第88話 雌伏

 未の刻――

 狒々神討伐の失敗から、すでに一刻が過ぎていた。

 満身創痍の朧は、篠塚邸の裏手で佇んでた。

 狒々神討伐で消滅した右腕は、ヒトデ婆の『起死再生きしさいせい』でも元通りにならないだろう。二の腕をたすきで縛り、傷口を上方に掲げている。止血点の圧迫と応急処置で血を止めているが、完全に出血を防ぐ事はできない。ぽたりぽたりと、少量の血液が滴り落ちていた。

 自分で傷つけた太腿も重傷だ。

 患部に巻きつけた麻布が赤く染まり、殆ど止血の役目を果たしていない。それでも生きながえているのは、左太腿の筋肉を強張らせ、強引に刀傷を塞いでいるからだ。

 他にも狒々神に投げ飛ばされた時の負傷がある。

 後頭骨こうとうこつ及び頤結節おとがいけっせつ下顎枝かがくし上顎骨じょうがくこつ右眼窩底みぎがんかていに多数の亀裂骨折。肋骨ろっこつ五ヶ所に骨折。頸骨けいこつ背骨せぼね尾骨びこつに至るまで捻挫ねんざ。左手と両脚に軽度の捻挫及び炎症えんしょう。全身余す所なく皮下出血。他にも数カ所の骨折・捻挫・炎症――

 毎度の如く、武具庫から無断で拝借した大小を左腰に帯びているが……戦闘を続けられる状態ではない。自分の力で立ち続けていられるのが、傍目にも不思議なくらいだ。

 だが、肉体の損傷など些末な事。

 彼女の胸中は、会稽かいけいの恥をそそぐ一念しかない。

 否定砲で右腕を消し飛ばされた時。

 生まれて初めて薄気味悪い感覚を覚えた。

 肉体的な損傷と関係なく、身体を自由に動かせなかった。背中に冷水を浴びせられたかの如く、全身が凍えて総毛立った。肉体的な震えを抑える事ができず、がちがちと歯を打ち鳴らすしかなかった。

 朧と縁のない筈の感情。

 鳥肌が立つほどの恐怖を覚えたのだ。

 それだけではない。

 狒々神が姿を消した時、朧は安堵感を覚えた。

 恐怖の呪縛から解き放たれ、傷ついた身体を動かす事ができた。全身を蝕む痛みを感じ取り、ようやく生の実感を得られたのだ。

 然し――

 許せない。

 恐怖で震えた己が許せない。

 狒々神の強さに屈した自分が、何よりも許せなかった。自分で太腿に小刀を突き立てても尚、屈辱を討ち払う事はできない。

 中二病の矜持を取り戻す為には、狒々神を斃すしかない。自決など安易な道。己の腹を斬るくらいなら、狒々神の首を刎ね飛ばす。恐怖という薄気味悪い感覚を克服し、新たな道を切り拓くのだ。

 業腹ではあるが、弥縫策で狒々神は斃せない。事前の準備が必要だ。朧は瞼を閉じて、己の世界に没入する。

 暗闇の中に、己の姿を思い浮かべる。

 片腕をなくした朧が、暗闇の中で刀を振るう。

 否定砲で右腕を消し飛ばされた事で、肉体の重心が変化している。両腕がある時と同じ感覚で身体を動かせば、容易に転倒を引き起こす。片腕を欠損した肉体に、新しい重心を覚え込ませる。

 それも一から鍛錬を始める時間はない。

 全ては想像の世界で行うのだ。

 体勢を変え姿勢を変え角度を変え。

 最適の太刀筋を探るべく、延々と大刀を振り回す。

 狒々神の肉体を斬り込んだ時の感触は、今も身体に刻み込まれている。後は速度と拍子と角度を調整し、最善の太刀筋を見つけ出す。


 こうか?

 それともこうか?


