第178話 偽りの愛の果てに(後編)
私がスタッフルームにいたベテランの薬師であるウォルト先生にカルテを見せると、ウォルト先生は腹を抱えて大笑いをした。
「ウォルト先生?」
「いや、あはははは。奇跡の天使様もこれは初めてなんだなと思ってね」
「え?」
「ああ、ごめんごめん。おめでただよ」
「へっ!?」
私は思わず変な声を出してしまった。
「やっぱり初めてなんだな。まあ、薬師は何事も経験だよ」
「は、はい……」
そうか。これは思いつかなかった。
だが言われてみればウォルト先生の言うとおり、典型的なつわりの症状だ。
「おめでたなのはいいが、この患者さんか……」
「はい」
笑っていたウォルト先生の顔が一気に真剣なものに変わった。
ただでさえクラウディアさんは不安定な状態だ。こんな状況で無事に赤ちゃんを産むことができるのだろうか?
「かなり大きな精神的ショックを受けてるからなぁ。つわりの症状が重く出たんだろう」
「そうですね」
「ま、でも言うしかないだろうな。いずれ自分で気がつくだろうし」
「はい」
「じゃ、天使様。がんばれよ」
「はい……」
私はこの先に待っているであろう修羅場を想像し、小さくため息をつくのだった。
◆◇◆
私は薬と冷たい食事を持ってクラウディアさんの病室へと戻ってきた。クラウディアさんの嘔吐は治まっており、ベッドの上で落ち着いた様子だ。
ミヤマーさんは所在無げに壁際に立っている。
今まではすぐに部屋を追い出されていたので、それだけでも進歩したと言えるだろう。
「クラウディアさん、新しいお食事とお薬です」
私はサイドテーブルに持ってきた食事と薬を置いた。
「ありがとう。あら? 冷たいんですのね」
「はい。これでも臭いが気になりますか?」
「あら? 不思議ですわね。先ほどはあれほど臭ったのに……もしや、腐っていたんですの?」
「いえ、違います。その、落ち着いて聞いてくださいね」
するとクラウディアさんは真剣な表情で私の目をすっと見てきた。
これができるだけでも、クラウディアさんがかなり回復してきていることは間違いない。
「それと、ミヤマーさんもです」
「え? は、はいっ」
話が振られると思っていなかったようで、ミヤマーさんも慌てて私のほうを見てきた。
「クラウディアさんの症状は、つわりだと思われます」
「「え?」」
二人はポカンとした表情になった。
「正確なことはわかりませんが、逆算すると今年の一月ごろに授かったのだと思います」
すると二人は顔を見合わせ、それからまるで示しを合わせたかのように顔を背けた。
二人とも顔が真っ赤になっているということは、きっと心当たりがあるのだろう。
「これはつわりの吐き気を抑えるお薬です。食前、または食中にスプーン一杯ずつ服用してください」
「え、ええ。ありがとう」
「いえ。それじゃあ私はお部屋の外で待っていますね」
「そう。ありがとう」
ミヤマーさんは顔を真っ赤になったと思えば真っ青になり、再び真っ赤になるというのを繰り返すというなんとも器用なことをしている。
こんな風になる人は初めて見たが、きっとそれだけクラウディアさんの妊娠に驚いているのだろう。
そう考えた私は見なかったことにし、汚物を溜めた壺を回収して病室を出るのだった。
◆◇◆
ホリーが退出した病室内はなんとも気まずい雰囲気となっていた。
宅男はなんと声をかけたらいいのかわからないのかただただおろおろしており、クラウディアはそんな宅男に目もくれず、ホリーから受け取った薬の瓶をじっと見つめている。
「わたくしが……」
クラウディアはどこか寂しげにそう
「あ、く、クラウディア……」
宅男が意を決したようにそう話しかけると、クラウディアは無言で宅男のほうに顔を向ける。
「そ、その……ごめん……」
その言葉を聞いたクラウティアは顔を紅潮させた。
「僕は……」
「出ていって!」
クラウディアは鋭く叫んだ。
「え?」
「出ていってと言ったんです!」
クラウディアは再び鋭く叫ぶ。
「クラウディア?」
「タクオ様が出ていかないのならわたくしが!」
そう言ってクラウディアがベッドから降りようとしたのを見て宅男は慌ててそれを止める。
「わかったから。僕が悪かったからそのままベッドにいてよ。出ていくから」
「早く!」
「ご、ごめん」
宅男は気落ちした様子でクラウディアの病室を後にするのだった。
◆◇◆
私が病室を出ると、すぐにミヤマーさんが病室から追い出されてきた。
「ミヤマーさん、私が話してみます。ミヤマーさんは替えの壺を受け取ってきてください」
「あ、はい。わかりました」
ミヤマーさんは素直に汚物の入った壺を持っていってくれた。壺の交換はミヤマーさんもよくやっていることなので、場所は知っているはずだ。
「クラウディアさん、入りますよ」
私はクラウディアさんの病室へと再び入室した。クラウディアさんはベッドに潜り込んで頭から布団を被っており、嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「クラウディアさん?」
私は呼びかけながらベッドサイドに置かれたちいさな椅子に腰かける。
「どうしましたか?」
「……ホリーさん」
クラウディアさんはベッドの中からか細い声で私の名前を呼んだ。
「はい」
「わたくしは……最低ですわ」
私はじっとクラウディアさんが次の言葉をしゃべるのを待つ。
「タクオ様は悪くないのに……」
「はい」
「すべてはわたくしの罪なのです! それなのにわたくしは! どうしてわたくしはこうも浅ましくも!」
「はい」
「わたくしには子を育てる資格もタクオ様に愛される資格もないのですわ!」
ん? この口ぶりはもしかして?
