第88話 雌伏
未の刻――
狒々神討伐の失敗から、すでに一刻が過ぎていた。
満身創痍の朧は、篠塚邸の裏手で佇んでた。
狒々神討伐で消滅した右腕は、ヒトデ婆の『
自分で傷つけた太腿も重傷だ。
患部に巻きつけた麻布が赤く染まり、殆ど止血の役目を果たしていない。それでも生き
他にも狒々神に投げ飛ばされた時の負傷がある。
毎度の如く、武具庫から無断で拝借した大小を左腰に帯びているが……戦闘を続けられる状態ではない。自分の力で立ち続けていられるのが、傍目にも不思議なくらいだ。
だが、肉体の損傷など些末な事。
彼女の胸中は、
否定砲で右腕を消し飛ばされた時。
生まれて初めて薄気味悪い感覚を覚えた。
肉体的な損傷と関係なく、身体を自由に動かせなかった。背中に冷水を浴びせられたかの如く、全身が凍えて総毛立った。肉体的な震えを抑える事ができず、がちがちと歯を打ち鳴らすしかなかった。
朧と縁のない筈の感情。
鳥肌が立つほどの恐怖を覚えたのだ。
それだけではない。
狒々神が姿を消した時、朧は安堵感を覚えた。
恐怖の呪縛から解き放たれ、傷ついた身体を動かす事ができた。全身を蝕む痛みを感じ取り、ようやく生の実感を得られたのだ。
然し――
許せない。
恐怖で震えた己が許せない。
狒々神の強さに屈した自分が、何よりも許せなかった。自分で太腿に小刀を突き立てても尚、屈辱を討ち払う事はできない。
中二病の矜持を取り戻す為には、狒々神を斃すしかない。自決など安易な道。己の腹を斬るくらいなら、狒々神の首を刎ね飛ばす。恐怖という薄気味悪い感覚を克服し、新たな道を切り拓くのだ。
業腹ではあるが、弥縫策で狒々神は斃せない。事前の準備が必要だ。朧は瞼を閉じて、己の世界に没入する。
暗闇の中に、己の姿を思い浮かべる。
片腕をなくした朧が、暗闇の中で刀を振るう。
否定砲で右腕を消し飛ばされた事で、肉体の重心が変化している。両腕がある時と同じ感覚で身体を動かせば、容易に転倒を引き起こす。片腕を欠損した肉体に、新しい重心を覚え込ませる。
それも一から鍛錬を始める時間はない。
全ては想像の世界で行うのだ。
体勢を変え姿勢を変え角度を変え。
最適の太刀筋を探るべく、延々と大刀を振り回す。
狒々神の肉体を斬り込んだ時の感触は、今も身体に刻み込まれている。後は速度と拍子と角度を調整し、最善の太刀筋を見つけ出す。
こうか?
それともこうか?
己に問い掛けながら、朧の分身が大刀を振り抜く。
少しずつ少しずつ。
何十回も何百回も繰り返しながら。
指に込める力を一匁単位で。
左腕を振るう位置を一分単位で修正する。
瞑想に耽るように、自問を繰り返していると、
「これは一体、どういう事ですの!?」
千鶴の喚声が耳朶を叩き、両目を開けた。
朧から二十間ほど離れた場所で、
当人達にそのつもりがなくても、千鶴と護衛衆の遣り取りは、朧の耳にも届いてくる。甲高い声で現実に引き戻され、朧は苛立たしげに舌打ちをした。
「狒々神討伐が失敗!? 篠塚家の護衛衆が、狒々神に怖じ気づいて逃げ出すなんて……篠塚の家名に泥を塗るおつもりですか!? 奏様や他の分家衆に、如何に申し開きせよと言うのです!」
羽扇子を振り回しながら、興奮して
「貴方達は、それでも誉れ高い
一方的に千鶴が命令すると、佐藤が前方に進み出る。運良く彼も下山できたのだろう。憤怒で顔面を紅潮させ、千鶴に詰め寄った。
「何故、妖怪に従わなければならないのです」
「なんですって!?」
佐藤の物言いに、千鶴が目を丸くした。
「私達は薙原家に騙されていたのです! エクストラニョな妖術でカワウ~ソに操られ、捨て駒の如くデモニモと戦わされたのです! そのうえ、再びアレと戦えだと!? 世間知らずの小娘が! 図に乗るんじゃあない!」
「符条様に騙されていたのは、わたくしも同じですわ! 『
佐藤が声を荒げると、千鶴も興奮して言い返した。
ただ感情の昂ぶりを抑えきれず、薙原家の内部情報を口外しているが、当人は全く気づいていない。
「妖怪同士の争いなど、私の関知する処ではありません」
妖怪に対する嫌悪感を隠そうともせず、佐藤は千鶴を揶揄した。
「な……な……」