 己に問い掛けながら、朧の分身が大刀を振り抜く。

 少しずつ少しずつ。

 何十回も何百回も繰り返しながら。

 指に込める力を一匁単位で。

 左腕を振るう位置を一分単位で修正する。

 瞑想に耽るように、自問を繰り返していると、


「これは一体、どういう事ですの!?」


 千鶴の喚声が耳朶を叩き、両目を開けた。

 朧から二十間ほど離れた場所で、人集ひとだかりができていた。落ち延びた三十名余りの護衛衆が、千鶴から問責を受けている。

 当人達にそのつもりがなくても、千鶴と護衛衆の遣り取りは、朧の耳にも届いてくる。甲高い声で現実に引き戻され、朧は苛立たしげに舌打ちをした。


「狒々神討伐が失敗!? 篠塚家の護衛衆が、狒々神に怖じ気づいて逃げ出すなんて……篠塚の家名に泥を塗るおつもりですか!? 奏様や他の分家衆に、如何に申し開きせよと言うのです!」


 羽扇子を振り回しながら、興奮してまくし立てる。


「貴方達は、それでも誉れ高い武士もののふですか!? 今すぐ軍を整え直し、狒々神討伐へ向かいなさい! 一刻も早く狒々神の首級みしるしを挙げるのです!」


 一方的に千鶴が命令すると、佐藤が前方に進み出る。運良く彼も下山できたのだろう。憤怒で顔面を紅潮させ、千鶴に詰め寄った。


「何故、妖怪に従わなければならないのです」

「なんですって!?」


 佐藤の物言いに、千鶴が目を丸くした。


「私達は薙原家に騙されていたのです! エクストラニョな妖術でカワウ~ソに操られ、捨て駒の如くデモニモと戦わされたのです! そのうえ、再びアレと戦えだと!? 世間知らずの小娘が! 図に乗るんじゃあない!」

「符条様に騙されていたのは、わたくしも同じですわ! 『睡蓮祈願すいれんきがん』で操られていなければ、護衛衆の軍目付に獺を同行させたり致しませんもの! 第一、符条様は蛇孕村から追放されているのです! 今や薙原家と敵対する間柄! 篠塚家と一切拘わりありませんわ!」


 佐藤が声を荒げると、千鶴も興奮して言い返した。

 ただ感情の昂ぶりを抑えきれず、薙原家の内部情報を口外しているが、当人は全く気づいていない。


「妖怪同士の争いなど、私の関知する処ではありません」


 妖怪に対する嫌悪感を隠そうともせず、佐藤は千鶴を揶揄した。


「な……な……」


 千鶴は息を詰まらせて、小さな口をぱくぱくとさせる。


「なんという言い草。それが雇い主に対する物言いですか。当家を愚弄するつもりなら、わたくしにも考えがありますわ」


 羽扇子を突きつけて、佐藤の顔を睨んで宣告する。


「佐藤と申しましたか……貴方にいとまを差し上げます! 今すぐこの場より立ち去りなさい! 篠塚家の護衛衆に、無礼者はいりませんわ!」

「妖怪の護衛など、此方から願い下げです! 恩賞も不要! 失礼させて頂きます!」

「押忍! 待ってください、佐藤殿!」


 佐藤が捨て台詞を吐いて踵を返すと、勘助が大声で呼び止めた。


「何を待つというのです! デモニモが下山するまで待てと言うのですか!?」

「仲間はどうするつもりですか?」

「仲間?」

「押忍! 退却の途中ではぐれて、山の中に取り残された者達です!」

「笠原殿も異な事を仰る」

「押忍! どういう意味ですか?」

「私達は、金銭で雇われた牢人の集まり。同じ主君を戴く朋輩ではありません」

「……」

「他の者にも訊いてみたまえ。再び山に分け入り、仲間を救いたい者がいるかどうか」


 芝居じみた仕草で両腕を広げて、佐藤は挑発するように促した。

 急に話を振られて、様子見を決め込んでいた兵達が動揺する。


「みなさんも佐藤殿と同じ意見ですか?」


 勘助が尋ねると、多くの者が俯き加減で視線を逸らし、無言で俯いてしまった。


「……取り残された者達は哀れと思う。然れど我々も命辛々逃げ延びた身……再び山に分け入る気力など残されておらん」


 やや間を置いてから、一人の兵が小さな声で呟いた。


「我々は死力を尽くしたのだ。もう十分であろう」

「残念な事だが……取り残された兵は、諦めるしかあるまい」

「抑も我らは、小賢しい獺に操られていたのだ。そうでなければ、獺を副将に据えるものか」

「そうだ! 我々は妖怪に騙されていたのだ!」

「妖怪の為に戦うなど考えられん。やはり退却こそ賢明であろう」


 一人が口火を切ると、他の兵も不満を訴え始めた。下山と同時に『睡蓮祈願すいれんきがん』の効果が切れた所為で、薙原家に対する不信感が心の底から溢れ出てきたのだ。

 然し千鶴に不満をぶつけるより、馬喰峠に近づかない言い訳を取り繕う者が多い。先度の敗北で気落ちしており、狒々神や蛇孕村から逃れたいという思いが強く、雇い主の千鶴からも距離を置いていた。

