第7話:激怒する姫君
何故こんなにも苛立っているのか、ヒルデガルドには理由が分からなかった。
ここ数日で見慣れてしまった、あの正体不明な不死身の男。
それが昨日は、結局一度も姿を見せなかった。
「また明日!」とあの男は――ガイストは、去る背中でそう言ったはずなのに。
「……馬鹿馬鹿しい」
こぼした吐息は、思っていたよりもずっと物憂げだった。
些細な事だが、ヒルデガルドは気づかない振りをする。
――どうでも良い、あんな愚か者など。
あの不死性には疑問が尽きないし、《王器》を狙う以上は排除すべき敵だ。
自分があんな無頼の輩が気になるのも、ただそれだけが理由なのだ。
まるで言い訳を連ねるように、胸中で言葉を重ねる。
「…………」
ふと、視線を巡らせる。
誰もいない玉座の間。
あるのは王を失った《緋の玉座》と、散っていった自称婚約者たちの墓標のみ。
己が一人である事を、ヒルデガルドはどうしようもなく意識していた。
孤独など、物心付いた時から慣れ親しんできたはず。
産まれた時に母は死に、王たる父は忌み子に親の顔を見せる事はなかった。
大勢いた家臣たちも、ほとんどが王の方針に従った。
ただ一人である事が当たり前だった彼女にとって、孤独は決して苦ではない。
「……そのはずだ。そのはずなのに」
何故、胸の辺りに吹いてもいない風を感じるのか。
分からない。ヒルデガルドには、自分の感情が理解できなかった。
「あの男は、もう来ないか」
言葉が自然と、唇の端からこぼれ落ちた。
独り言も、別に多い質ではなかったはずだが。
思い返せば、他者とまともに言葉を交わしたのも何時ぶりだろう。
一人である事を意識すればするほど、胸に吹く風が強くなる気がした。
恥ずべき緩みだと、ヒルデガルドは大きく
「私は、この《緋の玉座》の番人だ。それ以上でも以下でもない」
王の資格を己に許さず、半端な簒奪者が玉座を掴む事もまた許さない。
故に彼女はただ一人、この王のいない玉座を護ると決めた。
少々奇態が目立つだけの、路傍の石も同然の男に心を乱されてどうする?
「そうだ、私は王国の影。血の通わぬ《王器》の守護者。それで良い。
いや、そうでなければならない」
囁く言葉の一つ一つで、秘めた心を戒めていく。
徐々にではあるが、ざわついていた胸の奥も落ち着いてきた。
これで良い。非情に徹するのなら、身も心も冷たく鋭い鋼であるべきなのだから。
と――響いてくるのは、微かな足音。
靴の踵が石の床を打つ硬い響きを耳にした瞬間、ヒルデガルドは顔を上げていた。
誰かが来た。誰が? 決まっている、《王器》を求める不届き者だ。
脳裏に浮かぶのは、狼を連れたみすぼらしい戦士の姿。
昨日は現れなかったのに、一日空けてやってくるとはどういうつもりなのか。
――いや、関係ない。またあの男が来たのなら、今度こそ完全に滅するのみだ。
微かに乱れかけた精神に、殺意という芯を真っ直ぐに通す。
粉々にするのも、生き埋めにするのもダメだった。
物理的に殺し切るのは困難だが、拘束して動きを止めること自体は有効だ。
二日前は下衆な戯言に惑わされたせいで、取り逃がす失態を演じてしまった。
「次こそは、必ず」
捕らえて、決して逃さぬよう縛り上げる。
そうしてから、我が身の不死を存分に後悔させてやろう。
