第32話 蝉時雨
朧は美貌を歪めて、無惨な屍を見下ろした。
猟師の屍に無数の蠅が
「威力は焙烙玉以上、抱え大筒未満という処か」
「そうですね。抱え大筒なら胴体を貫通しております」
薄紅色の蛾が、朧の感想に追従した。
「威力は調整能うか?」
「無理だろうな。彼女は『
「才能に恵まれていないというのは、どうやら本当のようですね。潜在能力を限界まで引き出されて、墨川家の標準を下回る威力……これなら楽勝です」
「あからさまに、儂を油断させようと致すな。十分に人を殺傷し能う威力ぞ」
おゆらの戯れに惑わされず、朧は屍を凝視する。
「眷属を用いて殺したか」
「視線で殺したのであれば、弥助の前方に立たなければならない。然し周りには、樹木が立ち並んでいる。遮蔽物が多過ぎて、遠くから弥助の姿を捉えられない。余程近づかなければ、凝視する事も難しいだろう」
「然れど他の猟師は『
朧は左手を開き、小規模な爆発を表現した。
「して……見張りの猟師は
「俺は此処にいるんだホー」
無精髭を生やした中年男で、手足が土で汚れていた。
「お主、木陰で何をしておった?」
「屍を見張りながら、穴を掘っていたんだホー」
「穴を掘れとは、申しつけておりませんが?」
「検分が終われば、屍を埋めてやりたいホー」
「お主……己の意志で動いておったのか?」
「勿論だホー。早く埋めてやりたいホー」
髭面の猟師が、不自然なほど陽気な笑顔で応えた。
「あらあら。私とした事が……一本取られてしまいました」
おゆらの眷属が「うふふっ」と笑う。
人喰いの妖怪であろうと、損壊の激しい死体や保存状態の悪い死体は食べられない。猟師の屍も蛇孕神社に運ばれる事はなかろう。
この猟師は妖術で操られていながらも、命令違反にならない行為を見つけて、自主的に行動を起こしたのだ。
「お主、名は何と申す?」
「
「ふむ……お主は今日から髭面と名乗れ。喜助は日焼けじゃ。日焼けは果報者よ。兄弟と仲間に恵まれた」
勝手に他人の名を決めて、朧は鷹揚に私見を述べた。
「髭面は独身臭いのう。嫁はおるのか?」
「嫁はいないホー」
「日焼けは?」
「俺は、嫁と娘がいるホー」
髭面と日焼けの顔を見比べた後、朧は「ふむ」と顎に手を当てた。
「畢竟、男の価値は顔で決まる。不細工な髭面が、精悍な日焼けに後れを取るのも無理からぬ。然れど世を
「なんか……急に涙が出てきたんだホー」
「何を泣く? お主を褒めておるのだぞ」
「そんな褒め言葉があるか」
「領民を苛めないでください」
「……」
朧は唖然とする。
獺や蛾に非難されると思わなかった。
「それに私の妖術で支配された者に、余計な情報を与えるべきではありません。記憶に矛盾が生じれば、精神的な抑圧となります」
「御曹司の記憶は、好き勝手に書き換えておるではないか?」
「記憶とは、様々な逸話や映像が複雑に絡み合う情報の塊。好き勝手に書き換えられるものではありません。これでも奏様の記憶に矛盾が生じないように、細心の注意を払いながら、記憶の改竄や精神操作を施しているのです。奏様の精神的な抑圧は、私の身体で解消しております」
「
朧は酒を呷り、低い声で会話を打ち切る。
「――来た」
獺が顔を上げて、急に語気を強めた。
「近くにおりますね」
薄紅色の蛾が、朧の言葉を首肯する。
朧は注意深く周囲を見回した。
「おそらく『
「どちらが先に対手を見つけるか――だな」
「その勝負は儂の勝ちじゃ。『
「――早ッ!?」
「あらあら」
獺と蛾が、驚愕の声を発した。
「白い着物に……アレは寝巻か? 髪を短く切り揃えておる。右手に脇差。顔を伏せておるゆえ、面立ちや年の頃は分からぬが……獺殿、相違ないか?」
朧は山裾を見下ろし、獺に確認を取る。
「間違いないと思うが……よく見つけられたな」
獺が呆れたように言う。
辺りは樹木が生い茂り、符条もおゆらも山裾を視認する事はできない。