 佐藤は我が意を得たりと、仲間思いの勘助を嘲笑する。


「皆の意見は一致しています。仲間を助けたいなら、貴殿が一人で行きなさい。私達は別行動を取らせて貰います」

「お待ちなさい!」


 今度は千鶴が、慌てて佐藤を止めた。

 急に佐藤が仕切り始めたので、千鶴は焦りを覚えたのだ。


「貴方は、すでに護衛衆ではありません! 勝手に兵を動かす事は許しませんわ!」

「まだ分からないのですか? 妖怪に与する者などいませんよ」

「――ッ!?」


 佐藤の暴言に絶句する。

 他の兵を見遣ると、千鶴と視線を合わせようとしない。彼の言葉は当を得ている。ようやく彼女は、自分の権威が失墜した事に気づいた。


「お……恩賞望み次第と申した筈ですわ。狒々神を討ち取れば、なんでも好きな物が手に入るのです。今こそ武士の力を示す時では――」

「くどい! 如何に恩賞を吊り上げても、私達の決意は変わりません!」


 佐藤に罵声を浴びせられ、千鶴も堪忍袋の緒が切れた。羽扇子を両手で強く握り締め、双眸に涙を浮かべる。


「……母上に言いつけますわ」

「はあ?」

「大坂の母上に、仔細を報告致しますわ! 母上がその気になれば、お前達の出世を妨害するなど造作もない事! 二度と仕官ができないようにしてやりますわ! わたくしに恥を掻かせた事を後悔しなさい!」


 癇癪を起こした女童めのわらわのように、恥も外聞もなく喚き散らす。


「私達を脅すつもりか!?」


 怒りに身を任せて、佐藤は脇差に手を掛けた。


「勘助!」

「はっ――」


 千鶴の呼び掛けに応じた勘助は、素速く弓に矢を番えて、鏃を佐藤の胴に向けた。

 昔から和弓は、諸外国の弓と比べても貫通力が高い。五間程度の間合いなら、容易に当世具足の胴を貫ける。


「笠原殿! 妖怪に与するか!」

「押忍! 自分は護衛衆の中で一番の若輩ですが、護衛衆の中で一番の古株です! 篠塚家には、父の代からの御恩もあります! 仲間を見捨てる者達と御恩を受けた妖怪! どちらかを選ぶなら、大恩たいおんある妖怪を選びます! 押忍!」

「親子揃って裏切り者か! 北条を裏切りし後は、人を裏切りますか!」

「父上を侮辱するな! 射殺いころすぞ!」


 一触即発の状態に、兵達は仰天して佐藤を取り囲んだ。


「落ち着きなされ!」

「泣き叫ぶ娘を斬り捨てても、御家名に傷がつくだけ!」

「一先ず我々で、今後の指針を定める事こそ肝要。一度抜き放てば、議する事すら難しくなり申す」

「そ……そうですね。私も少しばかり取り乱していたようです」


 他の兵に押し止められて、佐藤も平静を取り戻す。

 泣き喚く小娘を斬り殺しても、後味の悪さが残るだけで、佐藤の立場が良くなるわけではない。それに負け惜しみではあるが、千鶴の言葉が護衛衆を現実に引き戻した。

 千鶴自身は、世間知らずの小娘に過ぎない。

 然し彼女の母親は、畿内でも有数の有徳人。大名家に匹敵するほどの家蔵を誇り、中央の権益に食い込むほどの影響力を持つ。

 無論、本物の大名ではない為、諸侯に奉公構を出す事はできないが、他家の士官話に横槍を入れるくらいなら容易な事。それどころか、妖怪に背を背けて逃げ出した臆病者と、意図的に悪評を広められる。

