第2話 移住者(八神一徳)

 移住して来たばかりの八神が役場を出ると、目の前に軽トラが停まって男が下りて来た。

「この村に移住して来たのかい?」

「あなたは?」

「オレも5年前に…」

「そうでしたか! 八神です」

「新庄です」

「ここでお会いしたのも何かのご縁です。いろいろと教えてください」

 新庄要は何か言おうとすると、ふたりの会話に老婆が分け入って来た。

「おい、新庄! 何しに役場に来たんだ。ここはおまえのような余所者が来るところじゃねえと言ってるだろ。うせろ!」

 新庄は八神に軽く会釈して運転席に戻り、車を走らせ去って行った。その車を忌々しげに見送った老婆の目が八神に戻った。

「あんた、見掛けない顔だね」

「今日、移住して来た八神と申します。どうぞ宜しくお願いします」

「あんたもあのバカみたいにならねえようにな。郷に入らずんば郷に従えちゅうてな、この村で業を通したところで何もいいことはねえ」

 八神は返答に困った。

「…はあ」

「随分腑抜けた返事だね。そのうち分かる。悪いことは言わねえ。くれぐれもあのバカには近付かねえことだ」

 その言葉も言い終わらないうちに、老婆は態度を豹変させて猫撫で声になった。待ち合わせていたらしい恰幅のいい老人が現れると満面の笑みを浮かべて近付いて行った。

「徳蔵さんはいつも時間通りだね。この村の連中も徳蔵さんを見倣ってきちんとしてくれればいいが…」

 俵徳蔵は老婆に構わずチラッと八神を見た。

「…あの」

 八神は挨拶しようと言い掛けたが、徳蔵のあまりの強烈な敵視に怯んで言葉を飲み込んだ。

「…すみません。お急ぎでしたね」

 徳蔵は無愛想に役場に入って行った。老婆は徳蔵の後に続きながら八神を振り返った。

「今度からはちゃんと挨拶せんか!」

 老婆は渡辺キヨ。長く俵家で住み込みの下働きをしていたが、徳蔵が突然、通いの下働きをしていた藤島カネ子を妾として邸に入れたことが不満で暇を取った女だ…というより、暇を出された女だ。しかしその後も何かと徳蔵の世話を焼き、なんとか通いの下働きとして徳蔵に仕えていた。

 徳蔵は移住者目当てで私費を投じて住宅を建設したが、全く埋まらない移住対策に業を煮やして村長の小笠原清次に抗議にやって来たのだ。荒い足取りで役場に入って行く徳蔵たちの後ろ姿を見ながら、八神は初めて移住というものに一抹の不安を覚えた。


 旅好きな八神は、この村に足を踏み入れた瞬間にこの土地が気に入った。他の土地にない清涼感と郷愁を覚えた。道路っぱたの稲を刈り取った後の乾いた田圃を、公園代わりにして遊んでいる子どもたちを見た時、遠い昔の幼かった記憶が蘇った。両親が共働きで兄弟のいなかった八神は、同級生が両親に子ども用の自転車を買ってもらって豪く燥いでいた姿が目に焼き付いて離れなかった。家の裏に寄り掛けてある大人用の厳つい自転車を押して田圃に出た。近所には公園があったが、大人用の厳つい自転車で乗れるように稽古するには気が引けた。稲を刈り取った後の田圃に出て、“三角乗り”で練習を始めた。愕然とした。重過ぎて漕ぎ出す前に倒れてしまう。それでも八神はめげなかった。何度も倒れて、刈り取った後の稲の茎が手足のあちこちに刺さって血だらけになった。陽が傾く頃、“三角乗り” で数回漕げるようになった。八神は思い切って土手に出た。田圃を囲む用水路沿いの土手は狭かった。倒れたら用水路に落ちる。水の流れは速かった。八神は血だらけになりながら “三角乗り” で無事に家に辿り着いた。両親はそんな息子を見て、自転車を買ってやると言った。しかし、八神は断った。学校から帰ると八神は “三角乗り”で町を走った。意外にも、大人の自転車が乗れることで八神は教室の人気者になった。