ヒルデガルドは獰猛な笑みを浮かべ、近付く侵入者の到着を待つ。
待って、暗い通路の向こうに影が見えてきたぐらいで、ようやく気付いた。
聞こえる足音が、かなりの大人数であるという事実に。
「――ふん。まったく気に食わんが、見事な働きぶりだったな。
あぁ率直に言って、想像以上だ。褒めてつかわすぞ」
「そりゃあどうも」
先ず部屋に入ってきたのは、灰色狼を連れた戦士――ガイストだった。
ここ数日は見慣れた姿ではあるが、普段とは様子が異なる。
薄汚れた格好には、更に酷い埃と血の跡が目立つ。
加えてその手足は鎖で繋がれており、明らかに捕らえられている状態だった。
その後方に続くのは、筋骨隆々とした大男。
金髪を短く刈った、獣の如く野性的な容貌に、火吹き竜の紋が刻まれた胸甲鎧。
こちらも見覚えはあった気がするが、ヒルデガルドは思い出せなかった。
二人が玉座の間に入ると、更に十人以上の兵士が武器を構えて踏み込んできた。
「ここが《緋の玉座》の……」
「バルド王国が有する《王器》、覇王ガイゼリックの至宝……!」
「オイ見ろ、あそこにいるのは……!」
古き神秘に満ちた空間を目の当たりにして、兵士たちは驚きにざわめく。
そして彼らは、緋色の輝きを宿す玉座と、その前に立つ一人の淑女を指差した。
ヒルデガルドは無言。何も語らず、見開かれた眼が射抜くように見つめる先。
集団の先頭に立つガイストは、矢の如き視線を受けて思わず身震いした。
「どうした、臆したか? やはり貴様は臆病者の腰抜けのようだな」
「いや、ウン……別にそれで良いんで、俺はそろそろ……」
「ハハハ、馬鹿を言え。
オレと共に此処まで来たのだ、当然最後まで付き合って貰うぞ」
ビビって相棒の狼と共に下がろうとしたが、メグロスはそれを許さなかった。
腰に下げた大太刀――ヒルデガルドの斧より小振りだが、十分過ぎるほどの重武器。
常人では持ち上げる事すら不可能な鉄塊を、火吹き竜の男は軽々構えてみせた。
「お初にお目に掛かりますな、ヒルデガルド王女殿下!
オレの事は当然、ご存知であろうが――」
「…………」
「それでも王女たる御方に、名を明かさぬのは無礼の極み!
故に名乗りましょうぞ、我こそはメグロス! 火吹き竜のメグロス!
偉大なる父君、覇王ガイゼリックと同じく父祖ラーガンディアの血を受け継ぐ者!」
「…………」
「……ずっとこっち見てる、怖……」
誇らしく高らかに、己の名を堂々と歌い上げるメグロス。
それを聞いているのかいないのか、ヒルデガルドの眼はガイストを見ていた。
未だに何も語っていないが、視線だけで伝わってくる意思もある。
――怒りだ。火を吹く竜の炎にも負けない、燃える怒り。
何故そこまで激怒しているのかまでは、ガイストにも理解できなかったが。
「ヒルデガルド王女殿下! 麗しき覇王の娘、《緋の玉座》を護る《忌み姫》よ!
この一年に及ぶ貴女の蛮行、多くの臣民が心を痛めている!
貴女が何ゆえこのような愚挙に及んだか、今更それを問い質しはすまい!
国家の安寧を乱し、民に無用な苦難を背負わせた罪!
購う術はただ一つ――このメグロスに《王器》を明け渡し、我が妻になる事のみ!
ゼフォン宰相閣下や、大法官クロウェル殿の両名もお認めになって下さっている!