 斯様な事態に陥れば、武士としての再起の道は閉ざされる。最悪、名を変えて遣り直す事もできるが……武門を継いだ彼らに、家名を捨てる度胸はない。何より名を変えてしまえば、これまで積み上げてきた武功も消えてしまう。巷に溢れる野伏と何も変わらなくなるのだ。運良く他家に奉公できたとしても、士分として取り立てられるかどうか。あまりに不利益が多過ぎる。名を捨てるなど論外だ。

 今更ながら、佐藤も冷や汗を掻いていた。

 勢い任せに千鶴を斬り捨てれば、篠塚家の恨みを買う。その代償は、彼一人の命では済まない。親類縁者に至るまで、報復の対象になる。惣領の短慮が原因で、佐藤家が根絶やしにされてしまう。

 散々に暴言を吐いた佐藤は、己の浅慮を悔やんでいた。他の兵が助け船を出そうにも、手遅れと言う他ない。

 混乱する護衛衆を遠目に眺めながら、朧は苦笑を禁じ得ない。


「……なんと呑気な有様よ。まるで童の遊びじゃな」


 朧の知る敗戦とは、まるで趣が異なる。

 合戦で敗北した軍隊とは、理性をなくした暴徒に等しい。自分達が生き残る為に、目の前の集落を襲撃し、食料と女子供を奪い取る。抵抗する者を血祭りに上げ、一軒残らず家屋を焼き払い、略奪の証拠を隠滅。誘拐した女は辱めた後、逃走資金を得る為に、人目のつかない場所で人商人に売り払うのだ。

 関ヶ原合戦の後、朧の所属していた西軍の敗残兵は、乱取に励む事で生き延びた。

 逆に――

 百姓に討ち取られる兵も大勢いた。

 合戦が始まる前に、東軍・西軍双方の陣から「敵軍が敗走した際、追い首を取れば、相応の恩賞を与える」と近隣の村落に伝達されていたので、西軍の敗残兵は落ち武者狩りの標的にされた。

 乱取の仕返しとばかりに、武装した若衆が敗残兵を殺害し、武具や金銭を奪い取る。合戦で敗れた者に権利など存在しない。憂さ晴らしに嬲り殺そうが、刀や槍を奪い取ろうが、百姓の思うまま。忽然と強者と弱者の立場が入れ替わるのだ。

 朧の場合は、落ち武者狩りを返り討ちにする事で、若衆が武士から盗んだ干飯や水を奪い取り、欲望と獣性が渦巻く戦場から離脱した。

 地獄の如き敗戦を経験した朧からすれば、護衛衆の挙動は奇妙である。先の事など考えずに、蛇孕村で乱取でも始めるのかと思えば、味方同士で口論に明け暮れる始末。これでは子供の諍いと変わらない。

 獺の思考誘導も解除された筈だから、現在の光景は護衛衆の本質を表している。篠塚家の先代当主が、直々に使い易そうな兵を選んだのだろうが……口添えや面接だけで、他人の性情を見抜く事ができるだろうか?


 畢竟、篠塚家の妖術か。


 朧は心の中で呟き、納得して両目を閉じた。

 疑問の解答も得られた。もはや護衛衆に興味はない。再び自分の世界に入り込もうとすると、背後から声を掛けられた。


「吾輩がいない間に手酷くやられたようだな」

「大事ない。この程度の傷、立ち合いに支障は……」


 無意識に応えながら、朧は振り向いて絶句した。

 黄金の鎧を身に纏う武士が、黄金に輝く槍を携えて、何事もないように佇立しているのだ。『毎日が誕生日』と書かれた旗指物をなびかせ、偉そうに朧を見下ろす姿は、もはや見間違える筈もない。

 塙だ。

 塙団右衛門直之だ。

 狒々神に片手で薙ぎ払われて、遙か彼方に吹き飛ばされた猪武者が、全くの無傷で朧の前に佇んでいる。


「……何故、お主が此処におる?」

「説明せねばなるまい! 吾輩は不撓ふとうの猛将――塙団右衛門直之! 物心ついた時より、行住坐臥ぎょうじゅうざが幽玄オサレと心得る! 睡眠を取る時は、常に槍を携えて佇立不動! 力士と立ち合うても、地に背をつけた事はない! 戦場であれば尚の事! 先度も化け猿に弾き飛ばされたが、空中で身体を回転させ、華麗に着地を決めたのだ!」

「……」

「ゆえに! 何人なんぴとたりとも吾輩を倒す事はできないのである!」


 塙は泰然と解説を終えた。

 対する朧は、無言で瞬きを繰り返した。


 何を言うておるのじゃ、此奴は?


