第86話 猛威
朧は妖怪ではない。
まだ五町は離れているだろうか。鳥獣や羽虫の類が姿を消し、馬喰峠が静寂で満たされていた為、普段より感覚が研ぎ澄まされているのだ。
「近いな」
遠方を眺めながら、朧は独白のように呟いた。
「狒々神も我々の気配に気づいたようだ。真っ直ぐ此方に近づいてくるぞ」
「……」
獺の言葉に、朧は無言で返した。
狒々神が気づいたのは、朧や護衛衆の気配ではない。符条の眷属が放つ妖気を察知したのだ。護衛衆に余計な情報を与えてやる義理もない為、朧は敢えて獺の言葉を否定しなかった。
「筆頭殿。ついに狒々神が現れた」
塙の面頬を見上げて、獺が神妙な声で告げた。
「しかも我々の存在に気づいているようだ。筆頭殿の指示を請いたいのだが?」
前置きもなく尋ねると、塙は動揺した様子もなく、黄金の持槍を右肩に担いで黙考を始めた。
「……副将の見立てを聞こう」
塙は低い声で、獺に意見を求めた。
「狒々神が現れたのは、北東の方角――此処から五町ほど離れた場所だ。すでに我々の位置を特定しており、木々を薙ぎ払いながら近づいている。此処に辿り着くまで、そう時間は掛かるまい」
「如何にすればよい」
「軍議で定めた通りに行動する。兵を木陰に隠し、身を潜めて陣形を組む。護衛衆が狒々神の注意を引き、朧が首を刎ね落とす。無論、危険な役目ではあるが――」
「剣呑を拒むなど
持槍の石突で地面を叩き、塙は部下達を睥睨する。
「何をぼやぼやしておる! 合戦の支度を致せ!」
大将の一喝に、護衛衆の顔が引き締まった。
ようやく彼らの認識が、切迫した状況に追いついたのだ。
山間の村落を襲う妖怪を斃し、篠塚家から多額の褒賞を貰う。加えて絵物語に描かれるような武功を立てるのだ。
「狒々神が姿を現す前に、此処で陣を整える! 笠原!」
「押忍!」
「弓組を木陰に隠せ! 吾輩の下知があるまで、矢を射掛けるでないぞ!」
「分かりました! 押忍!」
「長柄組は本陣の
「……コンコールド」
塙の命令に、佐藤は南蛮語で答えた。
先程の遣り取りが尾を引いているのだろう。長槍を持ちながら立ち上がり、朧に憎悪の視線を向ける。
「筆頭殿の御指図です。長柄組のみなさん、行きますよ」
再び叱責を受ける前に、佐藤は長柄組を引き連れて前に出た。
篠塚家の護衛衆は、弓組三十名と長柄組十名。大将と副将で構成されている。
陣幕も
意表を衝かれながらも、護衛衆の対応は素速い。
後ろから弓兵の動きを見ながら、獺は違和感を覚えた。
予想以上に、塙の統率力が高いのだ。
意に沿わぬ者を力ずくで抑え込んでいるだけだが、武威で兵卒を従わせるのは、乱世では当たり前の事。勿論、戦闘が始まらなければ、彼の指揮能力を認める事はできないが、噂ほど酷い猪武者とも思えない。彼の所作を見ていれば、加藤嘉明が期待を寄せていたのも分かる。少なくとも寄せ集めの混成軍を束ねるだけの器量は持ち合わせているようだ。
意外に使えそうだな……と心の中で呟きながら、獺は周囲を見回す。
「朧? 何処へ行った? お前は樹上で待機していろ」
獺が指示を出すと、
「すでに登っておる」
朧が樹上から応えた。
護衛衆が隊列を組んでいる間に、クロマツの幹を登り、太い枝の上で佇立していた。狒々神より猿みたいな女である。
「
塙は先度より声量を抑えて、逸る部下達を抑制する。
今の処、塙と朧が暴走する気配を見せない。獺が安堵して、前方を見据えた時である。
朧以外の者達にも、木々を薙ぎ倒す音が聞こえてきた。さらに樹木を踏み潰す音が重なり、否応もなく緊張感を高める。
次々と木々をへし折る音が。
樹木を踏み砕く音が。
徐々に騒音が近づいてくる。
張り詰められた空気の中、全員の視線が北東の方角へ定められた。
「来たぞ」
朧が呟いた刹那、前方の木立が弾け飛んだ。
驚愕する護衛衆を尻目に、粉塵から巨大な人影が現れる。
正確に言えば、人影ではない。
異形の怪物だ。
狒々神という異名の通り、外見は猿に近い。寧ろ
ホ~モホモホモホモ!