千鶴は息を詰まらせて、小さな口をぱくぱくとさせる。
「なんという言い草。それが雇い主に対する物言いですか。当家を愚弄するつもりなら、わたくしにも考えがありますわ」
羽扇子を突きつけて、佐藤の顔を睨んで宣告する。
「佐藤と申しましたか……貴方に
「妖怪の護衛など、此方から願い下げです! 恩賞も不要! 失礼させて頂きます!」
「押忍! 待ってください、佐藤殿!」
佐藤が捨て台詞を吐いて踵を返すと、勘助が大声で呼び止めた。
「何を待つというのです! デモニモが下山するまで待てと言うのですか!?」
「仲間はどうするつもりですか?」
「仲間?」
「押忍! 退却の途中ではぐれて、山の中に取り残された者達です!」
「笠原殿も異な事を仰る」
「押忍! どういう意味ですか?」
「私達は、金銭で雇われた牢人の集まり。同じ主君を戴く朋輩ではありません」
「……」
「他の者にも訊いてみたまえ。再び山に分け入り、仲間を救いたい者がいるかどうか」
芝居じみた仕草で両腕を広げて、佐藤は挑発するように促した。
急に話を振られて、様子見を決め込んでいた兵達が動揺する。
「みなさんも佐藤殿と同じ意見ですか?」
勘助が尋ねると、多くの者が俯き加減で視線を逸らし、無言で俯いてしまった。
「……取り残された者達は哀れと思う。然れど我々も命辛々逃げ延びた身……再び山に分け入る気力など残されておらん」
やや間を置いてから、一人の兵が小さな声で呟いた。
「我々は死力を尽くしたのだ。もう十分であろう」
「残念な事だが……取り残された兵は、諦めるしかあるまい」
「抑も我らは、小賢しい獺に操られていたのだ。そうでなければ、獺を副将に据えるものか」
「そうだ! 我々は妖怪に騙されていたのだ!」
「妖怪の為に戦うなど考えられん。やはり退却こそ賢明であろう」
一人が口火を切ると、他の兵も不満を訴え始めた。下山と同時に『
然し千鶴に不満をぶつけるより、馬喰峠に近づかない言い訳を取り繕う者が多い。先度の敗北で気落ちしており、狒々神や蛇孕村から逃れたいという思いが強く、雇い主の千鶴からも距離を置いていた。
佐藤は我が意を得たりと、仲間思いの勘助を嘲笑する。
「皆の意見は一致しています。仲間を助けたいなら、貴殿が一人で行きなさい。私達は別行動を取らせて貰います」
「お待ちなさい!」
今度は千鶴が、慌てて佐藤を止めた。
急に佐藤が仕切り始めたので、千鶴は焦りを覚えたのだ。
「貴方は、すでに護衛衆ではありません! 勝手に兵を動かす事は許しませんわ!」
「まだ分からないのですか? 妖怪に与する者などいませんよ」
「――ッ!?」
佐藤の暴言に絶句する。
他の兵を見遣ると、千鶴と視線を合わせようとしない。彼の言葉は当を得ている。ようやく彼女は、自分の権威が失墜した事に気づいた。
「お……恩賞望み次第と申した筈ですわ。狒々神を討ち取れば、なんでも好きな物が手に入るのです。今こそ武士の力を示す時では――」
「くどい! 如何に恩賞を吊り上げても、私達の決意は変わりません!」
佐藤に罵声を浴びせられ、千鶴も堪忍袋の緒が切れた。羽扇子を両手で強く握り締め、双眸に涙を浮かべる。
「……母上に言いつけますわ」
「はあ?」
「大坂の母上に、仔細を報告致しますわ! 母上がその気になれば、お前達の出世を妨害するなど造作もない事! 二度と仕官ができないようにしてやりますわ! わたくしに恥を掻かせた事を後悔しなさい!」
癇癪を起こした
「私達を脅すつもりか!?」
怒りに身を任せて、佐藤は脇差に手を掛けた。
「勘助!」
「はっ――」
千鶴の呼び掛けに応じた勘助は、素速く弓に矢を番えて、鏃を佐藤の胴に向けた。
昔から和弓は、諸外国の弓と比べても貫通力が高い。五間程度の間合いなら、容易に当世具足の胴を貫ける。
「笠原殿! 妖怪に与するか!」
「押忍! 自分は護衛衆の中で一番の若輩ですが、護衛衆の中で一番の古株です! 篠塚家には、父の代からの御恩もあります! 仲間を見捨てる者達と御恩を受けた妖怪! どちらかを選ぶなら、
「親子揃って裏切り者か! 北条を裏切りし後は、人を裏切りますか!」
「父上を侮辱するな!
