「しぃっ」

 主任はすかさず部下を注意すると、声をひそめて

「どこでお客様が、聞いているのか、わかりませんよ」

と、辺りを見回す。


 最近、顕著に目につくようになったのは…常連のお客さんに混じって、

物見高い若者が、やって来るケースが増えてきたことだ。

たまたま今日は、予約のお客さんが、ほとんどいないので、

ロビーは閑散としている。

チェックアウトが済んだ時間帯で、チェックインの時間までは、

まだ2時間ほどのタイムラグがある。

こういうときは、次のお客さんを迎えるために、清掃をしたり、

客室を整えたり、各部屋のアメニティを揃えたり、確認作業をしたり、

様々な作業で忙殺される。

だがついつい仕事の手を止めて、主任と新人の会話に、耳を傾ける者も

ちらほらいる。

 主任は眼鏡をはずすと、非難するように、後輩部下を見つめる。

「あなたたち…そういうことを気にする暇があったら、目の前の

 仕事を、ちゃっちゃと片付けなさい!

 早くしないと、次のお客様は、待ってはくれませんよ!」

ピシリと言い放つ。

「はい」

叱られてうつむく新人と、とばっちりを食らって、謝る別の従業員も、

あわてて自分の持ち場へと戻って行く。

「いい?たとえ何があろうと…お客様第一で行動しなさい」

そう付け加えると、再び眼鏡を掛けなおす。


 それを待っていたかのように、フロントの内線が鳴り響く。

主任は目で、新人に合図をすると、彼はあわてて受話器を手に取る。

「フロントです」

受話器の向こうでは、聞き覚えのある声が響いてくる。

「高岸さんと、変わってくれ」

低音のよく響く声を耳にすると、彼は一瞬戸惑う。

(この人って…誰だっけ?)

しばらく逡巡した後、

「あのぉ~お名前は?」

おそるおそる聞く。

「はっ?」

相手は、呆れたように聞き返す。

このホテルでは、当然自分のことを知っているもの…と思っているような

空気だ。

息をのんで、次の言葉を待っているのを感じた。

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