現出したばかりの狒々神が、荒々しく咆吼を発した。
もはや騒音の域を超え、大気を揺さぶる震動波に等しい。途方もない肺活量で吐き出された咆吼は、木々の枝葉を震わせるほどだ。
「……」
対応すべき護衛衆は、完全に呑まれていた。
獺から事前に説明を受けていた。年配の武士から、妖怪退治の武勇伝も聞いている。異形の怪物と戦う心構えも終えていた筈だ。それでも尚、常世から現出した狒々神の威容に圧倒され、護衛衆は身動きできなくなった。
動けないのは、護衛衆だけではない。
「……
中二病の朧でさえ、唖然とした様子で佇む始末。
戦争経験を持つ護衛衆や百戦錬磨の朧ですら、思考停止を余儀なくされたのだ。
誰も反応できない状況で――
「むほぉ――――ッ!!」
突如、塙が雄叫びを上げたのだ。
皆が狒々神に気圧される中、一人だけ平静を取り戻した――わけではなく、狒々神の姿を目視した刹那、理性の枷が千切れ飛んだ。
獣が本能に逆らえないように。
中二病も
如何に冷静を装おうと、塙の本質は血気に逸る猪武者。敵の姿を見ただけで、己の意志と関係なく、自動的に肉体が
「
萎縮した兵を押し退けて、一人で本陣から飛び出した。
「筆頭殿!? 何をしているんですか!?」
驚愕した勘助が呼び止めるも、誰も塙を止める事はできない。
「サアキイガアケええええッ!!」
堂間声で叫びながら、黄金の槍を携えて突き進む。
銀色に輝く槍穂を上方に掲げ、狒々神の腹部を突き刺した。加えて諸手で持槍の柄を押し込み、得意げに言い放つ。
「
奇妙な沈黙が、馬喰峠を支配していた。
出現したばかりの狒々神と待ち構えていた護衛衆。対峙する双方が、塙の勇姿を無言で見つめる。
皆の視線を一身に浴びながら、中二病の解説が始まる。
「説明せねばなるまい! 穀蔵院流とは、天下御免の中二病――
『日本国民の所得を半分近くも取るなんてマジか……しかも貨幣(日本円)は、日本政府や日本銀行の負債だから、それを所得から徴税で国庫に返すと、その分の貨幣がこの世から消滅するんですけど。挙句の果てに、景気後退期に増税(防衛税)するとか……そんなに日本国民を全滅させたいの? 二〇二四年には、ドイツにGDP抜かれるし。二〇二五年には、インドにも抜かれるし。折角、大正生まれの人達が、日本を世界で二番目の経済大国にしてくれたのに。その下の世代は、大手マスメディアの緊縮プロパガンダに踊らされて。緊縮派の政治家選んで増税して。日本国民は、一人残らず全滅するんだ。あはははは……もう死のう。トラックに
と呟き、車道に飛び出そうとした処、慶次郎に命を救われた!
事情を聞いた慶次郎は、『俺が民を
『総理大臣を解放してほしければ、国会で防衛税を可決するな!
と要求!
