第89話 絶望

 前に帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから教えられた事がある。

 人間の性格は、部屋の様子で見定められる。几帳面とか杜撰ずさんとか、趣味とか嗜好とか。その者の暮らし向きを見えば、容易に想像がつくという。

 然しおゆらの部屋を見た時、奏は全く彼女の性格を想像できなかった。

 板張りの六畳間に、ぽつんと文机が一つあるだけ。

 それ以外に何も置かれていないのだ。調度品も書籍の類も一切ない。生活感がないと言うか……生活に必要な物が見当たらない。寝具すらないので、他の女中部屋から布団を拝借し、おゆらを寝かしつけたくらいである。

 おゆらと共に十年も庵で暮らしてきた。付き合いの長さなら、常盤より遙かに長い。おゆらの手で育てられたと断言しても構わないくらいだ。世話役の彼女には、いつも感謝の念を抱いていた。ほんの数日前まで、おゆらを家族と認識していた。

 それも奏の幻想だった。

 初めておゆらの部屋に足を踏み入れたが、不思議と奏は納得した。自分は世話役の事を何も知らなかったのだ。何も知らずにおゆらを信頼し、何も知らずにおゆらを理解者と決めつけ、何も知らずにおゆらの庇護を受けてきたのか。

 なんとも愚かしい話だ。

 今はおゆらの寝顔を見ても、一切の感情を抱かない。情けも憎しみも感じない。心が麻痺しているのだろうか。

 ただ朧に念を押さえるまでもなく、奏の中でおゆらの処分は決めていた。

 妖術と虚言で主君を騙し、謀略と静粛で女中頭の地位に上り詰め、独断で難民の虐殺を強行した奸臣。もはや極刑以外に有り得ない。おゆらが常日頃から語る薙原家の面目や蛇孕村の秩序を守る為、本家の若者を謀る奸臣を成敗する。それこそおゆらも本望だろう。仮に常盤の件がなくても、奏の判断は変わらない。

 身体を土中に埋めて、鋸で首を切断するか。

 逆さ磔にしてから、槍で身体を貫くか。

 二つのうちのどちらか。

 朧の望む通り、おゆらに生き残る道は残されていない。

 おゆらが死んだ後、薙原家は荒れるだろう。千鶴に分家衆を纏める力はない。再び分家同士が利権を求めて争い、血で血を洗う抗争が始まる。

 薙原家は、次の御家争いが原因で凋落する。无巫女アンラみこは分家衆の争いに関心がなく、調停役の符条が蛇孕村にいない。目先の欲望に囚われた分家衆は、最後の一人になるまで殺し合う筈だ。そして生き延びた最後の一人も、本家から『勤方不行届有之付つとめかたふゆきとどきこれあり』と書かれた書状を渡されて自刃に追い込まれる。

 即ち薙原家の滅亡だ。

 それでよいではないか。

 血腥い仕物に手を染めて、人商人から奴婢を買い漁り、人肉を喰らう妖怪の血族。薙原家が滅んで、誰が困るというのだ。必要悪ですらない絶対悪なら、すぐにでも滅亡すべきであろう。

 その決心がつかないばかりに、常盤を犠牲にしてしまった。


 薙原家なんか滅べばいいんだ……


 おゆらの寝顔を見下ろしながら、奏は心の中で呟いた。

 彼女が起きた時、主君と世話役の最後の会話が成される。奏が尋ねたい事を訊いて、おゆらに処罰を言い渡して終わり。

 二刻ほど過ぎただろうか。

 おゆらが目を覚まし、横に座る奏を見上げた。


「奏様……」

「――」


 消え入りそうな声で呟くが、奏は何も応えない。


「私を女中部屋まで運んでくれたのですか? 奏様の御手を煩わせるとは……誠に申し訳ありません。どうも駄目ですね、近頃の私は。朧様が蛇孕村に来てから、調子を狂わされてばかり」


 徐に上体を起こし、ぶつぶつと呟き続ける。

 奏が応えてくれると、おゆらも期待していないのだろう。気分を害した様子もなく、青白い顔で言葉を紡ぐ。


「驚かれましたか? 私は自分の部屋を使わないのです。外向きの仕事を行う時は、主殿の書庫か奏様の庵。内向きの仕事を行う時は、御屋敷の地下を使います」

「――」


 おゆらは雑談を続けるが、奏は一切応じない。

 時間稼ぎも無益と判断したのか、豊かな胸の前で両手を合わせ、普段通りの柔和な笑顔を見せる。


「あまり時間も残されていない御様子。私に訊きたい事があるなら、なんでもお尋ねください。この期に及んで、嘘偽りで言い逃れたり致しません。包み隠さず、真実のみをお伝えします」

