第二章【やるべきことは人それぞれ】

第5話『私の至福の時間』

 今日も私は五時五十分に鳴るスマホの軽快なアラームで目を覚ます。

 澄んだ朝、気持ちの良い空気、変わり映えのない日常。

 人によっては、それがつまらないだなんて言う人はいるのだけれど、私はこの変わらない日常こそに感謝している。


 体を起こし、洗面台へ。

 まず初めに洗口液で口を濯ぎ、三十秒ほど経ったら吐き出す。ついでに顔を洗う。

 これまでの時間、五分。

 その足で台所へ向かい、朝食の材料を出す。準備は整った六時。


 私にはやらなければならないことがある。これは絶対に欠かせないこと。急いで二階に向かわないと。


(ああ良かった。今日も間に合った)

「おはよう舞、起きる時間よ」


 欠かせない日課、それは妹である舞を起こすこと。そして、起きるまでに掛かる時間の猶予を活かして、世界一可愛い寝顔を堪能する。

 なんて可愛いの、今なんてほら、「むにゃむにゃ」なんて言って口元を拭いているわ。

 お寝坊さんね。きっと、夢の中では美味しい食べ物を幸せそうに頬張っているに違いないわ。

 普段は出したがらないおでこだって、寝ている時はこんな無防備に曝け出しちゃって。オシャレに興味を持っているのはわかっているけれど、素のあなたが一番可愛いのよ。


「お姉ちゃん、もう食べられないよぉ~」


 あら、あらあら、あらあらあら。

 寝言を言いながら私の腕を掴んじゃってまあ。どうしてこういう時に限ってスマホを持ってきていないの。

 でもダメね。

 写真を撮ってるだなんてバレたら怒られるし、なにより、そんな些細なことで起こしてしまうのはかわいそうだわ。


 でもそろそろ、この至福の時間も終わり。

 六時十分。

 このまま遅刻するならば、甘んじて罰は受け入れるのだけれど、それは私都合。舞にとってそれはかわいそうだから、心を鬼にしなくてはならないわ。


「舞、起きないと遅刻しちゃうわ。さ、ほらほら、起きなさい」

「――ん? あ、お姉ちゃん~おはよー」


 ずっきゅン。

 ボサボサになった髪にお腹や胸元が見えてしまうほどはだけたパジャマ。見た目だけでは女の子として不合格なのかもしれないけれど、愛する妹としては百点、いや、一億点をあげちゃうわ。

