第73話 楽しいだけが残る
「ん……」
再び目を覚ました時には、既に日は沈んでいた。部屋の隅に置かれた行灯の光が室内を淡く照らし出している。
体を起こすと、額に乗せられていたタオルがぺたんっと音を立てて落ちた。誰かがのせてくれたのだろう。
畳の上のそれを拾い上げると、何故だか少し心が温まった気がした。
部屋を見渡しても、そこには誰もいない。流石につきっきりで看病してくれるわけじゃないか……。
「……」
誰もいない無音の部屋に、どうしようもない不安を覚える。
今まで当たり前のように一人で生きてきたはずなのに、たった一日、一人きりにされただけで、こんなにも寂しいと感じてしまっている自分がいる。
「……」
ふらつく足取りで立ち上がる。おぼつかない手で襖を開けると、目の前には月明かりに照らされて佇む人影が見えた。
「あ、お姉ちゃん。起きたんだ」
琥珀は俺の顔を見ると、安心した表情を見せる。
「うん……」
「調子はどう? もう大丈夫そう?」
「大丈夫だよ……。みんなが看病してくれたから」
「そっか……よかった」
本当に心の底から安心したといった様子だ。そんな様子を見ると、自分がどれだけ心配されていたのかがよくわかる。
「でも……私は迷惑だったよね。お姉ちゃんが弱っているのを利用して、自分の欲求を満たしてさ……」
「……」
申し訳なさそうに俯く琥珀に俺はなにも言えなかった。確かに琥珀の行動は褒められたものではない。
あの時は本気で怒ったし、悲しかった。けれど、今考えれば、あれは俺を元気づけるためのものだったのだと思う。
琥珀は何かと不器用なところがあるから、あんなやり方しかできなかったのだろう。
「あはは……。私はお姉ちゃんの言う通り、本当に身勝手な子なんだね……。やっと気づいたよ」
苦しそうに笑う彼女を見て、胸が締め付けられるようだった。
俺は……妹になんて顔をさせているんだ……。
「……ごめんね。今までいっぱい迷惑かけたよね……。やっぱりもう。ああ言うことはしないようにするよ。どんなに注意しても、お姉ちゃんに嫌な思いさせるだろうから」
「そこまでしなくても……」
「ううん。そこまでしないとダメなんだよ。お姉ちゃんへの想いはそこまでしないと抑えられないんだ。本当はもっと普通に接したいのに……。我慢できないんだんだ。おかしいよね……。あはは……」
力なく笑う彼女に、かける言葉は見つからない。
何を言っても空虚なものにしかならないから。
それどころか、余計に傷つけてしまうような気さえするから……。
「じゃあ、ご飯食べに行こっか。今日は適当にどこかで食べろって、千鶴にお金を渡されてるんだ」
「……」
「……お姉ちゃん?」
けれど、たとえ傷つけることになったとしても、言わなければならないことがあると思う。
だって俺は……琥珀の姉なのだから……。
「ねぇ、琥珀……」
「ん? どうかした?」
「琥珀は私のことが好き?」
「え、なに急に。病み上がりでおかしくなっちゃった? そりゃ好きだけどさ」
「だったらさ、その好きは素直にぶつけるべきだよ」
「……でも、それだとお姉ちゃんが苦しむことになる。嫌だよ。お姉ちゃんが我慢するのは。苦しむのは……。旅に出てからお姉ちゃんはずっと苦しそうだ。何かを隠していて、悩んでいて……でも、それは自分のためじゃなくて…………。そんなお姉ちゃんをこれ以上苦しめることなんて……わかっちゃったらできるはずないよ」
「……」
つい最近、雲雀にも似たようなことを言われたな……。そんなに苦しんでいるように見えるのだろうか……。
確かに悩んではいるけど、苦しんでいるつもりなんてないんだけどな……。むしろ、前世の虚無のような生活より何倍も楽しいくらいだ。
琥珀の変態行為だって、怖いし、恥ずかしいし、大変だなって思うけれど、心の底では未知の感覚を楽しんでいる自分もいる。
足りないのは、互いの理解だけだ。
だから、今言うべきはきっとこの言葉。
「好きだ」
「え……」
「私も琥珀のこと大好き」
「えぇ!?」
あまりに唐突な告白に驚いたのか、彼女は口をパクパクさせながら、みるみるとその頬を赤く染めていく。
「琥珀の優しいところも、強いところも、ちょっと変態さんなところも全部含めて大好きだよ」
「ちょっ! 待って!! なんでいきなりそうなるの!?」
彼女は慌てふためきながら、必死になって弁明を始める。しかし、俺は止まらない。止めてあげない。彼女が俺のことを想ってくれているなら尚更だ。
「けど、大好きだからって、全部を知ってあげることはできないんだ」
「……」
「だから教えてほしい。琥珀のこと。琥珀の思ってること。そして、私が知らない琥珀のことも……」
俺はゆっくりと近づいていく。彼女の心に触れるために。
「あ……」
「そうすればきっと、怖いのも、嫌なのも無くなって、楽しいのだけが残るはずだから」
彼女の手を取ると、優しくその体を抱きしめた。すると、彼女の体は小刻みに震え出す。
「うぅ……ずるいよ……。そんなふうに言われちゃうと……断れないじゃん……」
嗚咽混じりの声が閑散とした廊下に響く。それはいつもよりも少し幼く感じられて……。
あぁ……この子はやっぱりまだ子供なんだ。心も身体もまだまだ幼い女の子だ……。
「……いいの? 私……わがままだよ? きっとお姉ちゃんを困らせるよ?」
「大丈夫。言ったでしょ。怖いのも、嫌なのもなくなるって。それなら困るのは、楽しすぎて困っちゃう時だけだよ」
「そっか……そうなんだ……。うん……わかった。話すよ。お姉ちゃんに聞いてほしい。知ってもらいたい。でも、きっとびっくりするから……。それでもいい?」
「もちろん」
こちらが微笑むと、彼女も微笑み返してくれた。今度は力強く、しっかりとした笑みで。
「私も琥珀に話そうと思うよ……。全てが終わったら……」
「全て?」
「うん。全てだよ…………」
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