「信用できない」


 奏が冷たい声で言い捨てた。


「私の言葉が信に足るか否か……无巫女アンラみこ様にお確かめください。それで確証を得られましょう。无巫女アンラみこ様の言葉も信用できぬと申すのであれば……何者の言葉も信に足らぬという事になります」


 暫く黙考した後、


「……どうしてマリア姉は、狒々神を放置している?」


 おゆらと何の関係もない質問をした。


「マリア姉は、第一の聖呪で狒々神の現出を予測していたんだろう? 第二の聖呪で未来に起こる事象を確定させ、狒々神の現出を阻止する事もできた筈だ。なぜ、狒々神の現出を放置していた?」

「……」

「黙秘するつもりか? お前が応えないなら、マリア姉に直接訊くだけだ」


 奏が眉間に皺を寄せた。


「いえ……想定外の質問で少し驚いただけです。无巫女アンラみこ様の御意志は、私にも計り兼ねます。然し无巫女アンラみこ様でも、狒々神の現出を阻止する事はできないでしょう」

「どういう事だ?」

禍津神マガツガミの現出を阻止する素粒子が、現世うつしよに存在しないから……と申せば、身も蓋もありませんが。无巫女アンラみこ様の第一の聖呪――『怠惰タイダナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』は、未来に起こる事象を予測する魔法。然し无巫女アンラみこ様といえど、完璧な未来予知はできません。それゆえ、无巫女アンラみこ様は完璧な未来予知を諦めました。完璧な未来予知ができないのであれば、未来に起こる事象を確定する。左様な考えに基づいて、第二の聖呪――『傲慢ゴウマンナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』を発現させたのです。然れど『傲慢ゴウマンナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』も完璧ではありません」

「……」

「例えば、先日……无巫女アンラみこ様は、南蛮式の弩を使う刺客に襲われました。无巫女アンラみこ様は、『南蛮式の弩を使う刺客に襲われる』という未来を予測し、『南蛮式の弩から放たれた矢を指で摘まむ』という未来を確定しました。私は現場を見ておりませんが、无巫女アンラみこ様が望んだ通りの結果を得たと聞いております。然し无巫女アンラみこ様といえど、『南蛮式の弩を使う刺客に襲われない』という未来を確定する事はできません。なぜなら第一の聖呪で未来を予知しなければ、第二の聖呪で未来を確定する事ができないからです」

「第一の聖呪と第二の聖呪で矛盾が生じると?」

「左様な話ではありません。あくまでも第一の聖呪は、未来の予測を可能とするもの。未来の予知はできません。仮に第一の聖呪で予測した未来と第二の聖呪で確定した未来が矛盾しても、何ら不思議な事ではないのです。完璧な未来予知と言い難い予測では、時に外れる事もありましょう」

「……」

「私も詳しく存じませんが、奏様や禍津神マガツガミに関わる事柄は、第一の聖呪を以てしても、予測しがたいようです」

「マリア姉は、狒々神の現出を予測した」

「魔法を使って――ですか?」

「……」


 おゆらに問い掛けられると、奏は唇に手を当てて考え込む。

 確かにマリアは、狒々神の現出を第一の聖呪で予測したとは、一言も口にしていない。周りが勝手にそう思い込んだだけだ。奏も同様だ。朧から狒々神の現出を伝えられた時、マリアが狒々神の現出を魔法で予測したのだろうと、本人に確認もしないで決めつけていた。何か魔法以外の方法で、狒々神の現出を予測していたのか?


「もういい。この事は、後でマリア姉に直接訊く」


 おゆらから視線を切り、強引に話題を変える。


「次の……いや、最後の質問だ。どうして事を急いだ?」


 奏は視線を戻すと、本命の質問をぶつけた。


「薙原家の高転びを防ぐ為、蛇孕村を日ノ本から独立させ、主権通貨国に変える。確かに答えが分かれば、お前らしいと思うよ。薙原家の為なら、外界の民がどれだけ死のうと構わない……吐き気を催す発想だ。本当にお前らしい考えだ」

