第20話:新たなる王
《彷徨える王》の襲撃から、七日ほどが過ぎた。
その日も変わらず、ヒルデガルドは玉座の前に佇んでいた。
装いは、いつもと変わらぬ血の乾いた黒いドレス。
傍に《王器》の眷属である黒い鴉、ヤタを控えさせて彼女は静かに待っていた。
乾いた足音が、薄暗い通路の向こう側から響いてくる。
「や、待たせたか?」
「別に待ってはいないが、待つのは慣れている」
「悪いなぁ」
薄汚れた甲冑姿も、もう随分とこの場に馴染んできた気がした。
灰色狼の友を連れて、ガイストはいつものようにヒルデガルドの元を訪れた。
空に輝く火の心臓は赤々と燃えている時間だ。
そろそろ昼に差し掛かろうという頃に、二人は向かい合う。
「……まったく、心底懲りん男だな」
「ん? いきなりどうした?」
「《彷徨える王》との戦いの後に、まだ挑む気概があるのはお前ぐらいだろうよ。
あれからまだ七日だが、もう七日だ。
人の噂は風より早く、既に王都を越えて国の各所に広まっている。
これほど長く、婚約者を名乗る痴れ者が顔を見せないのは久しくなかったことだ。
この玉座に休みなく現れるのは、今はお前だけだ。ガイスト」
呆れたように笑うヒルデガルド。
そんな彼女の言葉に、ガイストは少しだけ首を傾げた。
「あのイカれた王様は、俺たち二人で倒したわけだしなぁ。
別に腰が引ける理由なんてないだろ?」
「確かに、お前の助けがなくば私でも勝利は困難だったろう。
それについては認める」
「頑張ったから、またご褒美が欲しいねぇ」
「私の膝を貸してやったはずだが? それとも、それでは不服だったか」
「いやいや、十分過ぎるぐらいでしたとも」
他愛もない会話は、和やかな花を咲かせる。
それだけ見れば、仲の良い男女が憩うているようにしか思えない。
だが、実際のところは大きく異なる。
ピリピリと、両者の間で流れる空気は酷く緊張していた。
どちらが一瞬後に斬りかかるのか、それすら分からないぐらいに。
親しんだ気配に狼は平然と、鴉の従者は固唾を飲んで二人を見守っていた。
ゆるりと、自然な動作でヒルデガルドは斧を手にする。
影で形作られた大戦斧の柄を、細い指先が強く握り締める。
合わせて、ガイストも腰の剣を抜き放った。
飾り気のない長剣を流れるように構える。
「なぁ、姫様」
「なんだ」
「また一緒に、飯を食いに行かないか?
ほら、今度は別の店を紹介するって約束しただろ、確か」
「……確かに、そんな話もしたな」
楽しい食事の一時を思い出し、ヒルデガルドの頬が僅かに緩んだ。
けれど、それもすぐに消え去る。
此処にいるのは《忌み姫》。
バルド王国の覇王ガイゼリックの一人娘にして、王ならざる《王器》の守護者。
本人は自覚的に認めはしないが、ガイストには心を開いてはいる。
が、それとこれとは話は別であると、殺気と戦意を総身から漲らせた。
何人であれ、《王器》に触れようとする者は尽く駆逐すると。
「望む通りにしたいのであれば、見事私に勝ってみせろ。
そうすれば、私はお前の思う通りにしよう」
「よし、約束だぞ」
「二言はない。本当に勝てたなら、だがな」
笑う。ヒルデガルドも、ガイストも。
本当に愉快そうに笑い合って――そして、死線を超える一歩目を踏み出した。
「ハァッ!!」
先制を仕掛けたのはヒルデガルドだ。
初手から必殺を狙う大戦斧の一撃は、もう見慣れたものだ。
ガイストは身を低くして、当たれば胴体を吹き飛ばす刃を回避する。
生じた隙に滑り込む形で前に出て、姫の足を狙って剣を振るう。
開幕ではお決まりになったパターンを、ヒルデガルドはいつもの通りに踊る。
空いた手で引き抜いた影の剣で、ガイストの刃を受け止めた。
