあらゆることだ。要するに強制労働の小間使いだ」

「小間使い…」

「山に入って間伐作業とかキノコ狩りもさせられる。取って来た山菜を売らされる。道の駅に来る観光客の駐車場の管理とか、消防団員になって防火当番もさせられるな」

 八神は昼食を食べ終わって腹いっぱいになったが、老婆の話してくれたこの先の不安でも腹いっぱいになって吐きそうになった。確かに収益の少ない村は、村民総出で道普請から、山の恵み、そして自然災害や火災などに対する自主防衛は必要不可欠となろう。そのための共同作業に移住者だけが無関心で居られるわけはない。吉田きぬの言うとおり、村人の一員となった以上、村の共同作業には従事する義務がある。しかし、新参者の移住者の扱いが老婆の言うとおりだとすれば、新天地に描いていた夢の生活は崩れ去ることになる。

「帰りてぐなったべ」

「というか…私に務まるかなと…」

「そんだな。こごを去って行った者はみんな務まらねがった」

「・・・」

「こごに移住してくる者はみんな風景にばり気を取られで、こごにどんな人間が住んでるがなんて考えねがったべものな」

「田舎はいい人ばかりが住んでいるという前提で…」

「田舎も都会も同じだ。いろんな人が住んでるべ。田舎だけいい人が住んでるっていうのは、あんたらの勝手な妄想でねが?」

「…確かに、ここに住んでいる人たちのことは深く考えませんでした」

「あんたらは外れくじを引いたんだよ、徳蔵がいるお蔭で。この村は、昔からこうだったわけではねえども、今更な」

 今更どうすればいいのだろう…八神は、笹島が言っていた言葉をいろいろ思い出していた。“(都会の住まいを)絶対に手放してはいけません!”、“それに住民票も異動してはいけません”、“一年も暮らせばすぐに分かります”・・・特にこの3つの忠告に強い衝撃を受けたことを覚えている。

 今、老婆の言葉にも衝撃を受けた。しかし、この温かさは何だろう。老婆のキツいとも思える言葉には全く険が感じられない。老婆の言葉で先行きへの不安は充満したが、つらい気持ちではなかった。

「あんた、午後からも釣るかい?」

「はい、勿論! まだ一匹も釣れてないし、今日は仕事も休みですから」

「そうかい。したら、年寄りは先に帰らしてもらうよ。これがら昼寝なもんでな」

「そうですか、イワナ、ごちそうさまでした! あ、でも肝心のおかずが…」

「ここで喰ったがら…」

 帰り掛けた老婆は言葉を止めて振り返った。

「午後から雨かもしんねえな…あんたが村さ残ってたらまた会うべ」

「はい、宜しくお願いします!」

 老婆は足腰気丈に去って行った。吉田きぬは吉田翔の年老いた母である。翔は役場の村づくり振興室長として移住者対策の任を任されていたが、俵徳蔵の存在が移住者対策の妨げとなっていた。翔は小笠原前村長の考え方に賛同していたが、今は徳蔵の息の掛かった加藤に阻まれて身動きが取れなくなっていた。母のきぬは翔の相談相手となって彼の逸る気持ちを押さえていた。

「翔、焦ってはならね。その時は必ず来るんて焦ってはならね」

これがきぬの口癖だった。


 午後の釣りを始めて少しすると、ぽつぽつ雨が落ちて来た。老婆の天気予報どおりたった。そう言えば…と、崖を見上げた。午前中は僅かにしっとりと湿っていた“雨降り様”の岩肌から水が沁み出していた。老婆はあの崖を見て言ったのか…などと考えているうちに、見る見るどしゃ降りとなった。こころなしか川の流れも速くなって油断すると足を取られそうになる勢いだ。釣りを切り上げて早々に川を後にした。斜面に覆い被さる木々を抜けると、既に雨は上がっていた。ここは盆地といえども山村の集落である。変わり易い天気には慣れるしかないと、川に戻りたい気持ちを抑えて八神は家路に着いた。向かう先に見覚えのある姿があった。さっき別れたばかりの老婆・吉田きぬである。きぬは役場の職員である村田恒夫と見知らぬ女性の前で何か不穏な雰囲気を醸していた。きぬはすぐに八神に気付いて声を掛けて来た。

「おや、あんたも帰りかい?」

「ええ、急に雨が降って来たもんで…」

「これからは “雨降り様” を見て早めに行動することだね。油断したら流されるよ」

「はい!」

「紹介するかね。副村長の村田恒夫さんと、うちの嫁の和乃だよ」

 見知らぬ女性は吉田翔の妻・和乃だった。

「ふたりが何でここにいると思う、八神さん?」

「偶然会ったとかですか?」

「ふたりが深刻に話してるんで傍まで行ったんだけど、全然こっちに気付かないんだよ。それでふたりの話が聞こえちまってね」

「そうでしたか」

「どんな話だったか聞きたいかね」

「きぬさん、そういうことは移住者の方には…」

「息子の翔が知ったら悲しむね、和乃さん」

 和乃の真に迫った表情で八神にも凡その見当がついた。

「八神さん、あんたの奥さんが知らぬ間に他の男と出来てたらどうするかね?」

「きぬさん!」

 村田はきぬの言葉を止めようと気が気ではない様子だった。

「しかも相手は副村長だよ。和乃さん、翔のことで脅されでもしたのかい? それとも、あんたはただの下のだらしない女だったのかい?」

「きぬさん、関係ないこの人の前で何もそこまで…」

「どうせ明日になれば村中が知ることだよ。今更体裁ぶることもなかろう、色男の村田さん。確かあんたの女房の郁子は加藤村長の姪だったね。村長はあんたがお気に入りだ。また助けてくれるかね。ただ、郁子は気性が荒い女だからね」

「兎に角、今日はこのぐらいにしてもらえんでしょうか?」

「和乃さん、あんた、翔にどう説明するつもりなんだい? それより、あの郁子に殺されるかもしれないから気を付けないとね。どうでもいいけど私ら親子を巻き込まないでおくれ」

 そういうと、きぬは八神に笑顔で会釈してその場を去って行った。和乃は泣き崩れた。村田はぎこちなく八神に寄って来た。

「私たちの関係はそういう…本当に何もないんです! 出来ましたら…ここであったことは…」

「移住したばかりの私に言われても無理ですよ。さっき、きぬさんが仰ってたじゃないですか。明日になれば村中が知ることになるって。ここはそういう村なんでしょ? それは副村長さんのあなたが一番よくご存じのことじゃないですか?」

 小心な村田は震え出した。気性の激しい郁子を恐れたからではない。ムラ社会の噂は死刑執行の如き重さがある。

「和乃さん…きぬさんにはちゃんとお話しなさった方がいいと思いますよ」

八神はそう言うと一礼してその場を去った。和乃も気怠く立ち上がり、村田に一礼してその場を去った。

 村田は肩を落として、その場に呆然と立ち尽くすしかなかった。またポツポツ雨が降り出した。頭の垂れた稲田は稲架はさ掛けを待っている。盆地を囲む風光明媚な山々も濃く色付き始めていた。

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