朧は嗤いながら、大刀の柄を掴んだ。
「忘れたのか? 儂は八町先の
「鷹と梟を足したような奴だな」
「流石に儂も鷹や梟には及ばぬ。寧ろ獺の方が、儂より五感も優れていよう」
「眷属の五感は、使役する使徒と変わらない。そうでなければ、蛾は声も聞こえない」
「是は
朧は一人で納得すると、大仰に腰を捻りながら、大刀の柄に右手を添える。刀身で美貌の右半分を隠し、右手の人差し指を立てた。
如何なる時でも、朧は美意識を忘れない。
「運良く地の利を得たようじゃ。儂らが上を取り、敵の動きは丸見え」
「
「『
日焼けの右肩の上で、蛾が穏やかに説明する。
「実戦経験もなく、頼りの『
「『
「私の眷属の側にいる限り、蝉を恐れる事はないぞ」
「それもつまらぬ。ゆえに思案しておるのじゃ」
「全く……中二病というものは、面倒臭い生き物ですね。符条様の力を借りて、早々に始末すれば良いものを――」
「お主には、永遠に理解能わぬ。中二病には、中二病の矜持があるのじゃ。加えて敵を利用するのは面白いが、観衆を利用しても面白うない。面白うなければ、立ち合う理由もなくなる」
朧は泰然と言い捨て、瓢に口をつけた。
「なれど、文字通りの睨み合いとなってしもうた。飛び道具がないゆえ、此方から攻めたくても攻められん。然れど此処に居付けば、獺殿に守られておるのと変わらぬ」
「日が沈むまで待てばよかろう。『
「却下じゃ。それもつまらぬ」
朧は大刀を抜いたまま、あれこれと考え始めた。
「念の為に伝えておくが……」
沈思する朧に、獺が声を掛けた。
「なんじゃ?」
「『
「奇妙な口振りですね。合戦の自慢話を聞いたら、素人が玄人に変わると? ならば、足軽の子は、皆一流の軍師となりましょう」
「念の為に伝えただけだ。気に留めなくていい」
獺の忌々しげな口調から、朧は言外の意図を察した。
おゆらに伝えたくない事があるのだろう。
「試してみたい事がある」
おゆらの追求を避ける為、朧は話を逸らした。
「何か策でも思いついたのか?」
「我が身を囮として、『
「死ぬぞ」
「殺されますよ」
「絶対とは言い切れまい」
両者に断言されても、朧は躊躇いを覚えない。
「俄然意欲が湧いてきたぞ。儂の体捌きと『
朧は唇の端を吊り上げて、木々の隙間から『
「……私には、中二病と自殺志願者の区別がつきません。どうぞ御勝手に」
「お主の許しなど求めておらぬ。取り敢えず、獺殿と日焼けと髭面は、木陰にでも隠れておれ」
朧の指示に従い、猟師達が移動する。
「私は何をしましょう?」
「何も致すな。山火事の心配でもしておれ」
「畏まりました。然し山火事の心配はありません。朧様は『
「……?」
一瞬、おゆらの言動を訝しんだが――
それより気になる事がある。
「蝉の数が増えておらぬか?」
鼓膜を叩く蝉の声。
蝉の鳴き声が、爆音の如く耳を
「付近の蝉を集めているのだろう! 私の妖術で近づく事はできないが、向こうは準備万端のようだ!」
獺が大声で応えた。
互いに声を張らなければ、意思疎通も覚束ない。
此方の聴覚を封じたつもりか?
或いは、威嚇?
『
「た……大変だホーッ!」
「如何致した!?」
「自分で掘った穴に落ちたんだホーッ!」
「自力で這い上がれ!」
「ホー?」
髭面に続いて、日焼けが間の抜けた声を放つ。
「今度はなんじゃ!?」
「何か背中に――らどっぴおッ!!」
突然、日焼けの背中が爆発した。
前方に二間も弾き飛ばされて、日焼けが前のめりに倒れ込む。
「何――――ッ!?」
朧が大声で叫んだ。
日焼けの背中が抉れて、傷口が焼け焦げていた。ぶすぶすと黒い煙が舞い上がり、臓腑の焼けた臭いが漂う。
「如何にして爆発した!?」
「分からん! 見当もつかない! すでに蝉を接近させないように、妖術を発動させている! 蝉の成虫だろうが、幼虫だろうが、絶対に近づく事はできない!」
朧は『
『
なんじゃ!?