なんやかんやで、新しい総理大臣に犬が選ばれ、PB黒字化目標撤回と消費税廃止とガソリン税廃止とインボイス制度廃止と国債60年償還ルール廃止と財政法と財務省設置法の改正を宣言! 警察庁より指名手配を受けた慶次郎は、今日も日本国民を
狒々神が、最後まで付き合う理由もなく。
懐で騒ぐ中二病を右手で払い飛ばした。
奇妙な断末魔を発しながら、枝葉の天井を突き破り、遙か彼方に飛んでいく塙。
中二病らしい見事な死に様であった……で済めばよいが、不測の事態と言わざるを得ない。吾輩の采配に畏れ戦くがいい、と偉そうに
本来なら混乱して然るべき処だが――
取り残された護衛衆は、大将が飛ばされた方角を呆然と見上げながら、同じ思考を共有していた。
人間って、あんなに遠くまで飛ぶんだ。
これも一種の現実逃避である。
最初に正気を取り戻したのは、副将の獺だった。
「笠原殿!」
副将の呼び掛けに、勘助や他の弓兵が己を取り戻す。
「弓組、矢を
勘助の指示を受けて、木陰に隠れていた弓兵が動き出した。クロマツから身を乗り出し、「放て」の合図で一斉に矢を射掛ける。
然し鋼の鏃も強靱な筋肉を貫く事ができず。加えて驚異的な再生能力が発動し、体中に突き立てられた矢が、ぼろぼろと落ちていく。
無数の
ホモオオオオッ!!
大気を震わす咆吼を発しながら、狒々神が前方を塞ぐ樹木に、強烈な体当たりを仕掛けた。二五四一貫を超える体重に勢いを加え、異形の巨体を
圧倒的な衝撃に耐えきれず、前方を塞ぐ木々が弾け飛んだ。加えて折れたクロスギの幹が、護衛衆に向けて倒れてくる。
「ひいいいい!」
甲高い声を発しながら、前列の槍兵が身を竦ませる。幸運な事に、全員が木陰に隠れていたので、樹木に押し潰される事はなかった。
然し難を逃れたとはいえ、狒々神の強烈な体当たりは、護衛衆に拭い難い恐怖心を植えつけた。圧倒的な実力差を思い知らされたのだ。
「弓組は後退! 長柄組は本陣の両脇を固めよ!」
獺の指示も素速かった。
大将の壮絶な討死と狒々神の体当たりで、護衛衆は情けないほど動揺している。味方に考える間を与えず、即座に具体的な指示を飛ばし、強引に戦意を維持するしかない。
実際、後退を指示された弓組と長柄組は、這々の態で後方に引き下がる。塙が討死した為、本陣に副将の獺しかない。朧は樹木の上だ。
「筆頭殿が討ち取られてしまいましたよ! 如何に戦うつもりですか!?」
本陣の隣まで後退してきた佐藤が、獺に指示を請う。
否、指示を請うと言うより、明確に退却の下知を望んでいる。甲高い声が、佐藤の心底を如実に示していた。他の護衛衆も同じ心境であろう。特に狒々神を間近で見た長柄組は、早くも怖じ気づいている。
とても狒々神討伐を続行できる状況ではない。
「手筈通りだ。突撃しろ」
それでも獺は、部下達に非情な命令を伝えた。
「突撃……ッ!?」
無謀極まりない命令に、佐藤は声を裏返らせた。
「筆頭殿の最後を見たでしょう! あのデモニモに槍なんて通用しません!」
「槍で斃せない事は、戦う前から承知していた。抗弁する暇があるなら掛かれ」
「我らに、無為に死ねと言うのですか!」
「これも策のうちだ。槍衾を構えて挑み掛かり、即座に後方へ引き下がる。それを繰り返すだけでいい」
「――ッ!!」
佐藤は、怒りで顔面を朱色に染めた。
長槍を携えた他の兵も、怒鳴り始めそうな雰囲気である。弓組も困惑しており、朧は素知らぬ顔で樹上に佇む。
孤立無援の獺は、深々と溜息をついた。
「狒々神を槍で突いた者には、黄金一枚を授ける」
「はあ?」
咄嗟に言葉の意味を理解できず、佐藤は顔を顰めて唸る。
「私の指示通りに動けば、黄金一枚を授けよう。一度の突撃で黄金一枚だ。二度三度と繰り返せば、その都度一枚ずつ褒賞を引き上げる」
「――ッ!?」