弾く。弾く。弾く。
それはさながら舞踏の有様だった。
大戦斧と剣を振り回すヒルデガルドに、ガイストは直剣一本で拮抗する。
今のところ、互いに刃の直撃はなし。
すっかり自分の動きを盗み取った相手に、《忌み姫》は愉快げに笑みをこぼす。
「流石だな! よく此処まで練り上げた!」
「まー、散々死んでるわけだし、このぐらいはな!」
称賛の言葉に応えた直後に、ガイストはいきなり後方へと跳ぶ。
一瞬遅れて、足元から無数の剣と槍が飛び出した。
もう何度も殺されている下からの奇襲。
安定した回避を見せる男に、ヒルデガルドは更に追撃を仕掛ける。
「さぁ、これは防ぎ切れるか!?」
下の影から槍衾を生やした上で、頭上にも剣の群れを生成する。
天地から押し寄せる刃の波濤。
《忌み姫》の持つ切り札の一つである大技にも、ガイストは怯まなかった。
「ソイツを防ぐのは流石に無理だわ……!」
無理なので、兎に角逃げ回る。
下から生える武器は、幸いガイストの足よりは遅い。
上から飛んでくる刃に関しては、回避をしながら気合で弾き落とす。
何本かの剣が身体を掠めるが、多少の傷なら無視する。
ヒルデガルドとの戦いにおいて、ガイストは不死を武器とはしない。
そうすれば勝つ目も出てくると知っていながらだ。
当然、姫君もまたそれは分かっていた。
けれど、侮られているとは思わない。
男は男なりの矜持があると、今は理解しているからだ。
理解した上で、ヒルデガルドの方は一切の出し惜しみなしにガイストを迎え撃つ。
「どうした、足が鈍っているのではないか!?
今日も無様な死に顔を晒すというなら、それもまた一興!」
「あんまりジロジロ見られるのは恥ずかしいんだよなぁ……!」
「そう思うのであれば、もう少しあがいてみせよ!」
降り注ぐ剣と、下から突き上げる槍の群れ。
攻撃は無限に続くと錯覚しそうだが、そんな事はあり得ない。
ヒルデガルドは強大だが、それでも彼女も人間だ。
無尽蔵に見える力も、本当に底無しではない。
押し寄せる刃の波濤に、ほんのすこしだけ切れ目が生じる。
その『息継ぎ』の瞬間を、ガイストは見逃さない。
「オオオォォォォォォッ!!」
戦士の咆哮を轟かせ、ガイストは槍と剣の隙間を駆け抜ける。
逃げ回りながらも、一足で届く微妙な間合いを堅持し続けていた。
最短距離を真っ直ぐ貫く剣に、ヒルデガルドの反応は間に合わない。
「ッ……!」
切っ先がドレスを掠める。
その下の皮膚も刃が切り裂き、赤い血が散った。
深手ではないが、決して浅くはない傷。
ガイストは手を緩めず、一歩退いたヒルデガルドに追撃を仕掛ける。
一転して窮地だが、《忌み姫》に焦りはない。
むしろ、その顔は楽しげに微笑んでいて。
「「――では、決着をつけようか」」
姫君の声が、二つに重なってガイストの耳に届いた。
首筋に冷たい風が触れる。
「とッ……!?」
見えてはいなかった。半ば勘だけで、男は首を刈ろうとした刃を回避する。
背後に現れた黒い影――いや、もう一人の《忌み姫》。
一秒前まで追い詰めていたのが、今は二人のヒルデガルドに挟撃された形となる。
どちらが本物で、どちらが影か。
全く同一の姿と全く同一の力を持つ《忌み姫》たちは、改めて大戦斧を構えた。
「「死ね」」
簡潔な処刑宣告を同時に口にして、ヒルデガルドたちが動く。
ここ最近、ようやくたどり着けるようになった領域。
本物と寸分違わぬ影を一体生み出し、二人同時に襲いかかる《忌み姫》最強の技。
ガイスト以外は見た事なく、ガイストも見た時点で死ぬ地獄だ。
完全な連携を実現するその攻撃に、耐えられる道理は――。
「死んでたまるかよ……!!」