 有り得ない。

 物理的に有り得ない事が起きている。

 一町か?

 それとも二町だろうか?

 正確な飛距離や高さは、朧にも分からない。

 だが、美しい放物線を描いて、塙は宙を飛んでいた。受け身が通用する筈がない。仮に塙の言う通り、空中で体勢を立て直して着地できたとしよう。人間の肉体が、着地に衝撃に絶えられるものか。本当に可能であれば、世の中から転落死する者がいなくなる。

 否。

 それ以前に、狒々神の張り手に耐えられる筈がないのだ。六十八倍以上の体重差を誇る狒々神が放つ張り手。その直撃を受けながら、無傷という事は有り得るのか?

 子供の頃から仁王立ちで寝ていたとか、相撲で負けた事がないとか。そういう理由で人間の耐久力が、限界を超えられるものだろうか?


 何故、甲冑に傷がついておらぬ?

 何故、旗指物も無事なのじゃ?


 分からない。

 朧の想像を超えている。

 これでは超越者チートと同じではないか。


 馬鹿甲冑も魔法を使いおると?


 朧は頭を振り、根拠のない疑念を振り払う。

 急激に血液を失い過ぎて、頭が正常に働いていないようだ。それゆえ、有り得ない結論に辿り着いてしまう。最強の中二病を自認する朧でさえ、魔法の手掛かりすら掴めていないのだ。猪武者の塙如きが、魔法を会得できる筈がない。

 おそらく負傷は、ヒトデ婆が戯れに癒やしたのだろう。即死しなければ、『起死再生きしさいせい』で治療も可能。黄金の当世具足や『毎日が誕生日』の旗指物も、事前に予備を用意していたのだろう。なんとも銭の掛かる話だ。

 強引に己を納得させると、朧は護衛衆に視線を向ける。


「……まあ、なんでもよいわ。それより護衛衆を放置しておいてよいのか? 雇い主を泣かせておるぞ!」

「おお! やはり吾輩がいなければ、護衛衆は纏まらぬか」


 どこか嬉しそうな様子で、護衛衆筆頭は言い争う部下達に近寄る。


「控えええええい!」


 塙の一喝に、護衛衆が仰天した。


「筆頭殿!?」

「生きておられたのですか!?」

「不死身の猛将――塙団右衛門直之が、化け猿如きに討ち取られるものか! 見くびるでないわ!」


 戸惑う部下達に、塙が堂間声で答えた。

 当然、塙の説明に納得する者などいないが……仔細を尋ねても無駄だろう。困惑する護衛衆を尻目に、筆頭は説教を続ける。


「この有様はなんだ!? 合戦に敗れた腹癒せに、雇い主を責め立てるとは……それでも汝らは武士もののふか! 恥を知れい!」

「いや然し……私達は、薙原家に騙されていたのです。彼奴きゃつらは、エクストラニョな妖術で我々を操り、危険な妖怪退治を強要した。貴殿も獺の口車に乗せられて、アヘドーレスの駒のように利用されたではありませんか。妖怪共に執着する理由がどこにあるというのです?」


 佐藤が抗弁すると、塙は不思議そうに首を傾げた。


「獺の申す事だ。普通は信じるだろう」

「まだ妖怪共に操られているんですか!? 普通、獺は喋りません!」


 佐藤が悲鳴のような声を発した。

 勿論、すでに思考誘導は解除されている。然し思い込みの激しい塙は、獺を熱田大神の化身と認識しており、妄想と現実の区別がつかなくなっていた。


「誤解致すな。彼奴きゃつらを庇うつもりはない。雇い主が我々を謀り、死地に向かわせたは、真に許し難い事である。然れど化け猿に後れを取り、無様に撤退してきた我々が、雇い主の非を鳴らしても詮無い事。力及ばず敗北した事実を受け止め、次の機会に活かすべきであろう」

「次の機会? またデモニモと戦うつもりですか!?」

「愚問である。化け猿を討ち果たす他に、武士道を全うする術はない」


 塙が毫も迷わず言い放つと、佐藤は頬を引き攣らせた。

 他の護衛衆も同様だ。


 再び化け猿と戦えだと?