一触即発の状態に、兵達は仰天して佐藤を取り囲んだ。
「落ち着きなされ!」
「泣き叫ぶ娘を斬り捨てても、御家名に傷がつくだけ!」
「一先ず我々で、今後の指針を定める事こそ肝要。一度抜き放てば、議する事すら難しくなり申す」
「そ……そうですね。私も少しばかり取り乱していたようです」
他の兵に押し止められて、佐藤も平静を取り戻す。
泣き喚く小娘を斬り殺しても、後味の悪さが残るだけで、佐藤の立場が良くなるわけではない。それに負け惜しみではあるが、千鶴の言葉が護衛衆を現実に引き戻した。
千鶴自身は、世間知らずの小娘に過ぎない。
然し彼女の母親は、畿内でも有数の有徳人。大名家に匹敵するほどの家蔵を誇り、中央の権益に食い込むほどの影響力を持つ。
無論、本物の大名ではない為、諸侯に奉公構を出す事はできないが、他家の士官話に横槍を入れるくらいなら容易な事。それどころか、妖怪に背を背けて逃げ出した臆病者と、意図的に悪評を広められる。
斯様な事態に陥れば、武士としての再起の道は閉ざされる。最悪、名を変えて遣り直す事もできるが……武門を継いだ彼らに、家名を捨てる度胸はない。何より名を変えてしまえば、これまで積み上げてきた武功も消えてしまう。巷に溢れる野伏と何も変わらなくなるのだ。運良く他家に奉公できたとしても、士分として取り立てられるかどうか。あまりに不利益が多過ぎる。名を捨てるなど論外だ。
今更ながら、佐藤も冷や汗を掻いていた。
勢い任せに千鶴を斬り捨てれば、篠塚家の恨みを買う。その代償は、彼一人の命では済まない。親類縁者に至るまで、報復の対象になる。惣領の短慮が原因で、佐藤家が根絶やしにされてしまう。
散々に暴言を吐いた佐藤は、己の浅慮を悔やんでいた。他の兵が助け船を出そうにも、手遅れと言う他ない。
混乱する護衛衆を遠目に眺めながら、朧は苦笑を禁じ得ない。
「……なんと呑気な有様よ。まるで童の遊びじゃな」
朧の知る敗戦とは、まるで趣が異なる。
合戦で敗北した軍隊とは、理性をなくした暴徒に等しい。自分達が生き残る為に、目の前の集落を襲撃し、食料と女子供を奪い取る。抵抗する者を血祭りに上げ、一軒残らず家屋を焼き払い、略奪の証拠を隠滅。誘拐した女は辱めた後、逃走資金を得る為に、人目のつかない場所で人商人に売り払うのだ。
関ヶ原合戦の後、朧の所属していた西軍の敗残兵は、乱取に励む事で生き延びた。
逆に――
百姓に討ち取られる兵も大勢いた。
合戦が始まる前に、東軍・西軍双方の陣から「敵軍が敗走した際、追い首を取れば、相応の恩賞を与える」と近隣の村落に伝達されていたので、西軍の敗残兵は落ち武者狩りの標的にされた。
乱取の仕返しとばかりに、武装した若衆が敗残兵を殺害し、武具や金銭を奪い取る。合戦で敗れた者に権利など存在しない。憂さ晴らしに嬲り殺そうが、刀や槍を奪い取ろうが、百姓の思うまま。忽然と強者と弱者の立場が入れ替わるのだ。
朧の場合は、落ち武者狩りを返り討ちにする事で、若衆が武士から盗んだ干飯や水を奪い取り、欲望と獣性が渦巻く戦場から離脱した。
地獄の如き敗戦を経験した朧からすれば、護衛衆の挙動は奇妙である。先の事など考えずに、蛇孕村で乱取でも始めるのかと思えば、味方同士で口論に明け暮れる始末。これでは子供の諍いと変わらない。
獺の思考誘導も解除された筈だから、現在の光景は護衛衆の本質を表している。篠塚家の先代当主が、直々に使い易そうな兵を選んだのだろうが……口添えや面接だけで、他人の性情を見抜く事ができるだろうか?