僅かにタイミングをずらし、別々の方向から迫る大戦斧。
一つは避けて、もう一つは直剣の刃で無理やり弾く。
ほんの少しだけ体勢を崩したヒルデガルドに、ガイストは間合いを詰めていく。
影ではなく、迷いなく本物の方を選び取った上でだ。
「っ……何故……!?」
「オオオオオォォォォオオオッ!!」
影である事以外は、本物と偽物の区別は無いに等しい。
故にガイストも、これまでこの状況になった瞬間になす術もなく死んでいた。
だが、何故か今日は一瞬で本物のヒルデガルドを看破していた。
困惑する《忌み姫》に、死なぬと覚悟した不死の男は激しく攻め立てる。
「これで終わりじゃないだろ、姫様!!」
「ッ――当然だ!」
挑発めいた言葉に、ヒルデガルドは笑みで応える。
下がろうとした足を止め、愛用の大戦斧を手放した。
ガイストもまた下がる気はなく、愚直に前へ前へと挑んでくる。
近すぎる間合いでは、大戦斧はその大きさゆえに不利。
斧を離した手に剣を抜いて、ガイストの刃を真っ向から受け止めた。
呼び出した影も、このまま遊ばせたりはしない。
こちらは得物は大戦斧の状態で、背後からガイストに攻撃を仕掛ける。
回避はできず、分厚い刃が男の背を切り裂いた。
「このぐらい……!」
死に至らぬ傷ならば、恐れるに値しない。
ガイストは肉を抉られる苦痛にも怯まず、剣を振るい続ける。
その太刀筋にブレはなく、完全にヒルデガルドの戦い方を把握したものだ。
どこのタイミングで刃を打ち込めば良いか。
一連の攻撃動作を、呼吸何回目分で終えるのか。
それはしっかりは見えてないはずの、背後から仕掛ける影に対しても同じだった。
影はヒルデガルド本体の、完璧な合わせ鏡。
だから見えてなくとも、動きはある程度は予測できる。
別の切り札である影の炎も放つが、これもあっさりと見切られて回避された。
ここに至ってガイストは、完全に《忌み姫》の天敵と化していた。
「っ……まさか、ここまで……!」
恐れはない。ただ、驚愕と歓喜に声が震えた。
かつて、これほどヒルデガルドに迫った者はいなかった。
王の座を拒んでから、空の《王器》を求めて次々と現れた者たち。
誰もが彼女を化け物の如く扱い、婚約などと宣いながら屈服のみを望んだ。
だからこそ、ヒルデガルドは《忌み姫》の名の通りに振る舞った。
挑む者を無慈悲に打ち倒し、その墓標を玉座の前に積み上げた。
あるいは、そんな先のない生き方が、死ぬ最後の瞬間まで続くのではと。
ヒルデガルドは、心の何処かで絶望すらしていた。
その闇が、今。
「あ――――」
鋭く閃いた、銀色の刃。
それが、ヒルデガルドの握る影の剣を弾いた。
切っ先を目前に突きつけられては、これ以上はどうする事もできない。
初めてのことだった。
全身を傷と血に塗れさせながら、ガイストは荒く息を吐き出す。
何度も戦い、何度も死を重ねた末に。
ようやくガイストは、生きたまま辿り着いたのだ。
「生きているな」
「正直に言えば、死ぬギリギリぐらいだけどな」
「十分だ。私も決して手は抜かなかった。
……百度は殺すぐらいのつもりだったのだが」
「冗談っぽく言ってるけど、多分本気だよなぁ」
「当たり前だ。本気でなければ、こんな真似するものかよ」
ヒルデガルドに戦意はなく、ガイストの言葉に穏やかに笑ってみせた。
それから、彼女はゆっくりと跪く。
微笑むその表情には、安堵の色が強かった。
「私の、負けだ。
やっと《王器》に相応しき王が現れた。私の役目は、これで終わる」
「…………」
「さぁ、ガイスト。後はお前の望む通りにしてくれ。私には資格がなかった。
あの、《彷徨える王》の言う通り。私と奴は、本質的に何も変わらない。