一体、何が起きておる!?
「『
「有り得ない! 『
獺も困惑しながら周囲を見回す。
「だが、おゆらの蛾も爆発に巻き込まれたようだ!」
「ざまあ! 然れど窮地である事に変わりなし!」
「ひイイイイイイイイッ!? な……なんだよ、これ!?」
今度は髭面の悲鳴が、朧の耳に届いた。
墓穴から這い出てきた髭面が、蝉の抜け殻のような日焼けの屍と胸部の爆ぜた弥助の屍を発見し、狂乱して喚き散らす。
「あの腐れ
瞬時に状況を理解し、朧は怒声を上げた。
おゆらは極限の状況下で、敢えて髭面の精神操作を解除したのだ。
「落ち着け! その場より動くでない!」
錯乱した髭面は忠告を聞かず、全力で駆け出した。
再度、派手な爆発音が響いた。
「べらみたん!!」
忽然と地面が爆発し、髭面の左脚が吹き飛んだ。
転倒した髭面の左脚が消えている。焼け焦げた左膝の下から、
「なななな……なんで――――ッ!?」
朧は、チッと舌打ちをする。
「獺殿! この辺りに見晴らしの良い場所はあるか!?」
珍しく朧が、焦燥を滲ませて尋ねた。
「それは……」
「心当たりがあるなら
「頂上を目指せば、見晴らしの良い場所に行き着く!」
「承知!」
持ち手の人差し指をぴんと立て、ゆるりと大刀を鞘に納めた。
如何なる時でも、朧は美意識を忘れない。
刀身を鞘に納めた後、獺を右脇に抱えて走り出した。
「おわ!? なんなのだ、一体!?」
「喋り
朧は茂みの中に跳び込む。
同時に――
背後から無数の爆音が轟いた。
幾度も地面が爆発し、粉塵が舞い上がる。
「ま……待ってええええ! 俺を見捨てないでええええ!」
髭面の懇願が虚しく響いた。
然し朧は意に介さない。
アレは死人だ。
たとえ朧が中二病でも、戦場で死人を助ける余裕はない。
武芸者の俊足は、確実に爆発音を引き離す。ジグザグに杉の木を躱しながら、全く速度を落とさない。
「奴から離れた!」
「まだ油断能わぬ! 一気に進むぞ!」
一心不乱に駆け続けると、目の前に岩壁が立ち塞がった。
「是は……見晴らしが良すぎであろう」
呆れた様子で呟き、朧は岩壁を見上げた。
意を決すると、袖の中から
「獺殿、儂の肩に乗れ」
「お……おう」
獺を左肩に乗せた後、襷で結んで身体に
岩壁に貼りついた朧は、駆け足の如き速さで這い上がる。
武芸八十二種が一つ。
岩壁登攀は、武芸者の一般的な修行法である。素手で岩壁を這い上がり、柔軟性や心肺機能を高めつつ、全身の筋肉――特に深層筋を鍛える。平衡感覚も養われる事から、平安時代より武士の鍛錬に用いられてきた。
山育ちの武芸者であれば、岩壁を這い上がるなど造作もない。
岩壁の中腹――落下すれば即死という高さまで這い上がり、蜥蜴の如く岩壁に貼りつきながら振り返った。
すでに日は没していた。
朧は
「是で一安心という処か」
朧が気楽に呟くと、獺が溜息を漏らした。
「私は不安しか感じていないぞ」
「獺殿は、高い所が苦手か?」
「苦手ではないが……いや、私の事はどうでもいい。それより訊きたい事がある。どうして我々は、逃げ場のない岩壁に貼りついているのだ?」
「逃げ場はないが、見晴らしが良い。お陰で『
「眷属の一匹くらい見捨てても構わんぞ」
「馬鹿を申すな。獺は貴重ぞ。高く売れる」
「……」
「戯れを真に受けるな。幼い頃からの性分での。尼寺で育てられたゆえ、戒律で殺生を禁じられておった。ゆえに儂は、無益な殺生を見過ごせん。特に
「有益な殺生は有りなのか? どうも腑に落ちないが……一応礼を言う」
やはり中二病の思考は理解し難い。
「で――これからどうするのだ?」
「儂も考えあぐねておる。元の場所に戻うた処で、すでに髭面も死んでおろう。『
「爆発の原因を突き止めたのか?」
「なんという事はない。爆発したのは、蝉の尿じゃ」
「蝉の尿……?」
獺が、朧の背中で怪訝そうに言う。
「儂が視認能うたのは、髭面の左脚が吹き飛ばされた時じゃ。日焼けの時は、『
「……」
「
ふんと不快そうに、朧は鼻を鳴らした。
「待て待て。蝉の尿を爆発させるなど聞いた事がない。何より命中率が高過ぎる。確実に日焼け……もとい、喜助の背中と彦造の左脚に尿を当てたというのか?」
「下手な鉄砲も数を撃てば当たる。あの場に、どれだけの蝉がおった?