 我らに死ねと言うのか?


 多くの護衛衆が無言で拒絶する中、佐藤が怒りの声を上げた。


「ならば、如何にしてデモニモを討ち取る所存か!? この村で待ち構えたとしても、私達に勝ち目はありません!」

「吾輩は天下夢中の英雄――塙団右衛門直之! 勝機を見出せぬのであれば、己の力で勝機を生み出す! 吾輩は退却戦を望む!」

「退却戦?」

「如何にも! この村で化け猿と戦えば、無辜の民が巻き添えとなろう! 無論、民草も妖怪の類であれば、我々が守る理由もないが――我々に化け猿退治を命ずるという事は、自分達の手に負えぬという証! 怪しげな妖術を使う妖怪は、村落を支配する統治者のみと判断する! ならば、力無き百姓を守りながら、化け猿の追撃を防ぐのだ!」

「……」

「吾輩の知る限り、村外に通じておるのは、峠の一本道のみ! 狭い山道へ誘い込めば、化け猿も自由に動けまい! 時を稼げば、罠を仕掛ける事もできよう! 避難する民を守りながら、化物を討ち果たす! 一挙両得の策である!」


 塙が得意げに語り終えた途端、辺りは静寂に包まれた。


「成程……それは妙案ですね」


 暫時の後、佐藤の表情が緩んだ。


「流石は筆頭殿。退却戦なら地の利を得られよう」

「仰る通り。民の安全こそ第一」

「筆頭殿に賛同致す」

「異存ござらん」


 ようやく理解が追いついた護衛衆も、安堵の表情で追従した。

 塙は本気で狒々神と戦うつもりだが――護衛衆は違う。民衆を護衛しながらの撤退戦なら、狒々神と遭遇する可能性は低い。つまり『民を守る為に止む無く』という大義名分を得て、堂々と蛇孕村から逃亡できる。『妖怪を恐れて敗走した』と『武具を持たぬ民が避難するまで、妖怪相手に殿軍しんがりを務めた』では、天と地ほども外聞が変わる。武士の一分も立つ。不要な泥を被る心配もない。村落の住民を避難させる場所は、八王子辺りが妥当であろう。

 護衛衆は納得したが、勘助は納得できない。


「筆頭殿! 自分は退却戦に反対です!」

「理由を聞こう」

「押忍! 退却し損ねた仲間達が、山の中に取り残されています! 仲間達を救う為に、此方から山に分け入るべきです!」


 勘助が神妙に言うと、他の護衛衆が難色を示す。


「笠原殿……まだ左様な事を」

「もう決めた事なのだ。堪えてくれ」

「然し――」

「犬とも言え畜生とも言え。勝つ事が本にて候」


 塙が低い声で、勘助の反駁を遮った。


「汝も存じておろう。越前の武将――朝倉宗滴あさくらそうてきが武士の心構えを説いた言葉だ」

「……」

「武士は勝つ事が本。仲間を救う事が本ではない。目的を見誤るな」

「民を守る事が目的と?」

「左様。武士道とは、意味もなく死ぬる事ではない。目的の為に死ぬるのだ。仲間を守る為に山へ分け入り、さらに多くの仲間を喪えば本末転倒。今一度言う。笠原よ、目的を見誤るな」

「……押忍。配慮が至りませんでした」


 勘助は沈痛な面持ちで頭を垂れた。

 塙の言葉に納得したわけではないが、この期に及んでは、自分が折れるしかないと悟らされたのだろう。

 最後まで納得できないのは、雇い主の千鶴である。


「民の避難など認められませんわ! それでは、篠塚家が狒々神討伐に失敗したと、他の分家衆に喧伝するようなものではありませんか!」


 先程まで泣いていた千鶴が、半ば狂乱したように叫んだ。


「斯様な事態に陥れば、篠塚家が物笑いの種になります! それどころか、御家が断絶してもおかしくありませんわ! 貴方達は篠塚家は潰すおつもりですか!」

「潰すも潰さぬも……この村で化け猿と戦えば、他の分家とやらも全滅致そう。篠塚家を非難する者はおろか、守るべき民すらいなくなるぞ。この村が壊滅するのだからな。先の事を案じておる場合か?」