「……」

「でも遣り方にお前らしさを感じない。武蔵国を傀儡国家に創り変え、日ノ本に争乱を起こす。畿内から攻め寄せる征伐軍を討ち払うか、征伐軍を『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で洗脳する。黒田如水の策略を利用し、関東の戦火を全国に広げて、日ノ本に『神符』を浸透させる。まるで帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの話を聞いているようだ。中二病か悪魔崇拝者の遣り方だよ」

「……」

「僕の知るお前は、弥縫策を好まない。用心深いお前は、都合良く黒田如水が、関東の混乱に連動してくれるかも――なんて望まない。戦費の調達に喘ぐ諸侯が、都合良く蛇孕神社の『神符』を頼るなんて期待しない」

「……」

「僕の知るお前は、不確かな事柄を嫌う。僕の知るお前は、事前の根回しを怠らない。僕の知るお前は、薙原家の財政を誰よりも理解している。もう一度訊くぞ。どうして事を急いだ?」


 奏が視線を戻すと、おゆらは「うふふっ」と笑声を漏らす。


「何がおかしい?」

「本当に想定外の事ばかり尋ねてくるので……」

「――」

「すでに奏様は、私の目的を御存知なのですね。符条様から聞いたのですか? それとも『睡蓮祈願すいれんきがん』で明晰夢を見せられたとか?」

「お前の質問に答える義務はない。それより僕の質問に答えろ」


 奏は表情を変えずに、冷たい声で命令した。


「私が事を急いだ理由……そうですね。奏様も御存知の通り、薙原家は外貨準備を増やし続けております。暫くは現状を維持しても、高転びは避けられましょう。私が事を急いだ理由は、私の都合によるものです。少し長くなりますが、悠木家の話をしてもよろしいですか?」

「構わない。続けろ」


 奏が命じると、おゆらは微笑みを浮かべた。


「悠木家は、十二分家に名を連ねる家柄です。悠木の家に生まれた娘は、他人の精神を操る妖術――『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使います。制約が多く使い勝手の悪い妖術なのですが……他の分家衆は、そのように考えてくれません。使徒を操る事ができなくても、妖術を使えぬ女童なら操れる。幼い頃に改竄された記憶は、成長しても修正できない。だから封印しなければならない。決して同胞はらからに危害を加えないように。薙原家に敵意を向けないように――」


 おゆらは優しい声音で語りながら、黒い首輪に触れた。


毒島ぶすじま家の使徒は、触れた物に呪いを掛ける事ができます。『呪詛蛭じゅそびる』と申すのですが――『呪詛蛭じゅそびる』の込められた首輪を嵌めて、悠木家に厳しい制約を課しました。御本家様のお許しがなければ、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使う事ができない。御本家様のお許しもなく妖術を使うと、肉体が腐り果てて死んでしまいます」


 話の内容と裏腹に、おゆらは飄々と語る。


「ああ、誤解しないでくださいね。『呪詛蛭じゅそびる』の込められた首輪は、四年前に外しております。この首輪は飾り物。ただの装飾品です。然し幼い頃より首を圧迫されてきたので、首輪をしてないと落ち着かないのです」


 ころころと笑声を漏らしつつ、おゆらの一人語りが続く。


「それでも安心できない。封印を施した程度では足りないのではないか……左様に申す者もおりまして。八十年ほど前から、悠木家の娘に拷問という『小細工』を加えたのです。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で強制的に薙原家へ敵意を抱かせ、苛烈な拷問を加える。母が娘を妖術で操り、他家の娘が徹底的に痛めつける。爪を剥ぎ指を折り皮を焼き肉を削ぎ……様々な責め苦を与えていくと、不思議な事が起こるのです。何もされていないのに、薙原家に敵意を抱いただけで、体中に激痛が奔る。本家や分家衆に不快感を抱いただけで、無様に悶え苦しむのです。『起死再生きしさいせい』で傷を癒せるとはいえ、斯様な滑稽な事を思いつくとは……本当にヒトデ婆らしいですね」

「……」

「全ては評定で決められた事。ヒトデ婆の入れ知恵ですから。本家の御意向である事は明白。孤立無援の悠木家が反対できる筈もなく――満場一致で決められたそうです」


 おゆらは凄惨な過去を朗らかに語る。

 典型的な合議制の弊害だ。

 皆が多数の意見を最善と信じ込み、少数の意見を容易に黙殺する。少数派は生き残る為に、多数派の顔色を窺わなければならない。閉塞的な村落なら尚の事。結果的に、誰も多数派の暴走を止められない。