  “ここには自分の心のふるさとが息衝いている” と、八神はこの地への移住を決意した。今、目前で不吉な出来事が起こったが、徳蔵ひとりのことで全てを判断することは出来ないと言い聞かせつつも、この集落での人間関係はかなり厳しいかもしれないと憂鬱にもなった。都会での煩わしい人間関係とは異なった何か根深い闇を見た気がした。転居届を済ませてこの集落の住民になったが、元から住む住民との距離が縮まったわけではない。移住者と地元住民の間には何か解決し難い距離があることを徳蔵らに感じ、これからの移住生活に対し、気が重くなっていた。

 八神は、新庄があの時何か言おうとしたのを思い出していた。何を話そうとしたのか、この村と新庄の間には何らかの確執があるのだろう。八神はすぐにでも新庄に会って聞きたかったが、移住して来たばかりで彼の所在など知る由もなかった。役場の帰りに誰かに聞こうにも人が通っていない。いや、あの老婆の様子からして、新庄の家の所在を聞くことで謂れのない空気を生むことにでもなったら厄介だなどと思うと、更に気が重くなった。

 遠くの山々が八神に深呼吸を思い出させてくれた。役場から出て来たばかりの移住初日に、もう村を偏見の目で見始めている自分に驚いた。風光明媚な山々をよく見ると、旅行で訪れた時には気付かなかったが、針葉樹林のところどころに枯れた箇所が点在している。村の周囲を囲む針葉樹林の奥の山懐には四季の移り変わりを楽しませてくれる広葉樹林の森が控えている。役場まで来る道すがらを改めて思い出すと、国道や県道のあちこちに土砂が流れ込んでいた。その所々にやりかけの改修の跡があった。近くに住む住民が少しずつ側溝掃除を施しているのだろうか…

 八神は趣味の釣が高じて生物環境系の大学に進んだ学生の頃の自分を思い出していた。スギやヒノキの人工林を本来の雑木林に戻してやればいいのにといつも思っていた。カシやナラ、シイやクヌギなどが生えた雑木林は腐葉土が豊富な水を貯えることが出来るが、スギやヒノキの人工林は保水力に乏しい。雑木林の山々は斜面に堆積した分厚い腐葉土の層がスポンジ状になっている。大雨が降っても降り注いだ雨を保水することが出来、腐葉土の保水力を越えた雨水だけが川に流れて行く天然のダムの働きをしている。従って河川が氾濫する確率は低くなる。更に、雑木の広葉樹林は根が地面深くに伸びていく性質があるため、大雨や地震が起きても地滑りや土砂崩れや崖崩れの発生を防ぐ働きがある。

 しかし、葉に油分が多く含まれるスギやヒノキなどの針葉樹林は、落葉しても地面は腐葉土にはならず、根は横に広がる性質があるため、地盤が脆弱になり、大雨などで被害が発生し易くなる。

 かつて日本は、様々な雑木が混在し、多様な動植物の分布する豊かな自然が広がっていたが、戦況が悪化し、燃料不足が深刻化すると、薪や木炭を燃料にした “木炭車” が使われるようになったため、薪炭材確保のために日本中の山々では雑木林が伐採され、敗戦後の日本の山々は丸坊主状態になってしまった。資源の無かった日本は、政府の戦後復興の一環として、生育の早いスギやヒノキを大量に植林し、木材として海外に輸出することで外貨を獲得することと、戦後復興に必要な建材確保を目標に「植えよ増やせよ」のスローガンを掲げて、山という山にスギやヒノキなどの針葉樹の苗木が植えられるようになった。更に広葉樹などの雑木林を伐採して針葉樹林化した結果、クリやどんぐりなどの雑木林でしか生きられない野生生物の食べ物になるような植物がなくなり、シカやイノシシ、サルなどが食料を求めて畑を荒らして「害獣」と呼ばれるようになってしまった。スギやヒノキが植えられている針葉樹林は “自然” の山ではない。針葉樹林には食べ物がないため鳥や虫の鳴き声すらしない。針葉樹林によって花粉の量も急激に増え、花粉症という人災の憂き目に遭う人も多くなった。この数年、コロナ過でマスクの着用が一般化し、花粉症が激減したのは不幸中の幸いなのであろう。

 これだけ美しい山々を見詰めて気が重くなっている自分は、これから襲ってくる移住生活での見えない人間関係の現実に対する防衛本能が働いている所為なのか…とにかく暫くは移住の浮かれ気分は抑え、目立たぬように慎重に過ごしながら、少しづつこの集落のことを観察するしかないと、八神の心は重かった。

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