§1-5. 赤い翼
完全に予想していない反応だった。
まさかの一言、――「え」の一音。
俺が計算に入れていたのは、キレられるか、あるいは締められるか、はたまた殴られるか――とまぁとにかく痛めつけられる系統の反応を最悪のモノとして、少なくとも『ふざけないで』と言われるのがベースにあった。
だからこそ、こんなに呆然とした顔を見せられるなんて思っていなかった。
その顔があまりにも幼く見えて、それにむしろドキッとさせられたのもまた事実だった。
「……」
立待月は幾分か正気を取り戻したようでその表情は通常モードに返ってきたようだが、それでも心ここに在らず感は変わらない。何か考えているようだが、それが何かはもちろん読み取れない。俺を
「……何言ってるのかしら」
「え」
「こんな場面で冗談を言うのなら、もう少し面白いモノにしてほしいのだけど」
――ああ、ですよね。
予想をしていた答えがここでようやく返ってきた。
でも、良かった。少なくとも言葉の限りに詰られたりするような展開にならずに済んで、本当に良かった。その分では安心だった。才色兼備と表現したのには、前回の定期試験では学年順位が一桁だったというウワサを聞いたことがあるからだ。そんな灰色の頭脳が罵倒の言葉を並べてきたら、俺はきっと精神的な痛手を負ったせいで明日から学校に来られないと思う。本当に良かった。
しかし、だ。
「じゃあ、別に何も見えてないよ」
「それも、本当かしら?」
「後ろに幽霊が見えたとかそういう類いのモノは見ていない。それは断言できる」
「そ、そう……」
ムダに面白くない冗談を重ねてしまった感はあるが、それに対するお咎めは無かった。もしかするとホラー系の話が得意ではないのかもしれない。いろいろと間違ってしまった気がして申し訳なくなった。
「ふーん……。まぁ、それならいいわ、そういうことだったら」
「……そうか」
一応は一件落着――と言っていいのだろうか。他にまた何か問題提起をされたのなら別だが、さらに文句を付けてくるような様子は無かった。
「そういうことなら、……話はもうこれで終わり?」
「え? ええ……、まぁ、そうね」
どうにも彼女の歯切れが悪い。心ここにあらずというか、週末の俺のような感じがする。
「どうした、大丈夫か? やっぱりココは暑いからなぁ、脱水とかになってない?」
「平気。平気よ? そういうことじゃないの」
慌てた様子で一歩後ずさる。あまり平気じゃないように見えるし、『そういうことじゃない』というと、だったらどういうことなんだという話になる。
ここで突っ込んだことを聞く意味もあまりない気がするのでこれ以上の追求はしないが、さすがにちょっとは気になる。
俺自身も、いくらか風は通る分だけマシとはいえ、それでも暑さはきっちりと覚えている。喉の渇きも自覚している。さすがに水分補給をしないままで帰路に就くのはマズいだろう。
「俺はこの後購買に寄っていくけど。……来る?」
「…………え?」
聞こえてなかったわけでもなさそうだが、明らかにリアクションに時間がかかっている。これで心配しない人間はいないと思う。
「ホントに大丈夫か? 何かぼーっとしているというか、具合あんまり良くなさそうに見えたから」
「大丈夫だって言ってるでしょ? 大丈夫ったら大丈夫よ。余計な心配は不要よ」
「ああ、そう」
意固地になっているような気もするが、俺は立待月瑠璃花の為人を全く知らない。そもそも本人が拒んでいるのだから無理強いする必要も無い。これ以上の詮索も余計だろう。
「とりあえず、そこの鍵は開けてくれ。俺が帰れない」
「……あ、ああ、そうね。うん」
鍵の束から正解になる鍵を選び、ホールに差し入れて回転。そのすべての動作が覚束ない。
「じゃあ、……帰るわ」
「……あら? 貴方、部活は?」
「今日は休むって言ってある。どれくらい拘束されるか予想できなかったし、だったら今日はいいやって思って」
「そうだったの。……ごめんなさい、わざわざそこまでしてもらう気は無かったのだけど」