「クラウディアさんはミヤマーさんに、あっと、タクオさんにどうしてほしいんですか?」
「っ!」
布団の中からクラウディアさんが息を
「クラウディアさんは、悪いことなんてしていないと思いますよ」
そう声をかけるが、答えは返ってこない。
「呪われていたときの記憶はあるんですよね?」
「……ええ」
なんとかそう答えたクラウディアさんの声は固い。
「タクオさんのことは、嫌いですか?」
「っ! それは……それは……そんな……こと……」
「じゃあ、タクオさんがもし、もう二度と会えない遠い場所に行ってしまったらどうですか?」
するとクラウディアさんは再び息を
「どうしてそんな意地悪なことを聞くんですの!? わたくしはっ!」
クラウディアさんが飛び起き、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔で私にそう怒鳴ってきた。
「クラウディアさん、もう答えは出てるじゃないですか」
「えっ? あ……」
「タクオさんのことが好きなんですよね?」
「……でも、わたくしにそんな資格は……」
「きっかけは呪いのせいだったのかもしれませんけど、タクオさんは呪いが解けた今だってクラウディアさんのことを大切にしてくれているじゃないですか」
「でもわたくしはそんなタクオ様を……」
「私、大切なのは今で、これからだと思うんです。過去にしてしまったことをやり直すことはできません。もし呪われていたときのことを後悔しているんだったら、これからは後悔しないように生きていけばいいんじゃないかって、そう思うんです」
と、ここまで言っておいて少し恥ずかしくなってきた。
「私のような小娘が偉そうにこんなこと言うのはちょっと失礼かもしれませんけど……」
そう言って頬をかいたが、クラウディアさんは私の目を真っすぐに見てきてくれた。
「……そう、ですわね。考えてみますわ」
クラウディアさんはそう言うと、再びベッドに横になったのだった。
◆◇◆
翌日の昼下がり、私はクラウディアさんの病室を訪ねた。
「こんにちは。調子はいかがですか?」
挨拶をしてから病室に入る。するとクラウディアさんのベッドサイドにはミヤマーさんが座っており、なんと楽しそうに談笑しているではないか!
「あ、ホリーさん」
クラウディアさんは悩んでいたことが吹っ切れたようで、とても晴れやかな表情をしている。
「クラウディアさん、なんだかスッキリしたみたいですね」
「ええ。助かりましたわ。わたくし、後悔しないように生きようって、そう思ったんです」
クラウディアさんはそう言って左手をミヤマーさんの右手に重ねた。その左の薬指には婚約指輪が輝いている。
「それは良かったです。ミヤマーさん、おめでとうございます」
「え、あ、うん。ありがとうございます」
ミヤマーさんはそう言って恥ずかしそうに左手で頭をかいた。その薬指にはクラウディアさんのものとお揃いの指輪が光っている。
「最初は呪いで作られた偽りの気持ちだったのでしょう。でもわたくしはたしかにタクオ様を愛していましたし、タクオ様も真っすぐにわたくしを見てくださいました」
そう言ってクラウディアさんはミヤマーさんを見た。ミヤマーさんもクラウディアさんをじっと見つめる。
「それにこのタイミングで子を授かったということは、きっと神がわたくしとタクオ様の仲を祝福してくださったのだと思いますわ」
クラウディアさんは幸せそうにそう言い、ミヤマーさんもうんうんと頷いている。
これならもう安心だろう。
「それじゃあ、私はこのあたりで。お二人でごゆっくり」
「ええ。ホリーさん、ありがとう」
「ホリーさん、ありがとうございました」
「はい」
私は暖かい気分で病室を後にする。
きっかけはひどいものだったが、それでもこうして想い合った二人だ。末永く幸せに暮らしてくれたらと願わずにはいられない。
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