第4話 移住者(笹島文雄)
八神は川に向かった。鬼ノ子川は遠方から釣客が泊り掛けでやって来るほどの人気の釣場だった。八神の移住はこの鬼ノ子川の存在で決まったようなものだ。移住地を探している頃、たまたまこの地を訪れ、遊漁券付きの宿に泊まった八神は、この川に足を踏み入れた。
今以上に限界集落の途にあった鬼ノ子村は、東日本大震災で火葬場の需要が激増する中、当時の村長は住民の反対を押し切り、川に火葬船を浮かべた。そのことによって村は、火葬を待つ被災者の需要が急激に増え、寺や道の駅を基点に集落が息を吹き返した経緯がある。そのことから、別名・火葬船村ともいわれるようになった。火葬船が浮かぶようになり、需要が増えるに従って鬼ノ子川での釣りが禁忌とされるようになった時期もある。しかし、火葬船によって川の衛生管理が厳しくなり、川に生活水やゴミを捨てる住民もいなくなり、水質はこれまで以上に美しいことが知れると、次第に釣り客が増え始めた。
八神が移住地を探して訪れたのは、そうした “火葬景気” も減速し出し、禁忌とされた鬼ノ子川に釣り客が戻り始めた頃である。八神は村に一件しかない宿の温かなもてなしにすっかり癒された。早朝に目覚めると窓の向こうに広がる山々の谷間に雲が這っていた。八神はその景色に魅了されてここに住もうと移住を決めた。
役所の手続きを済ませた八神には、もうひとつ大切なことがあった。遊漁券の年券を手に入れることだ。普通、発券は漁協か釣具店だが、この集落では一軒だけある精肉店で扱っていた。そんなことは知る由もなかったが、以前に宿泊した宿の女将さんから聞いていた。精肉店というと牛や豚、鶏の販売と思うが、この地では馬肉や、熊、猪、鹿、ウサギといったジビエ系を普通に扱っていた。そうした土地の味覚にも心魅かれるが、移住して来たからにはいくらでも堪能する時間はある。兎に角、明朝の川釣りが第一目標なのだ。
翌朝、八神は早速、川に向かった。釣り場に辿り着くと既に来ている先客が居た。滝壺を登って行く渓流釣りとは違い、2番手の到着をガッカリすることはない。距離さえ取ればひとり舞台と同じだ。日の出の鬼ノ子川はまだ薄暗かった。聞こえるのは川の流れの音だけで、野鳥の鳴き声がするだけだ。しかし、人の気配はすぐに分かる。無粋な声を発する場ではないので八神は遠くから無言でお辞儀をした。先客も八神に笑顔でコクリと答え、そのまま浮子に視線を戻した。ふたりは離れた位置で釣り糸を垂れ、時折、型のいいイワナを釣り上げるうち、次第に心は接近して行った。
八神が先に竿を納めて川べりの砂利に陣取ると、先客も竿を治めて八神に近付いて来た。魚籠を見て微笑んだ。
「今朝は結構いい型が釣れますね」
「ラッキーでした」
「この川は初めてですか?」
「いえ、昨年初めて来たんですが、この土地がすっかり気に入りまして移住して来ました」
「いつです !?」
「昨日です」
「そうでしたか! 笹島です。私は2年前に移住して来ました」
「そうなんですか !? 八神といいます。これからいろいろと教えてください」
笹島の顔が一瞬曇ったように見えたが気の所為だったかもしれない。疑念を打ち消して朝食に用意したおにぎりを出した。
「良かったらひとつ如何ですか?」
「いえ、私も持って来ましたから」
笹島は使い慣れたらしきナップザックから細長い餅のようなものを取り出した。
「それ、何ですか?」
「“きりたんぽ” です。この土地のソールフードです」
「確か鍋でも食べるやつですよね」
「そうです! でも甘味噌を塗って軽く炙ると携帯食になるんです。ひとつどうです?」
「いや、笹島さんの折角の朝食を…」
「遠慮しないでどうぞ!」
「そうですか、じゃ遠慮なく」
ふたりは八神の焚火を囲んだ。拾い集めた石で囲った中に枯れた流木がぱちぱち燃え出した。しょっちゅう向きが変わる焚火の煙に翻弄されながら暫くすると、櫛を指して炙っている甘味噌のきりたんぽから香ばしい香りが漂って来た。
「そろそろ食べ頃ですね、どうぞ!」
ふたりは甘味噌のきりたんぽに齧り付いた。
「うまい~…あのお返しと言っては何ですが、私のおにぎりも…」
「朝からそんなに食べれませんから今日は遠慮しときます」
「それもそうですよね。このきりたんぽ…結構腹持ちしそうですね!」
ふたりはすっかり打ち解けた。
「移住生活が2年ということは、もうすっかりこの土地にも慣れましたでしょ」