「別に。それは俺がそうしても良いと思ったからそうしただけの話だ。気に病む必要はない」
言いながら俺は階段の塔屋へと戻る。そのまま日陰というだけでこんなに違うものかと、少しばかり感動する。部活も委員会も欠席するということで荷物は持ってきていたので、あとはそのまま購買へ立ち寄った流れで帰路に就くプランだ。
周囲には誰の姿も無かった。この時間帯ならば部活動がある生徒はほとんどが活動場所へと移動し終わっているはず。知り合いと鉢合わせになる可能性もかなり低いので、ずる休みだと思われる心配もなかった。
立待月が屋上への扉を施錠し直したのを確認したところで、俺は1階へと向かう。とくに急ぐ必要もないので、ゆっくりと階段を降りていく。
しかし、そのまま彼女を無視して進んでいく気にはならなかった。階段を降りていく最中に実際に後ろを見てはまたあらぬ疑いをかけられかねないので、後ろに連なってくるだろう足音に意識を集中させる。一応、後ろに付いては来ているようだが、どうにも先ほどまでの調子とは違っている。踊り場に辿り着く度にこっそりと彼女の姿を確認するが、やはり何かを考えているようで目の前のモノにはあまり集中できていないような感じがした。そのままだと足を踏み外しかねないので、分からない程度に配慮しながらどうにか1階に到着した。
転落の可能性も無さそうだし、もう大丈夫だろうと思えるところで少し急ぎ足になり、そのまま購買へ。ただの水分だと若干不安になったので、スポーツドリンクを2本購入。振り返ればまだ立待月は居た。この後は、生徒会室にでも行くのだろうか。どこへ向かうでもなくただぼんやりと立っていてくれたので、その点に限れば助かった。
「……ほら」
「え?」
買った2本のペットボトルの内、1本を差し出す。キョトンとした顔の彼女は、ペットボトルと俺の顔との間で視線を数往復させている。
やっぱり、どこか様子がおかしい。
「飲んだ方が良い。屋上暑かったから、油断するとダメだ」
「え、っと……」
立待月はその視線と同様、何かを迷っているかのように右手を数度上げては下げてを繰り返している。旗揚げゲームをしているわけじゃあるまいし。
――ああ、もう。
「ほら」
「……っ」
何度か空を切り続けている手を強引に取り、そのまま手の平を開かせて、さらにペットボトルを握らせる。よく冷えているペットボトルは火照った彼女の手には冷たすぎたのか、一瞬だけ身体ごと肩を強ばらせた。
よくよく考えれば自分でも大胆が過ぎた行動だと思う。女子の手なんて、小学校の行事でやったフォークダンスか何か以来だろう。だけど、どうにも不安定そうに見える立待月の様子を見れば仕方がない。
自分の顔が熱くなってくるのも感じてきたので、勢いに任せて自分のペットボトルを開けそのまま半分くらい飲みきってしまう。
「それ飲んで、しばらくゆっくりしてから帰るなら帰った方が良いと思う」
「あ、……うん。そうさせてもらうわ」
「ん」
締まりの悪い恰好を付けた気しかしない。羞恥心しか湧いてこない。
さよならの挨拶も残さずに、俺は足早にこの場を立ち去る他無かった。
★
「赤い、翼……」
帰路へと付く彼を見送りながら、私は小さく呟いた。
彼の名前は、朝倉橙也。
赤向坂高校1年8組の学級委員兼学校祭実行委員。バドミントン部所属。
身長は平均的。身体の線は細めで、その中でも腰回りはわりと細く見える。とはいえ、わりと筋トレとかはしていそうな雰囲気。
知っている情報と言えばそれくらい。その気になればもう少し調べ上げられただろうけれど何故そうしなかったかと訊かれれば、――それくらいでも充分だと思っていたから。ただそれだけの理由しかない。
だけれど、その理由ももはや無くなった。
「……もう少し調べてみる必要がありそうね、いろいろと」
言いながら私は、彼からもらったスポーツドリンクのペットボトルを数度握って、玄関に背を向けた。
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