さぁ、今こそ父祖の血を持つ者同士、手を取り合い――」
「やかましい」
一言だった。
ヒルデガルドのたった一言が、メグロスの長広舌を強制的に打ち切った。
大きく声を張り上げたわけでもなく、むしろ囁くような声だった。
にも関わらず、その場にいる全員の耳にヒルデガルドの言葉は届いていた。
静かで、穏やかなはずなのに、背筋が凍りつくほどに恐ろしい。
身を竦ませた者たちを一瞥してから、王女はゆっくりと息を吐いた。
「…………戦士だと思っていた」
「……? ヒルデガルド王女殿下?」
「愚かである事は、これまで挑んできた者たちと変わらない。
得体が知れず、私にあり得ない屈辱を与えた不埒者。
が、何度死してもたった一人で挑んでくる気概だけは、認めざるを得なかった。
それは紛れもなく、戦士の志であると」
緩やかに語るヒルデガルドに、メグロスは戸惑いを見せた。
言葉の向く先が、自分ではない事もすぐ理解できた。
視線も、声も。そのどちらも、向いているのはこの場でただ一人。
ガイストだ。手足を鎖で縛られ、退くこともできずに立ち尽くしている男。
「だが――まさか、このような馬鹿な真似をするとはな」
「……あの、姫様? 姫殿下? 一体さっきから何の話を……」
「この雁首揃えた愚か者どもだ。私には勝てぬと、そう諦めたのだろう?
ただ一人では届かず、届かなければ《王器》にも辿り着けない。
そう受け入れて、こんな連中に取り入ったのだろう?」
「いや、ちょっと姫様? それは誤解で……!」
「弱者の弁など聞きたくもない。
貴様の惰弱さ、愚昧さに、私は腹を立てているんだ。
そうでなければ、このような怒りを覚えるはずがない」
ヒルデガルドの右手が虚空に掴む。
影から現れた黒鉄の大戦斧、その柄に細い指が触れた。
一息に引き抜いて、高く頭上に掲げてみせる。
真っ向から浴びせられる戦意の圧力は、メグロスさえ怯むほどに強い。
「メグロスだったか? お前が誰で、何処の息が掛かってるかもどうでもいい。
普段は一度だけ慈悲を見せる事にしてるが、今回は別だ」
初めて、姫君の眼差しがメグロスを捉えた。
真っ赤に燃える感情の炎。灼熱でありながら、極北の極寒のように凍てついた眼。
およそ人間とは思えない瞳に睨まれ、メグロスは全身が総毛立った。
悪神の眷属たる魔獣や、辺境を根城とする恐るべき亜人たち。
それらの脅威を前にした時でも、これほどの戦慄は感じなかった。
常人であるなら、これだけで臆して膝を屈したかもしれない。
だが、メグロスは決して恐怖に慄くだけの男ではなかった。
「ッ……総員、抜剣! 戦闘準備!」
「「「ハッ!!」」」
鋭く声を上げ、後方に控えた兵士たちに命じる。
メグロスは《英雄》だ。誰よりも勇敢に、誰よりも勇猛に戦う義務がある。
《英雄》ならざる兵士たちもまた、その背と声に奮い立つ。
ヒルデガルドの圧に晒されながらも、怯むことなく武器を構えた。
その様は詩人が歌う叙事詩の一節のような、ある種の美しさがあった。
「――大人しく背を向ければ、兵は見逃しても良かったが」
しかし、そんなものに暴虐な嵐は斟酌しない。
憤怒と殺意を炎として瞳に燃やしながらも、ヒルデガルドの思考は冷徹だ。
並び立つ兵士たちと、彼らの前に立つ《英雄》メグロスの実力。
その全てを、彼女の眼は正確に読み取っていた。
「今の私は忙しい。愚か者に、今度こそ正当な裁きを下さねばならないからだ」
「なぁ姫様、できればちょっと話を……!」
「黙れ、聞きたくもない」
懲りずに戯言を吐こうとするガイストを、ヒルデガルドは一言で切って捨てた。
大戦斧を掲げる手が、柄を強く握り締める。
力を入れただけの動作だが、それだけで大気が軋んだ。
勇ましく武器を構える簒奪者たちへと、《忌み姫》は無情に告げる。
「全員、残らず屍となれ。
墓標だけは私の手で刻んでやる、光栄に思うが良い」
そして、一方的な戦いが始まった。
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