笹島は暫く考え、言葉を選んでいるかのように話し始めた。
「生活費は思ってる以上に高くつきます」
八神の想像もしていない返事が帰って来た。
「人間関係を無難にと思っても中々話が合いません。結局、毎回カネの話になるんです」
「…あの、どういうことですか?」
「皆、助け合って生きているんです」
八神には笹島の言っていることが益々分からなくなった。
「ここは世帯数も少ない集落で、当然人口も少ないんです。だから、隣人同士の付き合いは素手なんですよ。ちょっとでも差し障りのある会話になると、すぐにいがみ合いが起こります。狭い土地ほどそれが表面化したときは大問題になり、遺恨が残り…今、私の近所では露地を挟んで揉め事が絶えません」
「揉めた原因は何なんですか?」
「灯油です。一ヶ月程前に移住して来た人が灯油の値段の安い隣村に買いに行くようになったんです」
「・・・?」
「灯油だけじゃなく殆どの生活用品も隣村でまとめ買いするようになったんです」
「それが何か問題があるんでしょうか?」
「大ありなんです。集落の住民は副村長の…いや新村長の親戚が経営するガソリンスタンドで灯油を買います。いや、買う事になってるんです。しかし、隣町よりかなり高いので、移住して来たばかりの人は安く手に入る隣町に買いに行ったわけです。それを住民に知られて突き上げを喰らいました」
「安い方で買うといけないんですか?」
「ですから、この村の人たちは皆、助け合って生きているんです。隣町の利益になることは悪なんです」
「…そんな」
八神は “助け合って生きている” という意味がやっと理解出来た。
「来る日も来る日も “生活用品は農協の店で買え!” と怒鳴り込まれたり、小さな行き違いで無視されたりで、奥さんはノイローゼになり、結局そのご家族は引っ越しを決めたようです」
「なんか…納得いかないですね」
「移住者の中には、隣人監視の目が厳しいので、たまに遊びに来る息子や娘に頼んで生活物資や灯油を積んだ車を車庫に入れてから、こっそり家の中に運び込んでもらっている人もいます。近所が寝静まった夜中に暗がりに紛れて、外の灯油タンクに移すんです」
「農協からの圧力ですか?」
「過疎地では農協直営店がなくなったら生活出来なくなってしまうんです」
「そうなんですか…」
「都会での収入が減っている上に、生活コストが無駄に高くなったら、やっていけませんよね」
八神は、笹島の言葉から出る現実から逃避したくなり、鬼ノ子川に目をやった。川の向こう岸には高さ約100mほどの “雨降り様” と呼ばれる断崖が剝き出しになっている。雨を予期して一足早くその岩肌が濡れたため、神が宿る崖として古くからこの土地の人に崇められてきたと、移住前に宿泊した宿の女将から聞いたことがある。そんな信心深い村に、移住者には想像も付かない掟が重く圧し掛かって来ているとは思いたくなかった。
「笹島さんは詳しいですね」
「この村にSNSで知り合った友人がいるんです。彼は役場勤めなんです」
「成程、詳しいわけだ」
「前の村長の時は田舎暮らしの厳しさとかもちゃんと説明するよう指示があったらしいけど、今の村長になってから移住に関するマイナス面には触れないようにと…」
「マイナス面 !?」
「移住して来たばかりの八神さんに話すのは気が重いです」
「ここまで話してくださったんですから…是非聞かせてください」
「それもそうですね…私は苦労掛けた妻に孝行しようと思って早期退職で移住して来たんですが、読みが甘かったです」
「笹島さんも何か問題を?」
「日々の生活が重く圧し掛かるんです」
「圧し掛かる? 冬の寒さとかですか?」
「それだけならいいんですが、年中です。冬場は除雪や灯油の運搬は勿論ですが、一年を通してあちこちメンテナンスの連続です。車のタイヤ交換や家の修理。除草はエンドレスです。何かといえば寄付を求められるのにも閉口しています。妻との分業でアップアップです。そのうち、この体のメンテナンスが必要になったら何もかもお終いです」
「病院は?」
「下の集落から60キロほど離れているので、少しぐらいの不調は何とか自分で手当てして我慢するしかありません」
「…病院の問題は考えても見なかった」
「それより厄介なことがあります」
笹島の表情は更に曇った。
「全ては徳蔵さんの一言で決まります」
「徳蔵さん?」
八神はすぐに、昨日役場で出会った厳つい老人を思い出した。