畢竟、篠塚家の妖術か。
朧は心の中で呟き、納得して両目を閉じた。
疑問の解答も得られた。もはや護衛衆に興味はない。再び自分の世界に入り込もうとすると、背後から声を掛けられた。
「吾輩がいない間に手酷くやられたようだな」
「大事ない。この程度の傷、立ち合いに支障は……」
無意識に応えながら、朧は振り向いて絶句した。
黄金の鎧を身に纏う武士が、黄金に輝く槍を携えて、何事もないように佇立しているのだ。『毎日が誕生日』と書かれた旗指物をなびかせ、偉そうに朧を見下ろす姿は、もはや見間違える筈もない。
塙だ。
塙団右衛門直之だ。
狒々神に片手で薙ぎ払われて、遙か彼方に吹き飛ばされた猪武者が、全くの無傷で朧の前に佇んでいる。
「……何故、お主が此処におる?」
「説明せねばなるまい! 吾輩は
「……」
「ゆえに!
塙は泰然と解説を終えた。
対する朧は、無言で瞬きを繰り返した。
何を言うておるのじゃ、此奴は?
有り得ない。
物理的に有り得ない事が起きている。
一町か?
それとも二町だろうか?
正確な飛距離や高さは、朧にも分からない。
だが、美しい放物線を描いて、塙は宙を飛んでいた。受け身が通用する筈がない。仮に塙の言う通り、空中で体勢を立て直して着地できたとしよう。人間の肉体が、着地に衝撃に絶えられるものか。本当に可能であれば、世の中から転落死する者がいなくなる。
否。
それ以前に、狒々神の張り手に耐えられる筈がないのだ。六十八倍以上の体重差を誇る狒々神が放つ張り手。その直撃を受けながら、無傷という事は有り得るのか?
子供の頃から仁王立ちで寝ていたとか、相撲で負けた事がないとか。そういう理由で人間の耐久力が、限界を超えられるものだろうか?
何故、甲冑に傷がついておらぬ?
何故、旗指物も無事なのじゃ?
分からない。
朧の想像を超えている。
これでは
馬鹿甲冑も魔法を使いおると?