露骨な物言いに、全ての兵が言葉を詰まらせた。
護衛衆が憤るのも無理はない。褒賞を引き上げてやるから、塙の如く玉砕しろと命じているのだ。
確かに金銭で雇われているが、護衛衆は足軽や透波の集まりではない。生まれついての武士ばかりである。
幼時より武士に相応しい教育を施され、武術と学問に励んできた。関ヶ原合戦で主家が滅んでいなければ、今でも奉公人から「旦那様」や「若様」と呼ばれていた筈だ。
嘗ての地位に返り咲きたい。高価な着物を身に纏い、家来を連れて外を歩きたい。
商家の私兵に甘んじているのも、新たな仕官先が見つかるまでの事。本来ならば、関東の有徳人と面識を持つ事すらなかった。それにも拘わらず、透波上がりの土倉の分際で非礼を積み重ねた挙句、武士を捨て駒にするなど――到底、許せる筈がない。
然し獺は、微塵も護衛衆を挑発するつもりはなかった。寧ろ現実的な提案をしたつもりである。
天正十四年四月九日、長久手合戦の折、羽柴方の武将――
護衛衆の怒りが爆発する寸前、獺が言葉を紡いだ。
「それとも他に何か望みがあるのか?」
「な――」
「褒賞の他に望みがあるのか、と訊いているのだ。他に望みがあるなら、可能な限り応えよう。尤も武士が槍働きを拒む理由など、褒賞の不足くらいしか思いつかないが……まさか臆したのではあるまいな?」
「誰が臆するものですか! 武士を何と心得る!」
「武士とは、気位の高い臆病者に非ず。戦場で武功を立てる勇者であろう。是非はともかく、先馳を成した筆頭殿こそ武漢第一。貴殿らも筆頭殿に倣い、槍働きにて功名を得て貰いたいものだな」
「……」
佐藤は反駁の言葉を失い、面頬の奥で唇の端を引き攣らせている。
獺の言葉が正鵠を射ていたからだ。
戦場で命を惜しむなど、足軽や雑兵の如き醜態。武士の在るべき姿ではない。斯様に教え込まれている為、家格や武名を何よりも重んじる。武功を立てる機会を逃すなど、尋常の武士なら考えられない。髀肉の嘆となるくらいならまだいい。それより妖怪相手に臆して逃げたという風聞が広まれば、今後の人生に最悪の影響を齎す。悪評ほど広まりやすいのは、塙が身を以て証明している。妖怪討伐から逃げた牢人を召し抱える大名家などある筈がない。
獺の侮辱は看過できない。然し狒々神を斃さなければ、士分に返り咲く道も遠ざかる。
挑発を通り越えて、言葉の内容は脅迫。
だが、獺に塙未満の烙印を押されて、おめおめと引き下がる事などできようか。南蛮の貴族にしか見えないが、佐藤にも武士の意地がある。
「た……戦います! 戦えばいいんでしょう!」
半ば自暴自棄になりながら、他の長柄組を見回す。
「みなさんも私の後に続きなさい!」
「佐藤殿!?」
「あの化物と戦う気ですか!?」
「他に生き残る道はありません! 手筈通り、長柄組で狒々神を挟撃します! 隊列を乱してはなりませんよ!」
殺気を帯びた視線で部下達を黙らせると、佐藤は左翼の部隊についた。再び長柄組の面々も表情を改め、佐藤の指示通りに動く。
あまり時間も残されていない。獺と佐藤が口論している間にも、狒々神が本陣へ近づいているのだ。
然し先度の体当たりほど突進力はない。両腕で木々が薙ぎ倒しながら、少しずつ距離を縮めていた。
クロマツを両脇に押し退け、狒々神が偉容を表す。
「今こそ好機。狒々神に槍衾を突きつけろ」
獺の命令に、長柄組の槍兵達も覚悟を決めた。
「ビバ・サムライカミノ!」
佐藤の叫声に呼応し、二手に分かれた長柄組が突撃。
ぴたりと息を合わせたように、十筋の長槍を突き出す。合戦を専らとする武士達だ。事前に調整をしなくても、問題なく槍衾を押し出せる。幼い頃より叩き込まれた修練の賜物と言えるが――
やはり狒々神には通じない。
両腕に掠り傷をつけるだけで、その傷もすぐに治る。
ホモ~ホモホモホモ!