「徳蔵さんという人はこの村の有力者です。この村は徳蔵さんを頂点に、村長、青年会、婦人会、消防団という縦組織で固められていて、我々余所者の入る隙などありません」
「相談できる人はいないんですか?」
「いないこともないですが…相談というより、転ばぬ先の杖はあります」
「転ばぬ先の杖?」
「知恵なら住職…情報なら巡査」
「住職はこの村の生き字引。巡査は曲がりなりにも所轄署内を渡り歩いている情報通の上、その立場は私たちと同じ移住者なんです。尤も巡査の西根さんは元々この村の出身ですが、長く県警に居たんで、やはりUターン組の余所者扱いです」
「Uターンでも余所者…なるほど。ずっとここで生活している方以外は余所者ということになってしまうんですね」
「住民には油断せず、住職と巡査は味方に付けることです」
「都会暮らしでは一番縁遠かった人たちです」
確かにそうだ。住職も巡査も交際対象ではなかった。
「わたしが一番後悔していることは帰る場所を失ったことです。ここを終の棲家と決めて移住するにあたって、それまで住んでいた東京の自宅を引き払ってしまいました。八神さんは?」
「いずれ処分しなければならないと思っていますが、祖父の代から住んでた家なんで中々決心が付かなくて」
「絶対に手放してはいけません!」
笹島の強い口調に八神は驚いた。
「それに住民票も異動してはなりません」
「移住初日に移動してしまいました」
「…そうですか」
「どうして移動してはいけないんですか?」
「…一年も暮らせば分かります」
「でも、住民票を移動しなければいろいろと補助が受けられませんので…」
「…兎に角、自宅は手放してはいけません。帰る家があるなら、早めに住民票も元に戻しておいた方がいいです」
笹島は急にそそくさと身支度をし始めた。
「あの…」
「何です?」
「新庄さんって移住者の人、ご存知ですか?」
新庄の名を出された笹島は言葉に詰まった。
「役場の前で偶然会ったお年寄りに、新庄という人には近付かないようにと言われました」
「そうなんですか…それは…兎に角、その話はまたいつか」
そう言うなり急いでその場を去って行った。笹島が遠くなる後ろ姿を茫然と眺めていると後ろから声を掛けられた。振り向いた八神に緊張が走った。
「あんたも、釣りが趣味だったのかい」
徳蔵が立っていた。
「今の…笹島だろ」
「あの方、笹島さんっていうんですか」
八神は咄嗟に恍けた。
「知り合いじゃないのかい?」
「今さっき初めてお会いしました」
「随分親しげに話していたじゃないか」
「釣り人同志ですから、なんか距離感がなくて…」
徳蔵は八神の言葉などどうでもいいという態で川上へと向かって行った。笹島がそそくさと釣り道具を片付けて去って行ったのは徳蔵に気付いたからだろうことはすぐに分かった。新庄に対する敵意を剝き出しにしたあの老婆の言葉を思い出し、移住生活に更に重い将来が圧し掛かって来た。
八神は再び景色に逃げた。“雨降り様” に僅かに朝日が差し始めていた。徳蔵が現れたこのタイミングで引き上げるわけにもいかず、八神は再び釣り糸を垂れるしかなかった。徳蔵を警戒し、針には餌を付けなかった。徳蔵を差し置いて釣れては困る気がした。川の流れの音、時折聞こえて来る野鳥の鳴き声、崖伝いに必死に生茂る木々の葉が清流を覆い、青く澄んだ空の木漏れ日を揺らしていた。
八神を急に不安が過った。東京暮らしの頃は休みを利用して、何のわだかまりもなく足の向くまま渓流釣りに行っていたが、ここは何かが違う。自然の野趣とこの厳しい土地で代々凌いできた地元民の歴史の圧で、今まで味わったことのない緊張感に襲われていた。餌のない釣針にもし魚が掛かってしまったら、その命の代償を必ず支払わされるような気さえした。タイミング悪く、竿に手応えを感じた。引き上げるのに一瞬躊躇したが、快い振動が釣心を奮い立たせた。今朝一番の大型のイワナだった。八神の心を読んでいるかの如くそのイワナは “今釣った仲間を返せ” とばかりに毅然としていた。八神はその姿に敬意を示し、これまで釣った “仲間たち” とともに丁寧にリリースすると、大形のイワナは仲間の先頭に立って悠然と去って行った。ここは新参者の来るところではなかったかもしれない。そう思いながら八神は空になったその日の魚籠を片手に徳蔵に気付かれないように川を離れた。
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