朧は頭を振り、根拠のない疑念を振り払う。
急激に血液を失い過ぎて、頭が正常に働いていないようだ。それゆえ、有り得ない結論に辿り着いてしまう。最強の中二病を自認する朧でさえ、魔法の手掛かりすら掴めていないのだ。猪武者の塙如きが、魔法を会得できる筈がない。
おそらく負傷は、ヒトデ婆が戯れに癒やしたのだろう。即死しなければ、『
強引に己を納得させると、朧は護衛衆に視線を向ける。
「……まあ、なんでもよいわ。それより護衛衆を放置しておいてよいのか? 雇い主を泣かせておるぞ!」
「おお! やはり吾輩がいなければ、護衛衆は纏まらぬか」
どこか嬉しそうな様子で、護衛衆筆頭は言い争う部下達に近寄る。
「控えええええい!」
塙の一喝に、護衛衆が仰天した。
「筆頭殿!?」
「生きておられたのですか!?」
「不死身の猛将――塙団右衛門直之が、化け猿如きに討ち取られるものか! 見くびるでないわ!」
戸惑う部下達に、塙が堂間声で答えた。
当然、塙の説明に納得する者などいないが……仔細を尋ねても無駄だろう。困惑する護衛衆を尻目に、筆頭は説教を続ける。
「この有様はなんだ!? 合戦に敗れた腹癒せに、雇い主を責め立てるとは……それでも汝らは
「いや然し……私達は、薙原家に騙されていたのです。
佐藤が抗弁すると、塙は不思議そうに首を傾げた。
「獺の申す事だ。普通は信じるだろう」
「まだ妖怪共に操られているんですか!? 普通、獺は喋りません!」
佐藤が悲鳴のような声を発した。
勿論、すでに思考誘導は解除されている。然し思い込みの激しい塙は、獺を熱田大神の化身と認識しており、妄想と現実の区別がつかなくなっていた。
「誤解致すな。
「次の機会? またデモニモと戦うつもりですか!?」
「愚問である。化け猿を討ち果たす他に、武士道を全うする術はない」
塙が毫も迷わず言い放つと、佐藤は頬を引き攣らせた。
他の護衛衆も同様だ。
再び化け猿と戦えだと?
我らに死ねと言うのか?
多くの護衛衆が無言で拒絶する中、佐藤が怒りの声を上げた。
「ならば、如何にしてデモニモを討ち取る所存か!? この村で待ち構えたとしても、私達に勝ち目はありません!」
「吾輩は天下夢中の英雄――塙団右衛門直之! 勝機を見出せぬのであれば、己の力で勝機を生み出す! 吾輩は退却戦を望む!」
「退却戦?」
「如何にも! この村で化け猿と戦えば、無辜の民が巻き添えとなろう! 無論、民草も妖怪の類であれば、我々が守る理由もないが――我々に化け猿退治を命ずるという事は、自分達の手に負えぬという証! 怪しげな妖術を使う妖怪は、村落を支配する統治者のみと判断する! ならば、力無き百姓を守りながら、化け猿の追撃を防ぐのだ!」
「……」
「吾輩の知る限り、村外に通じておるのは、峠の一本道のみ! 狭い山道へ誘い込めば、化け猿も自由に動けまい! 時を稼げば、罠を仕掛ける事もできよう! 避難する民を守りながら、化物を討ち果たす! 一挙両得の策である!」
塙が得意げに語り終えた途端、辺りは静寂に包まれた。
「成程……それは妙案ですね」
暫時の後、佐藤の表情が緩んだ。
「流石は筆頭殿。退却戦なら地の利を得られよう」
「仰る通り。民の安全こそ第一」
「筆頭殿に賛同致す」
「異存ござらん」
ようやく理解が追いついた護衛衆も、安堵の表情で追従した。
塙は本気で狒々神と戦うつもりだが――護衛衆は違う。民衆を護衛しながらの撤退戦なら、狒々神と遭遇する可能性は低い。つまり『民を守る為に止む無く』という大義名分を得て、堂々と蛇孕村から逃亡できる。『妖怪を恐れて敗走した』と『武具を持たぬ民が避難するまで、妖怪相手に
護衛衆は納得したが、勘助は納得できない。
「筆頭殿! 自分は退却戦に反対です!」
「理由を聞こう」
「押忍! 退却し損ねた仲間達が、山の中に取り残されています! 仲間達を救う為に、此方から山に分け入るべきです!」
勘助が神妙に言うと、他の護衛衆が難色を示す。
「笠原殿……まだ左様な事を」
「もう決めた事なのだ。堪えてくれ」
「然し――」
「犬とも言え畜生とも言え。勝つ事が本にて候」
塙が低い声で、勘助の反駁を遮った。
「汝も存じておろう。越前の武将――
「……」
「武士は勝つ事が本。仲間を救う事が本ではない。目的を見誤るな」
