§2-6. 彼女には翼がある


 夏の初め、放課後。6月18日、火曜日。


 基本的には立ち入り禁止にされているはずである特別教室棟の屋上。階下からは吹奏楽部や合唱部の演奏が、開け放された窓からこれでもかとあふれ出てきている。

 グラウンドでは各運動部の元気な声が響き渡っている。


 まるで昨日とそっくりな状況だったが、そっくりなのはそれくらいだ。


 は何かしらの言葉を選ぼうとしているようだが、昨日相対したときよりもすぐ近くにいるのに強気のオーラは全く感じられない。

 それも仕方ないとは思う。

 何せ大事故に遭いかけたのだ。明日には少なくとも地方版のニュースのトップか2番手辺りには顔を出すような内容だろう。


 俺だってかけてあげるべき言葉を思い付けていないまま、どうしようどうしようと悩んでいる内にここまで来てしまったという感じだ。


 ことのほか涼しい風が一段と強く吹いた。それに合わせるようにして、立待月は俺に向き直った。


「……さっきの件だけど」


 そう切り出したものの、まだ何かを迷っているのか悩んでいるのか。立待月は逡巡を隠さずに視線を俺から外した。


 明らかに今は聞き役であるべき俺は黙っておく。あまり見つめすぎるのもいろいろとアレなので、次に彼女が声を発するまではそのままにしておこうと思う。空をぼんやりの眺めながら、雲の流れが思ったより速いなぁなどと思ってみたりする。


 ――しかし、次の句が聞こえてこない。


 しびれを切らしてそちらを見れば、立待月のうつむき加減はそれほどでもなかった。彼女の視線の移動くらいは見える。しかしその視線は一切の落ち着きがなく、きょろきょろくるくるとめまぐるしく動いていた。呼吸も心なしか浅く速い。


 心配にはなる。飲み物でも買ってきて渡したくなったが、かといって今のこの状態の立待月を放置するのも憚られた。

 もうしばらく様子を見てそれで本当にマズくなる一歩手前くらいで階下にある購買に走ろうと思っていたが、すっと小さく息を吸う音が聞こえた。


「さっきの件だけど……」


 同じセリフだった。


 でも、何かの決心が付いたのだろうか、少しだけ声にはハリがあった。


「うん」


 だから、俺も短く返事をする。


「あれは、……あのタイヤは、あなたに直撃する軌道だった」


「……」


 今度はこちらが黙る番だった。


 それは、たしかにそうだろう。あの時、俺のすぐ側にあった木がえぐられていたことからして、少なくとも運が悪ければ直撃は免れなかったと思う。


 しかし、だ。


 何よりも、『あのままだと』というワードに引っかかる。今俺がここでこうして立待月と話しているのだから、俺がこうして居られているのは『そのままではなくなったから』ということに他ならない。


 だったら、いったい何が。


 ――いや、いったい


 答えは、つまりそういうことなのだろう。


「もしかして、立待月が何かをしたのか?」


「……」


 再び、立待月は黙った。


 ここで否定しないということは暗に肯定しているようにも思えてしまうのだが、あくまでも本人の言葉を待ちたかった俺は一緒に黙ってみることにした。


「……まず、ちょっと話させてもらえる? ちょっと、私としては順番で話をしたい」


「それはもちろん。立待月が話したいように話してくれればいいよ」


 是非も無し、というヤツだ。


「ありがとう。……じゃあ、昨日の屋上での話からさせてもらえる?」


「うん。……ん? 屋上?」


「そう」


 そう、と言われても。


 屋上での話といえば、俺が立待月から脅しを受けたことくらいしか記憶に無いが。


「朝倉くん、私の背中に『翼が見えた』って言ったわよね?」


「ああ」


 ――それか、と続けて言いそうになったが我慢。


「……え? ちょっと待て。まさかとは思うけど、アレが俺の気のせいでは無かったとか言うわけじゃない、よな?」


「そのよ。私には翼がある」


 断言をされた。きっぱりと言い切られてしまった。


 少なくとも冗談なんかではないことくらい理解できる。立待月のその眼差しの真っ直ぐさを感じ取れば、誰だって本気で言っていることくらい解る。たとえあまりの非現実さに頭がクラクラしてこようとも、である。