力があるだけで、愛がない。
誰にも愛されぬ者など、王になるべきではないんだ」
「……姫よ、それは――」
「とりあえず、言いたい事は分かった」
思わず声を上げたヤタを、ガイストは遮った。
剣を引き、鞘に納める。
そうしてから、跪いて項垂れるヒルデガルドに手を伸ばした。
姫君、糸が切れたように動かない。動けない。
己の役目は終わったのだという、諦観と無気力だけが彼女を支配していた。
「よっ、と」
「きゃっ……!?」
それでも、不意に抱き上げられると思わず声が出てしまった。
細い身体をしっかりと抱えて、ガイストは歩を進める。
その先にあるのは《王器》――《緋の玉座》だ。
「ちょっと血で汚れるかもだが、そこは勘弁して欲しい。
まぁ姫様がザクザク斬ったせいだし、構わないよな」
「な……っ、お前、一体何を……!?」
「俺の目的は、あくまで《隠れたる者》から盗まれた《死》を取り返す事。
そのために《王器》の力を使いたいだけで、別に王様になりたいわけじゃない」
「……それ、は」
確かに、ガイストの目的は彼自身が語る通り。
知っていたのに、自分に勝った男が王になってくれると、自然と期待していた。
ならば空の玉座は、空のまま置くしかないのか。
戸惑うヒルデガルドに構わず、ガイストは《王器》の前に立つ。
そのまま――姫を抱えたままで、男は《緋の玉座》に腰を下ろした。
「うーん、ちょっと座り心地硬いなコレ」
「……本当に、何をしているんだ?」
「《王器》の主には、姫様がなるべきだよ。
姫様以上に相応しい奴なんて、何処にもいないんだ」
ヒルデガルドにとっては、あまりにも意外な言葉だった。
自分は王に相応しくない。それは、自分自身が一番分かっている。
「俺は少しだけ、力を貸して貰えば良い。
そのためにも《王器》の主――王様は、絶対に必要だ」
「……ダメだ。私は、愛されて……」
「愛されてるよ。街の連中を見ただろ?
姫様が王都を――国を守ってくれてるのは、みんな知ってるんだ。
それは姫様が、自分の国を愛してるからだろ?」
「…………」
「それこそ、王様には一番必要なことだろ。
少なくとも、流れて来ただけの傭兵モドキには、絶対に備わってないもんだ」
ヒルデガルドは呆然と、男の顔を見上げた。
血と埃で汚れた指が、姫君の頬に触れ、流れた涙を拭い取る。
「…………私、は、愛されて、いるのか?」
「王都の連中と――後は、俺辺りは間違いなくな」
「ッ……!!」
突然の告白に、ヒルデガルドは顔が一気に熱くなるのを感じた。
反射的に殴ってしまったが、ほとんど力は入ってない。
癇癪を起こした子供のように、小さな拳がガイストの胸元を何度も叩いた。
「お前という奴は……っ!」
「や、悪い。やっぱり嫌だったか?」
「…………嫌、ではない」
消え入りそうな声で呟き、ヒルデガルドは拳を下ろす。
そのまま、男の胸にそっと身を預けた。
「姫様?」
「……姫、ではない。私の名は、ヒルデガルドだ。
私に勝った男は、女の名前も口にできないような臆病者なのか?」
「……ヒルデガルド」
「聞こえない」
「ヒルデガルド」
「あぁ、そうだ。私はヒルデガルド――この国の王、ヒルデガルドだ」
微笑む姫君――いや王女は、自らを打ち負かした男の背に腕を回す。
柔らかい感触を、ガイストはしっかりと抱き締める。
ここに《王器》を継承する、新たな王が定まった。
輝きを増す《緋の玉座》の元で、二つの影は一つに寄り添う。
その様を、従者の鴉と灰色狼だけが見守っていた。
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