独特な奇声を発しながら、狒々神は前方に右腕を伸ばした。狒々神と槍兵の間合いは、二間にも満たない。狒々神の長い腕なら十分に届く距離だ。
「うわああああ……あ?」
悲鳴を上げた槍兵が、頓狂な声を発した。
巨大な指先が、目の前で動きを止めたのだ。整然と立ち並ぶ樹木に挟まれて、狒々神の行動を阻害している。
邪魔臭いクロマツをへし折り、強引に右手を突き出すが、その前に槍兵も怯えながら後方に下がる。獲物を逃した狒々神は、左腕を伸ばして別の槍兵を狙うが、やはり樹木に阻まれて取り逃す。
忌々しげに、狒々神は正面に立つ木々を睨みつけた。
長槍を正面から突き出せば、狭い樹木の隙間でも通り抜ける。然し牛馬の胴より太い狒々神の腕は、クロマツに動きを遮られる。力ずくで薙ぎ倒す事もできるが、その間に逃げられる。
「成程、天然の馬防柵というわけか」
枝の上に立つ朧が、感嘆の声を漏らした。
勢いをつけて体当たりを行えば、正面を遮る木々など容易く破壊できよう。然し体当たりを行う為には、体重に勢いを載せる為の距離が必要だ。野生の猿と同程度の知能しかない狒々神は、一度後退して距離を稼ぐという発想がない。眼前に獲物がいるなら尚更だ。闇雲に両腕を突き出すか、力ずくで樹木を薙ぎ倒すか。二つの選択肢から一つを選ぶしかなく、どちらを選んでも隙が生じる。
加えて敵方の不利は、味方に多大な有利を齎す。突撃した長柄組が引き下がり、陣形を立て直すほどの有利だ。
「再度斉射! 弓組は長柄組の後退を援護してください!」
副将の下知を受けて、勘助は弓組に「放て」と命じた。
すでに準備を終えていた弓組は、命令通りに
反射的に両腕を上げて、狒々神は顔面を守ろうとする。第二射も両腕の筋肉を貫けず、ぱらぱらと
すぐに傷口も塞がる為、狒々神に与えた負傷は皆無。だが、護衛衆からすれば、画期的な成果と言える。狒々神が、顔面への攻撃を嫌うと証明できたからだ。狒々神の弱点と言うほどではないが、後方から長柄組を支援するうえで、重要な情報を得られた。
長柄組の後退に合わせて、狒々神の顔面に矢を放つ。それだけで狒々神は、両腕が使えなくなる。結果的に、長柄組の危険を取り除く事ができた。
これも策のうちだ。
口論の最中に獺が呟いた言葉だが、詭弁でも強弁でもなかった。地の利と敵の知性を踏まえたうえで、長柄組に突撃を命じたのである。
「突撃と後退を繰り返します! 木々を掻き分ける隙を衝きなさい!」
在る程度、身の安全が保障された事で、佐藤も勢いづいている。
「弓組、第三射放て」
長柄組の動向を窺いながら、弓組が援護射撃を行う。
全て獺の目論見通りなのだろう。当初は混乱もしていたが、護衛衆も落ち着きを取り戻し、順調に狒々神を誘導している。
朧の望む展開ではないが――
「まるで狼の猪狩りじゃな」
樹上に待機する朧が、退屈そうに独り言を漏らした。
狼は群れで行動する動物だ。多くの狼が猪を取り囲み、一斉に咆え掛かる事で、獲物を混乱させる。加えて群れの中の一匹が、懐深くに飛び込んでは下がり、狙いを絞らせないように攪乱。一連の行動を終える頃には、猪は無数の狼の牙に掛かり、血を失い過ぎて息絶えるというわけだ。
「流石に気づかれたか」
地上で護衛衆を指揮していた獺が、朧の独白に応えた。いつの間にか、獺もクロマツの幹を登り、朧の隣で観戦していたのだ。
一瞬、朧は獺を睨んだが、ふんと鼻を鳴らす。