「昨日、話をにしてしまったのは謝るわ。ごめんなさい」


「いやまぁ、それは別に構わないんだけどさ……。要するに俺の見間違いでも見当違いでも何でもなかったってことでいいのか」


「どちらでもない。あの時の貴方の目は寸分の狂いも無かったってことよ」


 できれば夢とかであって欲しかったというのも、本音としてはあるのだが。それはともかくとして、何が本当で何が本当でないのかの区別が付けられる部分は多ければ多いほど有りがたい。


 しかし――、翼、ねえ……。


 ひとり小さく思わずうなってしまう。


 この世のモノとは思えない――なんて喩え方はあるけれど、たしかにあの時に見た彼女は『この世のモノとは思えないような美しさ』に近いモノはあったと思う。

 VFXを最大限に駆使したハリウッド映画くらいならばそのスクリーン越しに見られるかもしれないが、つまりはそのレベルということなわけで。


 結局、やべえってことだ。それは間違いない。


「ただ、どうしてあの時誤魔化したのかっていう部分の言い訳はさせてもらいたいのだけど、……良いかしら?」


「それはまぁ、別に……」


 構わないのだが、何故それを気にするのか――?


 ――あ、まさか。


「もしかしてだけど、昨日『また今度言い訳を聞かせてもらう』的なことを言ったの気にしてるのか?」


「……貴方、変なところで鋭いのね」


「変なところとは失礼な。……否定はしないけど」


 気付いてしまったのだから仕方ない。というか、あれだけ高圧的に言い切られて、それが印象に残らない野郎は居ないだろう。


「そんなん、全然気にしなくていいのにな。律儀なんだな、


「……ふーん? 意趣返しってこと?」


 しっかりと強調しながら言ってみたが、案の定反応してくれた。落ち着き払っているように見えて存外こういうところがあって、むしり安心する。


「ご想像にお任せします」


「だったらとりあえず、言い訳だけ先にさせてもらうけど」


「どーぞ」


「……ムカつくわね」


 ド直球を投げつけられた。


 最も8割程度は冗談だったらしく、強く鋭く一息吐き捨てながら立待月は改めて口を開いた。


「本当は、見えないはずのモノなのよ」


「翼が?」


「そう」


 ――と、言われましても。


「でも、俺、見えちゃったんだよな」


「そうよ?」


「……まさか俺、何かやっちゃいました?」


「知らないし、それだいぶウザいから止めてね」


「はい、すみませんでした」


 一刀両断だった。

 大人しく真面目なトーンに戻す。


「その、それはいわゆる、光学迷彩的な感じの意味合い?」


「んー……。まぁ完全に正解ってわけではないのだけど、近いところはある、かな」


 何かしらの理由で見えなくすることができるようなモノ、あるいはそもそも見えない状態がデフォルトということで考えておけば、少なくともハズレにはならなさそうだ。


「邪魔にはならないのか?」


「普段はしっかり畳んでいるわよ」


「あぁ、なるほど……?」


 簡単に納得するなよ、俺。


「ただもちろんずっと畳みっぱなしっていうのも良くないから、あんな感じで誰も居ないときとかにはストレッチがてら……ね」


「たしかに。羽根を伸ばすのは大事だな」


「……貴方それ、ウマいこと言ったとか思ってないでしょうね?」


 バレてた。


「割と思ってるんだけどな」


「間違ってないから強く指摘しづらくて困るのよ、そういうのは」


「俺がそこで怒られるのは何か違うと思うんだけど」


「別に怒ってはいないわよ? ムカついてはいるけど」


 怒ってんじゃねえか。


 余計な波風を立たせる理由はないので、ここでこの話は止めておくことにする。


 しかし、翼か。羽根か。


 ――天使の羽根。


 某商品名とCMソングが不意に過る。


 だからこそ、俺はこの質問を不用意なくらい自然に投げつけた。


「ちなみに、その翼って実用性あるのか?」


「あるわよ?」


 そして帰ってきたのは、あまりにも自然で、――そしてあまりにも非現実さを伴った回答だった。


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