第56話 待ち人

「それはもちろん! このふんどしです!」

「え……?」


 自信満々に依狛はふんどしを天に掲げる。

 こんなにも自信ありげなのだから、海でも使えるようなものが出てくるのかと思えば……まさかのふんどし……

 しかも、それは俺の知っている通りのふんどしで、とてもじゃないけど海に入れるような代物ではない……。


「それはやめなさい!」


 パシンっと乾いた音が響き渡る。どうやら、依狛の頭に千鶴の手が振り下ろされたようだ。


「痛い! 何で叩くんですか!? 別にいいじゃないですか!? これは由緒ある伝統的な下着ですよ!」

「うるさい! ダメなものはダメなの! もしそれを履いていくなんて言ったらあなただけ置いてくから!」

「そんな殺生な!」

「だったらちゃんとしたのを買ってきなさい! 今すぐに! お金は払ってあげるから!」

「分かりました……」


 しょんぼりと項垂れながら、トボトボと店を出て行く依狛を見送る。その背中からは哀愁が漂っていた。あれは相当落ち込んでいる。まあ、ふんどし姿で海に行けば、周りから奇異の目で見られるのは間違いないからな……。


「これでも自分なりに考えたのに……」


 なにやら不満げな様子の依狛。

 彼女はブツブツと文句を言いながらも、再び水着売り場へと向かっていった。


 ☆★☆


「うぅう…………」


 現在地は海………………の前にある更衣室。俺はとある事情により砂浜への一歩が踏み出せずにいた……。


「ああぁぁあ…………」


 やっぱり恥ずかしい! ど、どうなっているんだ……。俺の予想では異世界の海なんてせいぜい百人程度しか人がいないと思っていたのに……。

 目の前に広がる光景はどこぞの映画で見たことあるかのようなビーチそのもの。

 砂浜を埋め尽くさんばかりの人の群れ。そして、そこかしこで聞こえる男女の楽しげな声。

 完全に想定外だ。


「うううううぅう!」


 むり無理ムリ!! 絶対に無理! 恥ずかしさ的にも、陽キャオーラ的にも、俺が入ることのできる世界ではない!

 海を甘くみていた……。いや、本当は知っていたんだ……。

 海という場所がどれほど恐ろしいところなのかを……。

 それなのに……それなのに俺は! 異世界に来たというだけで勝手に行けると勘違いしていた!

 たとえ体が美少女になろうとも、心はぼっちの陰キャのままだと言うことをすっかり忘れてしまっていた!

 ああぁぁ……帰りたいぃいい!!!

 俺はその場で頭を抱えてしゃがみ込む。しかし、それで問題が解決されるわけもなく、むしろ目立ってしまうだけだ。

 だからと言って、踏み出す勇気もない。


「おろろ……」


 なんだかメチャクチャ視線を集めている気がする……。まずい……早く決心しないと……変なやつに目をつけられて、酷い目に遭わされるかも……。

「お姉ちゃん? 大丈夫?」

「ひゃい!?」


 そんな時、背後から聞き覚えのある優しい声が聞こえてきた。俺はビクッと体を震わせながら振り返ると、そこには心配そうな顔をした琥珀がいた。


「こ、琥珀……」

「どうしたの? 体調悪いの?」


 彼女はゆっくりと膝を曲げて、視線を合わせてくれる。


「い、いや……そう言う訳じゃなくて……ちょっと恥ずかしくて……」

「恥ずかしい?」

「うん……」


 琥珀は不思議そうに首を傾げる。

 そりゃそうだ。ここにくるまでは乗り気だった俺が、そんなこと言うなんてどう考えてもおかしい。

 けれど、事実恥ずかしいのだ。

 琥珀の水着姿を見たら、余計に自分が場違いだと分かってしまった。

 ここは陽キャの集まりだ。きっと、水着も露出が多くて、もっと派手なものなんだろう。

 俺みたいな陰キャで露出に抵抗がある奴が来るべき場所じゃない……。

 琥珀に選んでもらった水着だって、今は羽織り物の下に隠してしまっている。

 ここまでして、砂浜に足を踏み入れることすらできないのだ。

 帰った方が賢明なのかもしれない……。

 しかし、そんなことを考えていたときだ。

 琥珀は突然、両手で俺の頬を挟み込んできた。


「ふぇ?」


「そんな不安そうな顔しないの。ほら、笑って。笑顔の方が似合ってるよ」


 琥珀はにっこりと微笑んでくれた。その微笑みは地平線の上に浮かぶ太陽よりも眩しくて、温かくて……この世界に来たばかりの頃を思い出させた。


「確かに人間達の視線はいやらしくて、うざったいけど、大丈夫。そんな視線、寄せ付けないくらいに楽しんじゃおうよ」

「寄せ付けない……?」

「うん! 全力で楽しんじゃえば、あんな低俗な視線、気にならなくなるよ! それに、ほら。普段は使えない奴らだけど、こういうときは賑やかしぐらいにはなるみたいだよ」


 琥珀にそう言われて、砂浜の方を見る。

 陽の気配を掻き分けた先、依狛たちが手を振ってこちらを見ていた。


 待っている。俺が来るのを。

 当然のことだ。俺も一緒に行く話だったのだから。けれど、それはとても尊いことでもある。

 俺が来るのを待ってくれている人たちがいる。

 前世でこんな経験はしたことがない……。それでも、今すべきことは簡単にわかる。


「うん……そうだね。行こう……」


 覚悟を決めると、俺は徐に立ち上がった。

 もう砂浜に一歩を踏み出すなんて、程度の低い問題は頭になかった。

 一歩を踏み出すと、次へ、また次の一歩へと、歩みを進める。

 次第に駆け足になり、気づけば俺は走り出していた。

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