「狼の狩りなら、童の頃より何度も見ておる。それより護衛衆は捨て置いてよいのか?」
「これ以上、私にできる事もないからな。それに獺は、童より視線が低いのだ。木の上にでも登らないと、全体の動きを把握できない」
狒々神と護衛衆の攻防を眺めながら、朧の疑問に答えた。
本陣の狒々神の距離は、およそ三十間。六十歩ほど長柄組が後退すれば、朧と獺が潜む樹木まで誘い出せる。
唯一の懸念は、狒々神の放つ否定砲だ。
然し狒々神は、謎の破壊光線を吐き出す前に、大きく息を吸い込むという。つまりタメを必要とする。木の上から狒々神の動きを観察していれば、否定砲を撃つか否かも判断できる。護衛衆に回避の指示も出しやすい。
全ての行動が理に適う。
それゆえ、朧は渋面を浮かべるのだ。
「面白うない」
「狒々神と一騎打ちを望んでいたのであろうが……此度は諦めろ。奏の側にいれば、別の強敵と戦う機会も訪れよう」
「むう……」
不服そうに、朧は両腕を組んだ。
好戦的な中二病を宥めようと、獺が言葉を続けようとした時、前方の長柄組が「おおおおっ!」と歓声を上げた。
朧と獺が視線を向けると、長柄組が喝采を上げている。彼らが興奮する理由は、狒々神の異変にあった。
先程まで闇雲に両腕を伸ばしていた狒々神が、ぐたりと尻餅をついたのだ。挙句の果てに、腑抜けの如く俯いている。
「もう力が尽きましたか! 見掛け倒しのデモニモめ!」
「妖怪など恐るるに足らず!」
「
佐藤が嘲笑すると、長柄組の面々も追従する。
活気づく味方を尻目に、朧は疑念を抱いていた。
あまりにも歯応えが無さ過ぎる。
この程度の苦境で戦意を喪失する化物に、薙原家は圧倒されたというのか。肉体的な負傷は一切なく、殆ど体力も消費していない。戦闘を継続できる状態を維持しながら、不自然に動きを止めた狒々神。
「狒々神に策を弄するほどの知恵はあるのか?」
「いや……受肉したばかりの
朧が抱く違和感に、獺も気づいたのだろう。解説の途中で言葉を濁し、沈思黙考を始めた。
躊躇う副将をよそに、長柄組は突撃の準備を始めていた。
長柄組の士気は、最高潮に達している。狒々神の変化と関係なく、褒賞の増額を保障されているからだ。すでに五回も槍衾を浴びせている為、次の一撃で黄金六枚が手に入る。当然、臨時賞賜とは別に、篠塚家が狒々神討伐の褒賞を与えてくれる。恩賞望み次第の確約を得ているので、金銭の他に武具や馬を望む事もできよう。実家に仕送りをしても、かなりの金額が懐に入る。次の仕官先が見つかるまで、路銀の心配もなくなる。これ以上、有徳人の下で働かなくて済む。
「敵は戦意を喪失しています! もう一度、槍衾を浴びせるのです!」
「応!」
それゆえ、長柄組が武功に逸るのも無理からぬ事。獺が静止する間もなく、長柄組は佐藤の呼び掛けに応じ、鶴翼の陣で突撃を掛ける。
後から考えれば――
この瞬間に、護衛衆の命運は尽きていたのだろう。
力無く俯いていた狒々神が、忽然と前方に両腕を突き出した。V字に開いた両腕を閉じる。邪魔な木々を両腕で強引に挟み潰したのだ。
激しい爆風と共に、木片や血肉が飛び散った。
「……は?」
折れた長槍の先端を見ながら、佐藤が頓狂な声を発した。瞠目する佐藤の顔は、仲間の血で汚れていた。
少し離れた場所に立つ槍兵も、状況を把握できずに佇んでいる。
粉塵が薄くなるまで、現状を理解できなかった。