「抑も悠木家に発言権はないのです。対等・平等・公平と謳いながら、いつの時代も悠木家は末席。何百年も他の分家から蔑まれてきたのです。それも致し方ない事かもしれません。悠木家の使徒は、殿方に身体を開かないと生きていけないのですから――」

「……」

「悠木家の餌贄えにえは、殿方の持つ子種です。如意棒を咥えなければ、生きる事もできないなんて……他の分家から遊女の家系と蔑まれるのも当然です。悠木家の娘は、薙原家が認めた遊女。暇を持て余す男衆の玩具。欲望の捌け口に過ぎません。蛇孕村の男衆の半分は、私の母の身体で童貞を捨てた筈です。どこもかしこも穴兄弟ばかり」


 卑猥な冗談を挟みながら、口元に手を当てて笑う。


「特に秘密というわけではありません。薙原家と住民の暗黙の了解。殊更隠すまでもありませんが、斯様な醜聞は奏様の耳に入れる必要はないと、世話役に就いたばかりの頃、符条様に言われたのです。私も奏様の御耳を汚したくありませんでした」

「……」

「然し私は、運に恵まれていたのです。八つの時、奏様の世話役に任じられたお陰で、男衆の相手をしなくて済みました。私は奏様の子種しか飲んだ事がありません。他の殿方の子種なんて飲みたくもない……」


 胸に手を当てて、噛み締めるように言う。

 おゆらの話を鵜呑みにするなら、奏の世話役に適していたのだろう。厄介者の面倒を見るのは、首輪に繋がれた悠木家の娘が相応しい。本家の血を引く男子を飼い慣らすなら、遊女の家系こそ適任というわけだ。先代当主や分家衆が考えそうな事である。


「以前、使徒について説明した時、餌贄えにえの説明もしましたよね? 五日から十日に一度、餌贄えにえを食べなければ、『神寄カミヨリ』に堕ちるか、命を落とす困り者がいると……私がその困り者なのです」

「……」

「三日ほど奏様の子種を飲まないだけで御覧の有様。あと二日もすれば、私は命を落とします。勿論、『神寄カミヨリ』に堕ちる可能性も捨てきれません。その前に成敗して頂きたく存じます」

「今更僕が、お前の処断を躊躇うと思うか?」

「滅相もない事です。私は薙原家に命を捧げた身。拾うも捨てるも、奏様の御一存で決まります。不要と思うのであれば、躊躇なく捨ててください」


 主君を騙していた奸臣が、殊勝な言葉を並べ立てる。

 白々しい態度に、奏は深い憤りを覚えた。

 符条の話を聞く前なら、彼女の生い立ちに同情していた。義憤に衝き動かされ、分家衆を非難していただろう。

 然し今は違う。

 常盤の殺害を企んだのは、目の前の女中だ。計画的に難民を扇動し、混乱に乗じて常盤を殺そうとした。犠牲者は、常盤や難民だけではない。妖術の実験台にされた者や不穏分子と見做された者。直接手を下していない事例を含めれば、犠牲者は軽く千人を超えている。たとえ戦国乱世といえど、大規模な戦争を起こさずに、千単位の屍を積み上げてきた殺人鬼など聞いた事がない。朧の言う通りだ。世の中に悪意を撒き散らすだけの存在。この場で処分しなければ、無差別に犠牲者が増えていく。

 激情を胸の内に秘めながら、奏は無表情で黙考する。


 なんだ、この気味の悪い感覚は……?


 おゆらの処分を決めた筈なのに、奇妙な違和感を覚える。

 彼女の笑顔は欺瞞の証。外面を取り繕う演技に過ぎないのだ。しんば、真実を述べたとしても、奏の心は揺れたりしない。

 だが。

 本当に演技なのか?

 取り返しもつかないほど追い詰められているのに、陳腐な演技で乗り切ろうとするほど浅はかな女か?

 分家の末席から本家女中頭に上り詰め、薙原家の裏側を支配する魔女が、土壇場で笑顔の仮面に頼るだろうか?

 ただの虚勢ではないのか?

 普段通りの笑顔は、自信の表れだと言うのか?