「……」


 塙の言い分に、千鶴は言葉を失う。

 非常食に過ぎない住民が全滅しようと、千鶴は全く興味がない。それより問題は、分家衆が根絶やしにされた場合だ。他の分家衆が死に絶え、篠塚家だけ生き残れば……薙原本家は、篠塚家の失態を許さない。御家断絶どころか、无巫女アンラみこの手で粛清されかねない。


「わ……わたくしの一存では決められませんわ。母上と相談した後、評定を行わなければ……」


 千鶴は、青白い顔で呟いた。

 塙は顎に右手を当て、ふぬんと鼻を鳴らす。


「今から評定を行う時間などあるまい。最初に妖怪退治を命じた若者……薙原家の奏殿と申したか? 千鶴殿が判断できぬのであれば、彼の者に下知を賜るがよろしかろう」

「そうですわ。奏様の御命なら、篠塚の家名に傷がつかないかも……」


 ぶつぶつと独り言を呟きながら、千鶴は本家屋敷を目指して歩く。

 奏と面会できるかどうか分からない。今頃、奸臣の尋問をしている筈だ。精神的に追い詰められた奏に、狒々神討伐に関わる余裕はないだろう。自分の手に負えないと判断したから、護衛衆に狒々神討伐を一任したのである。


「……」


 朧は千鶴から視線を逸らし、遠目に塙を見据えた。

 知れば知るほど、奇妙な武士である。

 珍妙な身形と裏腹に、道理を説いて部下達を纏めている。寄せ集めの兵を糾合する統率力を持ちながら、合戦が始まると一番鑓を競い、部隊の指揮権を放棄する。世の中には、凄まじい馬鹿もいたものだ。

 朧は、井伊いい直政なおまさの逸話を思い出した。

 徳川四天王の一人――井伊直政は、徳川家康が最も信頼する家臣の一人。旧武田家臣団を預けられ、『井伊の赤備あかぞなえ』と呼ばれる精鋭部隊を率い、戦場で抜群の武功を立て、小姓から大名に取り立てられた。政治手腕や外交手腕も優れており、最強の戦国大名の一人と呼び声も高い。殆ど非の打ち所のない武将だが、血気に逸る性分だけは抑えられなかった。合戦が始まると、部隊の指揮権を家宰の木俣きまた守勝もりかつに譲り、単騎で敵軍に突撃してしまうのだ。

 無論、外見も知性も名声も家柄も才能も器量も品性も――何もかも直政に遠く及ばないが、血気盛んな方が武功を立て易い。戦場で命を擲つ猪武者ほど、意外に主君から重宝されるものだ。

 尤も日本屈指の精鋭部隊と異なり、護衛衆は経験不足の若輩ばかり。部隊の指揮権を譲渡できそうな副将もいない。仮に狒々神と再戦するとしても、獺は関与しないだろう。つまり戦い方を変えた処で、護衛衆に勝ち目はない。


 合戦で狒々神を討ち取るのであれば、大将を変えねば――


 途中まで考えて、朧は思考を停止させた。

 護衛衆の勝ち負けなど、朧が考えても詮無い事。

 朧は、己を一振りの太刀と心得ている。

 太刀に思念など不要。

 刀の鍛錬と同じだ。

 蹈鞴吹たたらぶきで砂鉄から不純物を抜き出し、冷水で冷却して余分な炭素を剥がし落とす。無用な雑念は、刀の鋭さを落とす不純物に他ならない。

 自らの本分に立ち返るべく、再び己の世界に没入する。

 暗闇に閉ざされた世界で、朧は幾度も太刀を振るう。抜き身の刀を研ぐように、自身の太刀筋を磨いていく。

 強引に。丁寧に。慎重に。大胆に。精密に。乱雑に。精密に。執拗に。無造作に。意図的に。丹念に。入念に。

 加えて確実に――

 渡辺朧という太刀は、切れ味を増していった。




 未の刻……午後二時


 一刻……二時間


 一匁……約3.75g


 一分……約3mm


 二十間……約37.8m


 エクストラニョ……スペイン語で奇妙


 五間……約9.45m


 行住坐臥……日常の立ち居振る舞い


 一町……約113.4m


 二町……約226.8m


 アヘドーレス……南蛮の将棋

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