第22話 君臣の契り

 天正十九年――

 蒸し暑い夏である。


「朧ーッ! どこーッ!」


 鬱蒼と生い茂る竹林に、幼い奏の声が響き渡る。

 すぐに目的の人物を見つけたが、奏は脚を止めた。

 あかい着物を纏う女童めのわらべは、小さな身体に不釣り合いな太刀を振り回し、密生した青竹の間を駆け抜け、時に四尺近くも跳躍し、華麗な宙返りを決めていた。

 これが彼女なりの稽古だ。

 複数の敵に囲まれた状況を想定した修行法らしく、障害物の多い場所で太刀を振るう空間を探しながら、動きを止めずに走り回る。

 驚愕すべきは、大胆に太刀を振り回しながら、周囲の竹に切先を掠らせない処だ。瞬時に間合いを見切り、太刀を振るう空間を見つけ出す才能がある。

 狭い場所は、片手の唐竹割や刺突。広い場所では、逆袈裟から斜めに斬り上げてみたりと、状況に応じて打突も変化する。

 天賦の才があるのだろう。

 尤も宙返りは、剣術と関係ない気もするが。


 いつも朧は不思議な事をしてるな……


 己の世界に没入しているようで、迂闊に近づくと斬られてしまいそうだ。ある程度距離を置いて、ぼんやりと朧の稽古を眺めていた。

 暫くすると、朧が稽古を止めて、此方に近づいてくる。


「御曹司、如何した?」


 神妙な表情が、一転して穏やかなものに変わる。

 最初から奏の存在に気づいていたようで、何事もないように尋ねてきた。


「朧を呼びに来たんだよ。覇天さん、もう帰ったよ」

「左様か……」


 にこやかな笑顔が、急に顰め面になる。

 朧が尼寺を飛び出して二年余り。伽耶の配慮で同じ庵に住んでいるが、覇天が訪れる度に、愚痴を零して外出する。

 顔も合わせたくないらしい。奏には、朧の気持ちが分からない。親子なのだから、もう少し仲良くすればいいのにと思う。


「そんなに覇天さんが嫌いなの?」

「大嫌いじゃ。顔を見ると斬りたくなる」


 朧は無碍に吐き捨てた。


「でも覇天さんは、朧を自分の娘だと認めてくれたんだよね? それでも嫌いなの?」

「認められても変わらぬよ。儂は己の境遇を嘆いておらぬ。覇天を憎むのは、別の理由じゃ」

「何かされたの?」

「何もされておらぬ。あの男は、儂と話そうともせぬ。気性が近しい娘を遠ざけたいのであろう」

「……」


 確かに覇天から朧の話を聞いた事はない。伽耶は「渡辺殿も語り難いのでしょう」と話していたが、あまり腑に落ちない答えだ。大人の話は難しい。


「要するにアレじゃ。近親憎悪よ」

「きんしんぞーお?」

「似た者同士だから好かぬのよ。儂も覇天も生来の人斬り。他者の命を奪う事で、己の存在を認識能う」

「……」

「先日、初めて人を殺しての。己の性分を思い知らされたわ」

「ホントに?」


 奏が眼を開いて驚くと、朧は鼻を鳴らした。


「騙りに非ず。運良く野伏が村を襲う現場に出くわしての。問答無用で斬り伏せた。悪党を斬り伏せるというのは、実に気分の良いものじゃ。儂に愉悦を齎してくれる」


「へー、朧は強いんだね」

「無論じゃ。儂より強い者などおらぬ」


 朧は泰然と言い放つ。

 根拠はないが、奏は彼女の言葉を疑わない。

 奏が尊敬の眼差しを向けると、不意に朧は顔を伏せた。


「然れど時が経つにつれ、次第に愉悦も薄れてきた。今は何も感じぬ。多少は罪の意識を感じるかと思えば、それすらも感じられぬ。実に空虚な心持ちじゃ。また誰かを斬り伏せれば、再び心も満たされようが……畢竟、同じ事の繰り返しであろう。刹那的な快楽を追い求め、他者を斬り続ける」

「……どういう事?」

「儂も覇天も人の世に交われぬという事じゃ。所詮は人斬り包丁。戦国の世ですら、槍や鉄砲に兵器の地位を奪われ、護身用の武具と成り下がった。天下泰平となれば、尚更太刀など無用の長物。それを無理に溶け込もうとするから、不要な混乱を招くのじゃ。数多の戦場を駆け抜け、城主にまで上り詰めたはよいが、処世術など覚えられまい。御上に命じられるままに、伽耶様と御曹司を預かり、下手な接待で財政を傾け、家宰を謀殺する。もはや棗橘なつめたちばな小原おはらでも制御能わぬ。渡辺家も終いよ」