「どういう事だ?」
「儂は日焼けと喜助の屍……最悪、髭面を搔楯の代わりに使う事も能う。然れど獺殿は、己の身を守る術がない。己の眷属が放つ妖気を消したうえで、二人と一匹に蝉を近づけない――これだけでも厳しい筈じゃ。加えて降り注ぐ蝉の尿を防ぐなど、獺殿でも難しかろう?」
「……そうだな。流石に胃が保たなくなる」
「
「それは――」
「有り得ぬ、と断言できまい。獺殿も
「爆発が止んだのは、必要な
「人の耳など喰うた事がないゆえ、必要な
「おゆらが、お前に対手の戦術を明かしたのは……?」
「無論、親切ではあるまい。儂に屈辱を与える為じゃ」
あの状況で髭面を助ける事は、無謀を通り越えて無理だ。
獺一匹では、朧を守る盾にもならない。それを承知の上で、おゆらは髭面を精神支配から解放した。
さらに邪推すれば、髭面に罰を与えたとも考えられる。
おゆらに精神を支配されながらも、自発的に動いた髭面を処分したのだ。
正気を取り戻した髭面は、脈絡もなく地獄に叩き落とされた。忽然と仲間の屍を見せつけられ、その場より逃げ出すも左脚が爆発。蝉の尿の絨毯爆撃で身動きが取れなくなり、朧に助けを求めるも見捨てられ――
恐怖と絶望で震えながら、最後は『
刹那の間に、これほど陰惨な処刑法を思いつくとは……機転が利くと言うより、性根が腐り過ぎている。
謀略や裏切りを好み、柔和な笑顔で周囲を欺き、兵法と算用に秀でた奸臣。今頃、鼻歌でも歌いながら、本家屋敷で宴の支度をしているのだろう。
「
朧は厚めの唇に舌を這わせ、愉快そうに言う。
「弱々しく山を登り、対手の意識を己が身に向けつつ、不意を衝いて一網打尽。実に見事な手際じゃ。とても素人の生兵法とは思えぬ。世間知らずの箱入り娘で、知能も低下した化物ではないのか?」
「……私が話した事を覚えているか?」
獺が神妙な様子で尋ねてくる。
「戦巧者の武勇伝を聞かされた程度には、合戦の極意を会得しておるとか」
「近くにおゆらがいたので、詳しい説明ができなかった。墨川家の娘は、武士の首級を差し出し、己の潜在能力を限界まで引き上げた。加えて何を考えたのか……願い事をもう一つ叶えてほしいと告げた」
「ほう」
「自分の髪を
「面白い……狩りに特化した戦巧者というわけか」
戦場で働いた事もなく、武芸者と立ち合いをした事もない。だが、限りなく玄人に近い素人。野生の獣が、兵法という武具を手に入れたようなものだ。
初めから油断していたわけではないが、考えを改めなければなるまい。『
朧は眼下の樹海を見下ろし、ニヤリと嗤った。
「『
爛々と双眸を輝かせ、岩壁に両手の指を突き込む。
対手は人喰いの妖怪。
人ですらないが――
渡辺朧という武芸者も、
八町……約907.2m 太閤検地後
二間……約3.6m
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