 主君の抱く疑念をよそに、女中頭は話を続ける。


「悠木家の話は終わりましたが……奏様は、再来年の話を聞きましたか?」

「再来年?」

「およそ一年半後の未来について――无巫女アンラみこ様や符条様から、何か伝え聞いておりませんか? 再来年の話を知らないと、私の都合も理解できません」

「……マリア姉の肉体が成長を終えて完成し、僕の子供を生む為の準備が整う。僕とマリア姉が祝言を挙げるのは、マリア姉の肉体が完成した後。再来年の元日でなければならない。先生からも同じ話を聞いた」


 奏は賢明に自制心を働かせ、平静を装いながら答えた。

 一体、おゆらが何を考えているのか。想像もつかないが、奏が何も喋らなければ、尋問が進まない。彼女の自信の根拠を掴む為にも、魔女の内側に飛び込む覚悟が必要だ。


无巫女アンラみこ様の御心は、私如きに推察する術はありません。然し符条様は何故、真実を打ち明けないのでしょう? 自分から仕掛けておきながら、未だに奏様を巻き込む覚悟ができていないのか――」

「お前の推測なんか聞いていない。僕に何を隠しているのか――それだけ答えろ」


 語気を強めて命じると、おゆらが妖しく両目を細めた。


「畏まりました。単刀直入に申します」


 さらりとおゆらが応じると、奏は唾を飲み込む。


「およそ一年半後、无巫女アンラみこ様の存在は、現世うつしよを統べる超越者チートとして完成します。それまで頭脳や肉体のみならず、无巫女アンラみこ様が行使する聖呪も成長を続けるのです。たとえ无巫女アンラみこ様御自身であろうと、御身おんみの成長を止める事はできません」

「……何の話をしている?」


 半ば無意識に苛立ちをぶつけたが、おゆらは動揺した素振りも見せず、滔々と奏の許婚について語る。


无巫女アンラみこ様の聖呪の結界は、およそ一年半後に天と地を覆い尽くします。空は太陽を追い越し、海は海原うなばらの続く限り……无巫女アンラみこ様を中心に広がり、この世の全てを併呑します」

「……?」


 荒唐無稽な話に戸惑う奏に、おゆらは真実を語り続ける。


「加えて聖呪の結界が現世うつしよを覆い尽くした時、自動的に第四の聖呪――『暴食ボウショクナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』が発動します。『暴食ボウショクナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』は、无巫女アンラみこ別天津神ことあまつがみを超越し、現世うつしよの摂理を創り変える魔法――」

「だから何を話しているんだ!?」

「確実に起こる未来の事です」


 思わず怒声を発すると、おゆらは穏やかに答えた。


无巫女アンラみこ様の聖呪は、素粒子の創造と支配を司る魔法。ヒトという生き物が電気(電子。レプトン)の信号で動く限り、聖呪の結界に取り込まれた時点で、无巫女アンラみこ様の支配下に置かれます。ヒトだけではありません。脳を持つ全ての生類は、全て同じ結果に至ります。ここまでは、奏様も御承知かと存じます。『暴食ボウショクナル蒼蛇想アオノヘビオモイイ』はその先――全ての脳を持つ生類を統合する魔法。生類の脳内信号を連結させ、思考や情念を共有させる聖呪です」

「――ッ!?」

「全ての生類が思考を共有する世界……我ながら絵空事の如き物言いですね。実際、うつつには起きえぬ事です。無限に等しい情報を共有できるほど、ヒトの脳は便利に設計されておりません。山狗に喰い殺される鼠の思念に耐えられますか? 盗賊に陵辱される生娘の絶望に耐えられますか? 武士に我が子を殺された二親ふたおやの無念に耐えられますか?」


 奏は頬を引き攣らせ、絶望を感じて押し黙る。

 耐えられない。

 耐えられるわけがない。

 己に置き換えれば、如何に恐ろしい事か変わる。

 常盤や難民の事を考えただけで、胸が張り裂けそうに苦しくなるのだ。このうえ、他人の絶望や苦悩を共有する余裕なんてない。奏の精神が保たなくなる。

 奏は知る由もないが、脳医学的に解釈すれば、単純な解答に辿り着く。言語や知識を保存する意味記憶。運動や習慣を保存する手帳記憶。思い出を共有するエピソード記憶。その他の脳機能も容量を超過する。全ての生類と思考を共有しているので、無駄な情報を忘れる事すらできない。

 即ち結論は一つ。


「まあ、簡単に申しますと……およそ一年半後に、人間が絶滅します」


 おゆらは微笑みながら、人類の滅亡を宣言した。




 逆さ磔……掌を裏側(逆さ)にする磔


 別天津神……日本書紀に於いて、天地開闢に関与した創造神

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