第42話 母親みたい

「……別にいいわよ。面白い話じゃないけど」


 千鶴はそう前置きしてから、静かに語り始めた。


「私、女として育てられたの。生まれた頃からずっと。小さい頃はまだ男としての自我があった気がするんだけど、もうそれも薄れてきちゃって……でも、女にはなりきれなくて……そしたらお父さんに神社を追い出されてさ……ほんと、惨めったらありゃしないわ」

「……」

「男として育てられるって話は聞かなくもないけど、女として育てられるってのは珍しい話よね。うちは代々巫女の家系で、女の子の跡取りを求めてた。けれど、子宝に恵まれなくて……やっとの思いで授かったのが私って訳。それで私がその跡継ぎになるはずだったのに、私が男だってわかった途端、お父さんがおかしくなったらしいのよ。『こいつを女として育てる』って言って聞かなかったらしいの」


 千鶴は湯船の中で足を動かした。水面がわずかに揺れる。


「お母さんは気が弱いからその言葉に従って、私は女の子として生活することになったのよ。最初は楽しかったわ。着物を着て、髪を結ってもらっている間は自分が女の子なんだって思えた。でも、ある日鏡を見て思ったの。これは自分じゃないって……そこには女の子がいたの。可愛らしく笑う女の子が。そこで初めて、自分は本当に女の子なのか不安になったわ。もしかしたら、自分は男なのかもしれないって」


 彼女は自嘲気味に笑う。


「千鶴は……どう思うの? 自分は女だって思うの?」

「もうわからないわ。つい最近まで、神社で巫女として振る舞ってきたんだもの。もし男だったとしても気付かないわ」

「そっか……」


 霧のように漂う湯気の中にしばらくの沈黙が訪れる。ちゃぷちゃぷと水音がやけに大きく聞こえる。水流は頭の中さえも洗い流すようで、思考がまとまって、一つの言葉を紡ぎ出していく。


「無責任な言葉かもしれないけど、千鶴は千鶴でいいんじゃない? 性別は後で考えることにしてさ」

「でも、それじゃあみんな気持ち悪がるわよ」

「そんなことないよ。少なくとも私は受け入れてるよ。千鶴は千鶴。たとえ女の子でも、男の子でも、千鶴は千鶴だよ」

「……」


 千鶴は押し黙ったまま何も言わない。きっと俺の言葉を頭では理解していて、それでも心はそれを拒絶しているのだ。


「ごめん……変なこと言っちゃったかも……」

「ううん。嬉しいわ。ありがとう……」


 千鶴はこちらを振り向くことなく言った。その声色はどこか優しくて、寂しさを含んでいるように聞こえた。


「琥珀も依狛も私なんかよりずっと優しいんだ。二人だってすぐに受け入れてくれると思う……。だからね、もう少し、もうすこしだけ私たちと一緒にいてくれないかな?」

「……まあ、少しだけなら」


 口を湯に沈める彼女の顔は口角が上がっているのを隠し切れていなくて、思わず笑みがこぼれてしまう。


「なに笑ってるのよ……」

「なんでもないよ……」


 良かった。少しは彼女の力になれたみたいだ。俺の胸の中には、確かな達成感と幸福感が満ち溢れていた。


「あ、あれ?」

「どうしたの?」


 視界がゆがむ。千鶴の笑顔が俺を心配するものへと変わっていく。


「大丈夫!?」

「い、いや、なんか……」


 頭が重い。脳みそを直接掻き回されているような不快感に襲われる。体が熱い。まるで高熱に侵された時のような感覚だ。


「すごい熱……」


 千鶴は俺の額に手を当てながら言う。ひんやりとした手のひらが心地良いが、それ以上に意識が遠くなっていく感じがした。


「真白!? しっかりして!」

 ………………

「……ん」


 目を開くと、琥珀の顔がすぐそばにあった。


「ぎょ、ぎょえ!?」


 ごつんっ


「いったぁ……」


 驚いて飛び起きると、目の前にいた琥珀と正面衝突してしまった。


「何で、私の顔でそんなに驚くの……」

「い、いや、本能というかなんというか……」

「何それ? まるで私がお姉ちゃんの天敵みたいじゃん!」


 不機嫌そうに頬を丸める彼女だが、その仕草はどこか愛くるしい。

 しかし忘れてはならない。琥珀は間違いなく俺の天敵だ……。寝ている間に何かされてたりしないかな……。


「ごめん、ごめん……。ところで私どのくらい眠ってた?」

「三十分ぐらいかな」

「そう……」


 千鶴と温泉に入ったところまでは覚えているが、それ以降の記憶が曖昧だ。きっとのぼせてしまったのだろう。話に夢中で体温の上昇に気付いていなかった。


「真白!!」


 突然。琥珀の後ろから何かが飛びついてきた。それが誰かは顔を見なくてもてもわかる。


「千鶴……」

「ばか! 真白のばか!! 死ぬんじゃないかと思ったじゃない!! 死んだらどうするつもりなのよ!! あんたが死んだら……私は……うぅ……ぐすっ……うわぁぁぁぁぁぁ」

「あはは……のぼせたくらいじゃ死なないよ。でも、ありがとう。心配してくれて」


 俺は泣きじゃくる千鶴の頭を撫でた。サラサラの髪が指の間をすり抜けていく。その手触りが心地よくて、何度も撫でてしまいそうになる。


「うっ、うう……」

「もう……本当に泣き虫だなぁ……」

「うるさい……」 


 千鶴は涙声で反論してくる。しかし、俺の腕の中から離れようとはしなかった。


「ふふっ。お姉ちゃん、まるでお母さんみたいだね」

「な!? ち、違うよ!」


 微笑ましげにはにかむ琥珀に、俺は激しく首を振って否定する。こんな大きな子供を持った記憶など無い。


「ほら、千鶴も離れてよ」

「やだ……」

「こ、困るんだけど……」

「いいじゃない。少しの間だけだから……」

「……も、もう。少しだけだからね」


 結局、俺の方が折れることになってしまった。千鶴は俺の膝の上に座り、背中を俺に預けている。……完全に甘えん坊モードだ。


「もう離さないから……」

「えぇ!? 話が違うよ!」

「ふふっ」


 それからご飯になるまで千鶴と俺の肌が離れることはなかった……。

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