「民を守る事が目的と?」
「左様。武士道とは、意味もなく死ぬる事ではない。目的の為に死ぬるのだ。仲間を守る為に山へ分け入り、さらに多くの仲間を喪えば本末転倒。今一度言う。笠原よ、目的を見誤るな」
「……押忍。配慮が至りませんでした」
勘助は沈痛な面持ちで頭を垂れた。
塙の言葉に納得したわけではないが、この期に及んでは、自分が折れるしかないと悟らされたのだろう。
最後まで納得できないのは、雇い主の千鶴である。
「民の避難など認められませんわ! それでは、篠塚家が狒々神討伐に失敗したと、他の分家衆に喧伝するようなものではありませんか!」
先程まで泣いていた千鶴が、半ば狂乱したように叫んだ。
「斯様な事態に陥れば、篠塚家が物笑いの種になります! それどころか、御家が断絶してもおかしくありませんわ! 貴方達は篠塚家は潰すおつもりですか!」
「潰すも潰さぬも……この村で化け猿と戦えば、他の分家とやらも全滅致そう。篠塚家を非難する者はおろか、守るべき民すらいなくなるぞ。この村が壊滅するのだからな。先の事を案じておる場合か?」
「……」
塙の言い分に、千鶴は言葉を失う。
非常食に過ぎない住民が全滅しようと、千鶴は全く興味がない。それより問題は、分家衆が根絶やしにされた場合だ。他の分家衆が死に絶え、篠塚家だけ生き残れば……薙原本家は、篠塚家の失態を許さない。御家断絶どころか、
「わ……わたくしの一存では決められませんわ。母上と相談した後、評定を行わなければ……」
千鶴は、青白い顔で呟いた。
塙は顎に右手を当て、ふぬんと鼻を鳴らす。
「今から評定を行う時間などあるまい。最初に妖怪退治を命じた若者……薙原家の奏殿と申したか? 千鶴殿が判断できぬのであれば、彼の者に下知を賜るがよろしかろう」
「そうですわ。奏様の御命なら、篠塚の家名に傷がつかないかも……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、千鶴は本家屋敷を目指して歩く。
奏と面会できるかどうか分からない。今頃、奸臣の尋問をしている筈だ。精神的に追い詰められた奏に、狒々神討伐に関わる余裕はないだろう。自分の手に負えないと判断したから、護衛衆に狒々神討伐を一任したのである。
「……」
朧は千鶴から視線を逸らし、遠目に塙を見据えた。
知れば知るほど、奇妙な武士である。
珍妙な身形と裏腹に、道理を説いて部下達を纏めている。寄せ集めの兵を糾合する統率力を持ちながら、合戦が始まると一番鑓を競い、部隊の指揮権を放棄する。世の中には、凄まじい馬鹿もいたものだ。
朧は、
徳川四天王の一人――井伊直政は、徳川家康が最も信頼する家臣の一人。旧武田家臣団を預けられ、『井伊の
無論、外見も知性も名声も家柄も才能も器量も品性も――何もかも直政に遠く及ばないが、血気盛んな方が武功を立て易い。戦場で命を擲つ猪武者ほど、意外に主君から重宝されるものだ。
尤も日本屈指の精鋭部隊と異なり、護衛衆は経験不足の若輩ばかり。部隊の指揮権を譲渡できそうな副将もいない。仮に狒々神と再戦するとしても、獺は関与しないだろう。つまり戦い方を変えた処で、護衛衆に勝ち目はない。
合戦で狒々神を討ち取るのであれば、大将を変えねば――
途中まで考えて、朧は思考を停止させた。
護衛衆の勝ち負けなど、朧が考えても詮無い事。
朧は、己を一振りの太刀と心得ている。
太刀に思念など不要。
刀の鍛錬と同じだ。
自らの本分に立ち返るべく、再び己の世界に没入する。
暗闇に閉ざされた世界で、朧は幾度も太刀を振るう。抜き身の刀を研ぐように、自身の太刀筋を磨いていく。
強引に。丁寧に。慎重に。大胆に。精密に。乱雑に。精密に。執拗に。無造作に。意図的に。丹念に。入念に。
加えて確実に――
渡辺朧という太刀は、切れ味を増していった。
未の刻……午後二時
一刻……二時間
一匁……約3.75g
一分……約3mm
二十間……約37.8m
エクストラニョ……スペイン語で奇妙
五間……約9.45m
行住坐臥……日常の立ち居振る舞い
一町……約113.4m
二町……約226.8m
アヘドーレス……南蛮の将棋
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