彼らと共に突撃した槍兵は、木々の間に挟み潰されたのだ。断末魔を発する時間も与えられず、己の死を予期する事なく圧死した。狒々神の怪力で叩き潰された屍は、原型を留めていないだろう。
鶴翼の陣の両端に位置していた槍兵二名は、運良く生き残る事ができた。佐藤の長槍が折れたのは、狒々神の指が槍穂を掠めたからだ。
「――ヒィッ!? ひいいいいッ!!」
一拍の間を置いて、仲間の死を理解した佐藤が、掠れた声で悲鳴を上げた。
次の瞬間、暴風の如き音が鳴ると、もう一人の槍兵が消えていた。何が起きたのか分からず、佐藤は仲間の姿を捜す。視界を遮る粉塵が晴れた時、ようやく仲間の居場所を見つけられた。
「ああああ……」
徐に上方を見上げると、狒々神に素手で捕らえられた槍兵が、死相を浮かべて呻いていた。
樹木を握り潰すほどの握力で捕らえられては、槍兵に逃げる術などない。狒々神は大きく口を開けて、槍兵を口腔内に押し込む。がんッ――という音を立てて、頑丈な当世具足を噛み潰し、槍兵の上半身を咀嚼する。甲冑も人体も関係なく、金剛石より硬い歯で噛み砕き、ごくりと呑み込む。残りの下半身は、血塗れの口の中に放り込んで、顎を動かす事なく呑み込んだ。
その一部始終を間近で見せられたのだ。
佐藤の心に生まれた慢心は、簡単に吹き飛んだ。八名の槍兵が挟み潰され、生き延びた仲間も喰い殺された。
次は佐藤の番――
「マ……マミイイイイッ!!」
錯乱して長槍を捨て去り、佐藤が木陰に逃げていく。
明確な敵前逃亡である。
武士にあるまじき醜態だが、誰も彼を責められなかった。
弓組の面々も瞠目し、弓に
無様に逃げ出した佐藤を追い掛けるのかと思いきや、意外にも狒々神は破壊した樹木を拾い始めた。木々の下に埋もれた屍を掻き集め、少しでも腹を満たそうという魂胆か。無差別に暴れているのか、単純に意地汚いだけなのか、判断に迷う処である。
「ヒャハハハハハハハハハッ!!」
唐突に、朧が哄笑を発した。
「なんと無様な有様か! 狒々神に一杯食わされておるぞ!」
味方の死を気にも留めず、朧は副将を揶揄した。
「そんな馬鹿な! 有り得ん! 狒々神に人を騙すほどの知恵はない! 擬態を演じて油断を誘うなど考えられん!」
「如何に否定した処で、目の前で起きた光景こそ現実。加えて狒々神は、策を弄しておらぬ。方針を変えただけじゃ」
「どういう意味だ?」
獺が訝しげに尋ねた。
「狒々神は当初、儂らを生け捕りにするつもりであった。無論、深い考えなどあるまい。動き回る獲物を素手で捕らえるだけ。獣らしき所業よ。然れど予想外の抵抗を受け、早々に生け捕りを諦めた。もはや
「――ッ!?」
「動きを止めたのは、儂らを謀る擬態に非ず。狒々神も落胆したのじゃ。『全力で
朧の推測を理解し、獺は息を飲んだ。
狒々神は護衛衆を見つけた時、
狒々神が殺害に専念した場合、その力に人間が耐えられるだろうか。
熟考するまでもなく、答えは否である。たとえ当世具足で身を固めていようと、甲冑と一緒に肉体も叩き潰される。朧の言葉通り、原型を留める事もできまい。
捕食する側からすれば、酷く残念な事だ。
だが、
もはや力を出し惜しむ必要もない。
小賢しい人間共を全力で叩き潰す。
辛うじて生きている。
生き延びた槍兵を捕まえると、急に何を思いついたのか――狒々神は口の中に放り込まず、遠方の弓組に向けて投げつけた。
「木陰に身を隠せ!」
咄嗟に獺が回避を命じるも、目の前で仲間を喰われた弓組は、恐怖に取り憑かれて動けない。