 馬鹿らしいと言わんばかりに、朧は肩を竦めた。


「……?」


 奏は不思議そうに、朧の話を聞いている。

 財政やら謀殺やらと言われても、子供には分からない。


「あの男を見ておると、己の未来を見ておるようで、むかむかと腹が立つのじゃ。おそらく覇天も同じよ。昔の己を見ておるようで憤る。やはり近親憎悪……彼奴きゃつが如く在りとうないという話じゃ」

「朧は将来、どうするの? 伊東いとう一刀斎いっとうさいみたいに旅でもするの?」

「それが理想かのう。老いたれば山に籠もり、余人と関わらずに暮らす。人斬り包丁に相応しき末路よ」

「そんなの勿体ないよ」

「勿体ない?」

「だって朧は誰よりも強いんでしょ? それなのに仕官しないなんて勿体ないよ。僕に仕えてよ」


 にんまりと笑いながら、奏は言い放つ。

 他意はないのだろうが……朧は嘆息を漏らし、ぽりぽりと頬を掻いた。


「……御曹司は儂の話を聞いておったか?」

「うん。つまり朧は刀なんだから、持ち主さえ良ければ、錆びる事も朽ちる事もない。他の人ともうまく付き合えるんじゃないかな? だから僕が持ち主になる」

「儂は伽耶様の従者じゃ。御曹司に仕えておるのと同じぞ」

「えー、でも母上と取り合いたくないよ。僕だけの朧でいてほしい」


 不服そうに、奏は頬を膨らませる。

 朧は眼を丸くしたが、やがて悪戯を思いついたように嗤う。


「凄まじい口説き文句もあったものよ。儂を召し抱えたいと申すか?」

「召し抱えたい」

「関白殿下の御子息に仕えるというのも面白そうではあるが……御曹司は、儂に何を授けてくれる?」

「……?」


 朧の問いに、奏は首を傾げた。


「儂は御曹司を守る太刀となろう。御曹司の為に人を斬り、御曹司の為に我が命を捧げよう。然れど、御曹司は儂に何を与えてくれる? 御恩と奉公は、鎌倉殿の頃より続く武家の倣いぞ」

「将来、僕が関白殿下の子息と認められたら、領地は貰えると思うけど」

「土地などいらぬ。それでは覇天と同じではないか。然りとて扶持を餌に召し抱えられるのもつまらぬ。偖……御曹司は、何を以て儂を従わせる? この世で最も良く斬れる刀じゃ。そう容易くは手に入らぬぞ」

「うーん。朧に与えられる物か。武具、金銀、調度……他に何があるだろう?」


 純粋無垢な奏は、指折り数えて考え込む。

 少々悪ふざけが過ぎたようだ。真面目な奏は、他愛もない冗談を真に受け、懸命に答えを導き出そうとしている。

 だが、朴訥な性分を愚かしいとは思えない。人を殺めても動じない朧は、奏の純粋さが太陽の如く輝いて見えるのだ。


「時間はいくらでもある。ゆるりと考えればよい。荘子曰く――管を以て天を窺い、錐を以て地を指すなり。答えが出るまで気長に待とう」


 ぽんと奏の肩を叩き、一人で庵に戻ろうとすると、


「あっ――良い事、思いついた!」

「ん? 何を――」


 振り向いた朧の頬に、奏の唇が軽く触れた。


「これでダメ?」


 奏は無邪気に笑った。


「……ぷっ」


 口元に手を当てて堪えようとしたが、朧は我慢しきれずに腹を抱えて嗤う。


「カカカカッ、負けじゃ負けじゃ! 儂の負けじゃ!」

「よく分からないけど、勝てて良かった。朧も強かったよ」

「瞬殺されてしもうたがの。クククッ」


 朧は眼に涙を浮かべて哄笑する。

 暫くの間、げらげらと嗤い転げていたが、歓喜の奔流が収まると、朧は改めて片膝を地につけ、大刀の背に回した。

 武者座むしゃずわりと言う。

 武家の膝行しっこうである。


「斯様な褒美を授けられては、もはや是非もなし。本日此の時より、渡辺〇〇は豊臣奏様とよとみのかなでを主君と敬い、我が命を以て御奉公仕りまする」


 〇〇は朧のいみなである。

 古来より武家の子女は、家族以外に諱を隠すのが仕来りだった。


「これからもよろしくね」


 奏は涼しげな笑みを浮かべて、右手を差し出した。


「うむ。此方こそ宜しく頼むぞ。これからも儂を楽しませてくれ」


 小さな手を引かれて、朧が立ち上がる。

 高く結んだ髪が、竹林を吹き抜ける風にそよいでた。

 今年の夏も暑くなりそうだ。




 天正十九年……西暦一五九一年


 四尺……約1.2m


 家宰……筆頭家老


 鎌倉殿……源頼朝

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