 こんな世界一可愛い妹を生んでくれた両親に感謝しなくてはならないわね。いや、神様かしら。いいわ誰でも、生まれてきてくれたことだけに感謝ね。


「さあ、目を覚ましたのならお顔を洗ってらっしゃい。可愛いお顔に汚れが付いてしまっているわよ」

「ほえ……? え、ええ! まさか私、涎を垂らしながら眠ってたの!? キャー」


 そういうのって、案外自分では気づかないものなのかしらね。


 舞は飛び起きて物凄い勢いで階段を駆け下りていってしまったわ。

 なら、私も朝食の準備をしなくっちゃね。




「お姉ちゃん、今日も朝食を作ってくれてありがとうっ。美味しいよ。私の大好きな卵焼き! 甘くて美味しい~し~あ~わ~せ~」

「ふふっ、そんなに喜んでもらえるのなら作り甲斐もあるってものよ」


 そう。そうなのよ。私はその幸せそうに食べる姿を見れるだけで嬉しいのよ。それはもう、天にも昇ってしまいそうな気持ちよ。


「ふわぁ~。昨日も課題が終わったの一時ぐらいなんだよー」

「それはダメじゃない。夜更かしはお肌の天敵よ」

「そうだよね、わかってはいるんだけどついスマホで動画を見ちゃうんだよ。あー、面白かったーって喜んでると気づけば二時間が経過。とか」

「私が教えてあげても良いのだけれど?」

「ダメだよ! いっつもダメダメな私に代わっていろんなことをやってくれてるんだから、手伝ってもらうのはなしなし!」


 私ぐらいになれば、家事や自分の課題を終わらせても尚余裕はあるのだけれど。

 でも、愛しの妹にそう拒絶されてしまうと――私、ちょっぴりショック。落ち込んでしまうわ。


「それもあるんだけど……」

「だけれど?」

「お姉ちゃん、勉強できすぎるし頭の回転が速すぎるから、全然ついていけないんだよね」

「えっ」


 パリンッ。

 私のダイヤモンド並みの硬度を誇るハートが崩れた。それはもう粉々に。

 一体全体どうしたら良いというの。個人的にはそんなつもりは一切ないのだけれど。

 どうしたらいいの。どうしたら、どう、ど、どどどどどどどどどど。


「えー!? お姉ちゃんが口をパクパクして壊れたおもちゃみたいになってるー!? え、どうしちゃったの!? お姉ちゃん、お姉ちゃぁああああああああああん!」




「ほら舞、そんなにスマホばかり見ていると小石に躓いてしまうわよ」

「だってー! 前髪が全然いうことを聞いてくれないんだよー? ほらっ」


 ぴょん。

 左手で抑えられていた舞の前髪が跳ねた。


「ぷっ」


 私はその愛くるしい表情とおかしな方向へ跳ねる前髪につい吹き出してしまった。


「あー! お姉ちゃん、笑わないでよぉ!」

「いいえ、ごめんなさいね。笑ったわけではないのだけれ――ぷふっ」

「それ隠せてないよ! ぜーんぜん隠せてないよっ! あーもー!」

「ごめんなさい、わだとじゃ――ぷっ」


 いやいやいや、本当に悪気はないの、ないのよ。本当よ。

 どちらかというと、面白おかしいというよりは、私は本当に幸せだなって噛み締めていただけなのよ。他の誰よりも恵まれて仕方がないって、そんな幸せが零れてしまった結果なの。

 でも、そんなことをこんな前振りもない状況で言い始めたら、もしかしたら気持ちがられてしまうかもしれないじゃない。


 だから今は、その時が来るまではお口にチャックチャック。


「はぁ……お水を付けたら直ってくれないかなぁ」

「舞は偉いわね。ちゃんと女の子してて。私なんてそんなことは何もわからないわ」

「え? 何それ嫌味? はぁ……はぁ……」

「何よその二重ため息。それも新しい女子高生の流行ってやつなの?」

「違うよちーがーうーっ。お姉ちゃんさ、無自覚なんだろうけど、そのスタイルの良さとか圧倒的顔面偏差値の高さ、周りのみんなはみんなお姉ちゃんを羨ましがってるんだよ」

「そんなことがあるの? 私は特殊な訓練とかそういうのは何もしていないのだけれど。お化粧とか何にもわからないわよ」


 悪気はない、ただ純粋に事実を述べただけ。

 だけど、それが舞の鼻息を更に荒くさせてしまった。


「それ、それなんだよお姉ちゃん。それこそがみんな羨ましがる要因なんだよ」


 気のせいなのはわかっているのだけれど、この時だけは舞に眼鏡と頭に博士帽が見えた気がした。


「女の子はね、みーんな可愛く見られたいから沢山の努力をするのだよ」

「その語尾はどこからやってきたのかしら」

「それは気にしないで。でね、必死に頑張っているんだけど、中々結果として出ないから苦労しているんだよ。でもね、お姉ちゃんはそんな苦労をせずとも、モデルみたいな体型、すれ違う人が振り向くような美貌、誰もが聞いて驚く圧倒的な学力、それら全てを持ち合わせている完璧超人なのが――お姉ちゃん! わかった?」

「いや、私としては全然理解するのが難しいわ。だって、特別に何もしていないもの。体型っていうけれど、どこかの誰かがやっているみたいな間食をなくして、規則正しい量を適切に摂取して運動していれば太るということはないわよね?」

「うぐっ」

「お肌のことだって、やることも明確にせず、ただ夜更かしをするような生活をしなければ、最低限でもお肌が荒れることは避けられるわよね?」

「うぐぐっ」

「学力っていうけれど、定期テストの範囲っていうのは基本的に授業中に出た内容しかないわ。だとしたら、予習復習を徹底して反復学習と応用問題を解いていけば、間違いなく点数は獲得できるわ」

「ぐぎゃー」

「さっきから変な声を上げてどうしたの? どこかいたいの? 体調が優れなかったり?」


 舞は右から左に抜けるような言葉を次々に吐き出し始めた。

 話の九割ぐらいは中身のないことだから耳を貸す気はない。

 でもいいの、とっても可愛いのだから。


「もーう、お姉ちゃんの意地悪ー!」

「ふふっ、確かに少しだけおふざけが過ぎてしまったわね」

「そうだよお姉ちゃん。そんなに意地悪なことばかり言っていると、学校で友達に怖がられちゃうよ?」

「その心配は大丈夫よ。この私が学校で上手くやれていないなんて、想像できる?」

「たしかにそうだよね。お姉ちゃんがそんなはずないもんね」

「ええそうよ」


 友達なんて、作ろうとも思わないわ。

 もしもそんな関係性の人間ができてしまったら、あなたと過ごせる時間が減ってしまうじゃない。


 ああ、学校というシステムが嬉しくもあり、憎くもあるわ。

 舞のこんなかわいい制服をひらひらとなびかせる姿を見られるのはいいのだけれど、クラスという、授業という枠で割かれてしまうのだから。


「ん?」


 奇妙な光景につい足を止めてしまった。


「どうしたのお姉ちゃん」

「いや、なんでもないわ。珍しく可笑しな光景を目の当たりにしただけよ、行きましょう」

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