人外の力で投げ飛ばされた槍兵は、無人の本陣の後方――弓組の陣取る場所へ着弾。巻き込まれた弓兵が、「ちょまっ!」と断末魔を上げた。
慌てて木陰に隠れた弓組が、恐る恐る着弾地点を見つめる。
彼らの視線の先には、仰向けに倒れた弓兵の下半身が残されていた。当世具足を身につけた上半身は、激突の衝撃で弾け飛んだのだ。
狒々神に投げ飛ばされた槍兵は、それでも勢いが止まらず、肉塊と化しながらも地面を転がり続け、七間も離れた場所で止まった。五体の骨が粉々に砕け散り、仰向けに倒れているのか、俯せに倒れているのかも分からない。どちらにしても、今度こそ絶命した事に変わりない。
「ほう……物を投げる事を覚えたか」
木陰から出られない弓組に頓着せず、樹上から狒々神を見据える朧。やや間を置いて、狼狽する獺にも視線を向けた。
「獺殿、もう退け」
「すでに退いている! もう少し狒々神を引き付けなければ――」
「然に非ず。狒々神討伐は失敗じゃ。残存部隊を率いて下山致せ」
朧は冷淡な声で呟いた。
「狒々神を本陣まで誘導できれば、我々にも勝機があるのだ! 此処で撤退するわけにはいかん!」
「次は大木を投げてくるぞ」
「――ッ!?」
「それなりに学習能力を備えておる。次は食料の
「……」
副将は平静を取り戻し、朧の進言に耳を傾ける。中二病の言葉と思えないほど、彼女の言葉は理に適う。
「何より兵が怯えておる」
弓組の面々を見回すと、一様に顔を強張らせて震える有様。弓組を指揮する勘助も含めて、クロマツの後ろに隠れて顔を出す事もできない。
「咆え掛かる狼が全滅した時点で、狒々神討伐は失敗じゃ。もはや本陣に誘い込む余裕などない。狒々神が大木を投げてきたら、獺殿の指示も聞かず、弓組が逃散致そう。後は狒々神に追い掛け回されて、一人ずつ喰い殺されるだけじゃ」
「……」
暫時、獺は黙考する。
「これ以上戦闘を続けても、兵の損害が増えるだけよ。悪い事は言わん。護衛衆が逃散致す前に、獺殿の指示で退却致せ」
「おまえはどうする?」
慚愧の念を滲ませながら、獺が低い声で尋ねた。
「
傲然と宣言しながら、メキメキと背中の筋肉を隆起させる。
狒々神の実力は十分に拝見できた。
これまでの対戦相手と比較しても、最高峰に位置する強者。疑念を抱く余地すらない。
獰猛な殺戮衝動に身を委ね、朧は凶暴な笑みを浮かべた。
五町……約567m
コンコールド……スペイン語で承知
前備……最前列の部隊
国債60年償還ルール……馬鹿が考えた愚かな制度
征矢……和弓で使う矢の一種。鏃が分厚くて鋭く、貫通力が高い。
二五四一貫……約9.528t
デモニモ……スペイン語で悪魔
黄金一枚……天正大判一枚。米四十石。米俵百俵。現代の価値で一八〇万円。
天正十四年四月九日……西暦一五八四年五月十九日
祐筆……合戦の時、味方の武功を記録する役目
ビバ・サムライカミノ……スペイン語で武士道万歳
マミイ……スペイン語でお母さ――ん
七間……約13.23m
矢合わせ……飛び道具の撃ち合い
※参考資料
『税や保険料「国民負担率」48% 過去最大の見込み』
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/77828.html
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